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聞き取り

医者が来たのは、王子が帰ってから六日後である。


 来たのは、わたしが呼んだからではない。


 誰が呼んだのかも、最初は知らなかった。


*


 その男は、ペランと名乗った。


 王都で、この種の病を診る者としては、いちばん名が通っているのだという。この種の病というのが何なのかは、誰も言わなかった。


 応接室に、椅子が二つ置かれた。向かい合わせである。


 わたしは、片方に座った。


 ペランは、もう片方に座って、膝の上に紙を置いた。


 そして、わたしの目を、まっすぐ見た。


 わたしは、立ち上がった。


「お、お嬢様?」


「この人、やる気?」


「は」


 マノンが、たいへん慌てて説明をはじめた。説明は要領を得なかったが、要するに、この男はそういう人間なのであって、争う気はないのだそうだ。


 わたしは、椅子に座り直した。


 ただし、椅子を少し横にずらした。正面が合わないようにである。


 ペランは、紙に何か書いた。


*


「では、いくつかお訊ねします」


「うん」


「お名前を」


「オデット」


「ご家名も」


「……シャルヴィル」


 少し時間がかかった。


 ペランは、また何か書いた。


「本日は、何月何日でしょうか」


「知らない」


「ご存じない」


「うん」


「では、昨日は何をなさいました」


「寝てた」


「一日中?」


「昼は、屋根の上。夜は、庇」


 ペランの手が、止まった。


「……屋根」


「うん」


「屋根の上で、何を」


「鳩を見てた」


 ペランは、紙を一枚めくった。


*


 この聞き取りは、たいへん長かった。


 わたしは、全部正直に答えた。隠すことがないからである。嘘をつくには、相手が何を知りたいのかを考えなければならない。考えるのは、面倒である。


 そのうちの、いくつかを書いておく。


「人が大勢いる場所は、お好きですか」


「嫌い」


「なぜ」


「逃げ道がない」


    *


「夜、よく眠れますか」


「眠れる。昼も眠れる」


    *


「悲しいと思うことはありますか」


「ない」


「嬉しいと思うことは」


「ある」


「どのようなときに」


「あたたかいとき。あと、食べたとき」


    *


「ご自分が、以前と違うと感じますか」


「違う」


「どのように」


「前のことは、知らない」


 ペランの手が、また止まった。


「……ご記憶が、ないのですか」


 わたしは、少し考えた。


 ここは、正確に言うのが難しいところである。


 わたしは、前のオデットの記憶を持っていない。だが、この体は持っている。詩の三行目までは出てくるし、茶の器の持ち方も知っている。胸のあたりは、ときどき勝手に動く。


 それを、人間の言葉で言うと、どうなるのか。


「体は、おぼえてる」


 わたしは、そう言った。


 ペランは、長いこと、わたしを見ていた。


 目は見ていなかった。手元の紙を見ていた。


*


 聞き取りは、二刻で終わった。


 ペランは、父と母に呼ばれて、別の部屋に入った。


 わたしは、物置に戻った。


 戻って、庇に出た。


 この日は曇っていた。瓦があたたまっていない。わたしは膝掛けを被って、屋根を見ていた。


 下の部屋で、話が続いていた。


 三階の庇は、二階の窓の、少し上である。


 猫の耳なら、届く。


 人間の耳では、届かない。


 わたしは、人間の耳を持っていた。


 なので、何も聞こえなかった。


*


 聞こえなかったことを、あとでマノンが全部教えてくれた。


 この侍女は、わたしの知るかぎり、この世でいちばん情報の速い生き物である。


「お医者様は、こう仰ったそうです」


「うん」


「ご記憶の一部が失われている。おそらく、四年前の冬の無理が元である、と」


「ふうん」


「ご自身を守るために、ご自分で記憶を手放されたのだろう、と」


 わたしは、庇の上で寝返りを打った。


「それと、もう一つ」


「うん」


「……お嬢様は、いま、九年ぶんの疲れを、一度に休んでおられるのだと」


 わたしは、動かなかった。


「ですから、治療は、必要ないと」


 マノンの声が、少し変わった。


「むしろ、いまが、いちばん良い状態なのだと」


*


 この診断は、半分当たっていた。


 わたしは、九年ぶんの疲れを休んでいるわけではない。わたしは、ただ、猫である。


 だが、この体は、たしかに疲れていたのだろうと思う。


 それは、わたしにも分かる。


 猫は、よく眠る。


 人間も眠る。だが、人間の眠りには、種類がある。眠っても取れない疲れというものが、人間にはあるらしい。わたしがこの体に入ったとき、この体は、そういう疲れを持っていた。


 わたしは、それを、一年かけて寝て、ほどいた。


 ほどいたのは、治そうと思ったからではない。眠かったから寝ただけである。


 だが、結果としては、同じことになった。


 ペランという男は、たいへん良い医者なのだと思う。


 間違ったことを、正しく言った。


*


 その夜、母が物置に来た。


 母は、窓の前に立って、しばらく何も言わなかった。


「オデット」


「うん」


「わたくしが、お医者を呼びました」


「うん」


「あなたに、黙って」


「うん」


 母の声は、低かった。


「お父様は、反対されました。放っておけばよい、と」


「ふうん」


「わたくしは、放っておけませんでした」


 わたしは、庇の上で、少し身体を起こした。


 窓のところに、母がいる。


 灯を持っていない。暗い廊下に立っている。


「オデット」


「うん」


「わたくしは、あなたを、取り戻したかったのです」


 わたしは、聞いていた。


「あの子を。十六の冬より前の、あの子を」


 母は、そこで止まった。


 止まって、少し息を吸った。


「でも、お医者様は、こう仰いました。いまのお嬢様が、いちばん良い状態です、と」


 母の声が、そこで一度、崩れた。


「……わたくしは、何を、取り戻そうとしていたのでしょう」


*


 わたしは、庇の上に座っていた。


 人間が泣くのを、わたしは何度も見たことがある。


 猫だったときからである。


 泣いている人間は、たいてい、触られるのを嫌がらない。嫌がらないが、こちらが近づくと、もっと泣く。だから、わたしは、近づかないことにしている。


 近づかずに、同じ場所にいる。


 それが、わたしのやり方である。


 猫は、たいていそうする。


 泣いている人間のいる部屋から出ていかない。だが、慰めもしない。ただ、そこにいる。


 わたしは、庇の上で、母のほうを向いて座っていた。


 母は、廊下で泣いていた。


 長いあいだ、二人とも、何も言わなかった。


 やがて、母が言った。


「……寒くはありませんか」


「寒い」


「中に、お入りになりませんか」


 わたしは、窓から中に入った。


 物置である。箱と、台と、畳んだ織物がある。


 母は、台のところに座った。


 わたしは、その横の床に座った。


 床は冷たかったが、母の側は、少しあたたかかった。


 胸のあたりが、変な感じになった。


 わたしの手が、持ち上がった。


 止まらなかった。


 わたしは、母の手に、自分の手を乗せた。


 母が、息を呑んだ。


 わたしは、自分の手を見た。


 誰がやったのかは、もう訊かないことにした。


 どちらでもいい。


 やったのは、たぶん、この手である。


*


 翌朝、父がペランに礼金を払った。


 父は、診断書を一読して、こう言ったという。


「よい医者だ」


 そして、こう続けた。


「間違っているが、よい医者だ」


 ジェルマンは、この言葉の意味を訊かなかった。


 二十年、この家に仕えているからである。

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