灰色
ある夜、庇の上に、先客がいた。
灰色のものである。
猫ではない。猫に似ているが、猫はあんな座り方をしない。前肢をきちんと揃えて、尾を体に巻きつけて、背筋を伸ばして座る猫はいない。あれは、座るという行為を、どこかで見て覚えたやつの座り方である。
わたしは、窓枠のところで止まった。
そいつは、こちらを見た。
「よい場所だね」
喋った。
わたしは、窓枠に手をかけたまま、しばらく動かなかった。
この秋から、わたしは人間の屋敷に慣れ、人間の服に慣れ、人間の食事に慣れた。だが、人間でないものが喋るのは、慣れていない。
「そこ、わたしの場所」
わたしは、そう言った。
これが、わたしの最初の言葉である。
灰色のものは、少し首を傾げた。
そして、三寸ほど横にずれた。
わたしは、庇に出て、空いたところに座った。
*
しばらく、どちらも何も言わなかった。
王都の屋根が、暗い中に続いている。灯が、いくつか。
風はなかった。
「あんた、なに」
わたしは、訊いた。
「何だろうね」
「知らないの」
「知っている」とそれは言った。「訊き方が、少し違う」
わたしは、訊き方を変えた。
「あんた、猫?」
「ちがう」
「人間?」
「ちがう」
「じゃあ、なに」
「残っているもの」
わたしは、そいつを見た。
そいつは、王都の屋根のほうを見ていた。
それ以上の説明はなかった。訊いたことには答えたので、それで済んだと思っているらしい。
この話し方は、たいへん効率が良い。
わたしは、この生き物が少し気に入った。
*
「あんた、なにしてるの」
「見ている」
「なにを」
「下を」
わたしは、庇から下を覗いた。
庭がある。木がある。石の道がある。何もない。
「なんにもないけど」
「人がいる」
「いない」
「いた」とそれは言った。「三日前に、あの木のところで、二人が話していた。片方は、嘘をついていた」
「ふうん」
「嘘は、匂いがする」
わたしは、鼻を動かしてみた。
石と、冬の空気と、遠くの煙の匂いしかしない。
「わたし、わかんない」
「君は猫だから」
わたしは、動きを止めた。
この生き物は、いま、たいへん簡単に、わたしがずっと誰にも言われていないことを言った。
「……わかるの」
「わかる」
「なんで」
「見れば、わかる」
そして、そいつは、こう付け加えた。
「君のその体は、人間だ。だが、中にいるのは猫だ。それだけのことだろう」
それだけのことである。
たしかに、それだけのことである。
わたしは、この秋からずっと、それだけのことで、たいへんな騒ぎを起こしてきたらしい。
*
わたしは、庇の上で伏せた。
人間の体で伏せるのは、少し無理がある。それでも、できないことはない。
「あんた、誰かに飼われてる?」
「いない」
「じゃあ、どうやって食べてるの」
「食べている」
「なにを」
「よどんだもの」
わたしは、そいつを見た。
「それ、おいしいの」
灰色のものは、しばらく黙った。
それから、こう言った。
「訊かれたことがない」
「ふうん」
「……おいしくはない」
「じゃあ、なんで食べるの」
「腹が減るから」
これは、分かる。
腹が減ったら食べる。おいしいかどうかは、そのあとの話である。
わたしは、うなずいた。
「わかる」
「うん」
二匹は、しばらく黙っていた。
話が合うというのは、こういうことである。
*
やがて、灰色のものが言った。
「君は、ここで何をしている」
「寝てる」
「それだけ?」
「それだけ」
「下の人間たちは、君が何かをしていると思っている」
「うん」
「君は、何もしていない」
「うん」
灰色のものは、尾の先を一度だけ動かした。
「おかしなことだ」
「うん」
「君が何もしないので、あの家は、少し静かになった」
わたしは、庇の上で、その言葉を聞いていた。
「静かになると」とそれは言った。「よどまない」
「ふうん」
「僕は、あの家では、食べるものがない」
わたしは、起き上がった。
「じゃあ、なんでいるの」
灰色のものは、こちらを向いた。
目は、黄色くなかった。何色でもなかった。
「あたたかいから」
わたしは、その答えを聞いて、何も言えなかった。
これは、わたしが人間の言葉で聞いた中で、いちばんよく分かる答えだった。
*
夜明けの少し前に、灰色のものは立ち上がった。
「行くの」
「うん」
「どこ」
「どこか」
そいつは、庇の端まで歩いて、そこで振り返った。
「ひとつ、訊いてよいか」
「うん」
「君は、戻りたいか」
わたしは、少し考えた。
考えたのは、質問の意味が分からなかったからではない。意味は分かった。
猫の体に戻りたいか、ということである。
屋根を自由に走り、塀を越え、天窓から下を覗き、爪で木を登り、向かいの屋根のやつと同じ高さに並べる体に。
わたしは、庇の上から、下を見た。
三階の下は二階で、二階の下は一階で、一階には厨房があって、厨房ではもう灯がついている。ベルトが起きている。じきにリュシーが起きて、そのあとリゼットが起きて、台を持って三階に上がってくる。
台には、いつも何かが一つ多い。
わたしは、灰色のものを見た。
「わかんない」
「うん」
「でも」
「うん」
「ここ、あたたかいから」
灰色のものは、しばらくそこに立っていた。
それから、こう言った。
「よい答えだ」
そして、屋根の向こうへ降りていった。
降りるとき、足音がしなかった。
*
その朝、リゼットが台を持って上がってきた。
台には、菓子が二つ乗っていた。
一つ多い。
「お嬢様、おはようございます」
「うん」
「本日は、曇りでございます」
「うん」
わたしは、菓子を二つ食べた。
リゼットが、器を並べながら、ひとりで喋っていた。
わたしは、聞いていた。
*
なお、この夜のことについて、後日談がある。
二日後、オーギュストが物置に来た。
彼は、紙を一枚持っていた。
「オデット嬢」
「うん」
「妙なことをお訊きしますが」
「うん」
「おとといの夜、この館の庭に、何かおりましたか」
わたしは、庇の上で振り返った。
「なんで」
「庭師が、朝、妙なものを見たと言っています。灰色の、猫のような、猫でないものだと」
「ふうん」
「本人は、寝ぼけていたと申しております」
オーギュストは、紙を持ち直した。
「ですが、わたしは、この手の話を三度聞いています。三度とも、別の家で、別の者が、同じことを言っている」
わたしは、彼を見た。
この男は、いつもそうである。説明のつかないものを、説明のつかないまま、きちんと数えておく。
「いた」
わたしは、そう言った。
オーギュストは、少し黙った。
「……おられましたか」
「うん」
「どのようなものでしたか」
わたしは、少し考えた。
考えて、いちばん正確なことを言った。
「話が合うやつ」
オーギュストは、その答えを紙に書かなかった。
書かずに、こう言った。
「それは、よいことです」
「なんで」
「あなたに、話の合う相手がいるのは、よいことです」
そして、彼は、こう付け加えた。
「わたしは、あなたと話が合っているかどうか、いまだに分かりませんので」
わたしは、庇の上で、少し考えた。
それから、こう言った。
「合ってるけど」
物置の中が、しばらく静かになった。
やがて、紙を落とす音がした。
この男が物を落としたのは、わたしが知るかぎり、初めてだった。




