書式
この七日のあいだのことに、わたしはほとんど関わっていない。
わたしは、この七日間、ずっと庇の上にいた。寝て、食べて、鳩を見て、また寝ていた。
だから、以下は、あとから聞いた話である。
オーギュスト・ド・メルシエが、一人で何をしていたかという話である。
*
きっかけは、王子だった。
王子が「以前のあなたは、たいへん疲れておられるように見えた」と言ったという話が、どういう経路か、オーギュストのところに届いた。
彼は、それを聞いて、一つのことに気がついた。
自分は、九年前の件を、誰からも直接聞いたことがない。
知っているのは、全部伝聞である。
シャルヴィル家の娘が、十六の年の冬、病に倒れた父の代わりに家の一切を差配した。そのとき、ある家を切った。切らなければシャルヴィル家が沈んでいた。切られた家は没落した。以来、あの令嬢の前で嘘をつく者はいない。
街の誰もが知っている話である。
誰もが知っているのに、誰も「自分が見た」と言わない。
彼は、組合の書記をしていた時期がある。そういう話の匂いを、彼は知っていた。
*
彼は、紙から始めた。
人の話は変わるが、紙は変わらない。
九年前の冬の、市庁舎の記録。登記の写し。差押えの目録。競売の公示。シャルヴィル家の名が出てくるものを、彼は全部洗った。
四日かかった。
出てきたのは、三枚である。
一枚目。九年前の十二月、ある商会に対する債権の実行。額は、八百リーヴル。実行の日付は、十二月の十九日。
二枚目。同じ商会の、倉庫と土地の差押えの目録。一月の七日。
三枚目。その土地が売られた記録。三月。買ったのは、別の商会である。
これだけだった。
彼は、三枚を並べて、長いこと見ていた。
そして、二つのことに気がついた。
*
一つ。
八百リーヴルは、大きな額ではない。
シャルヴィル家が沈むか沈まないかという額ではない。公爵家の年の動きの、百分の一にも届かない。
伝わっている話は「切らなければ家が沈んでいた」である。
沈まない。
二つ。
実行の日付が、十二月十九日である。
そして、当主の署名ではなく、代理の署名になっている。
代理。夫人の名でもない。オデット・ド・シャルヴィル。
十六歳である。
十六歳の娘が、家の書類に署名している。これは、異例である。異例だが、当主が病床にあれば、ありえない話ではない。
問題は、署名の位置だった。
彼は、紙を窓に透かした。
署名欄の、少し上。
ペンの先を置いて、そのまま持ち上げた跡がある。
書こうとして、やめた跡である。
――どこかで、見たことがある。
彼は、その跡を、長いこと見ていた。
*
五日目に、彼は人に会いに行った。
没落した商会の、当時の主である。
七十を過ぎた老人で、いまは娘の家の二階に住んでいる。足が悪い。
オーギュストは、何も隠さずに訊いた。
老人は、しばらく黙っていた。
それから、こう言った。
「シャルヴィルのお嬢様かい」
「はい」
「あの方には、礼を言わねばならん」
オーギュストは、何も言わなかった。
この種の話では、黙っているほうが、話が出る。
「わしのところは、どうしたって潰れたのさ」老人は言った。「あの冬の前から、もう無理だった。借りが五軒ある。シャルヴィルさんは、そのうちの一軒だ」
「五軒」
「五軒だ。いちばん小さいのが、あそこだった」
老人は、膝の上で指を数えた。
「で、いちばん先に来たのが、あそこだった」
「……先に」
「十二月だよ。他の四軒は、年を越してから来た」
オーギュストは、そこで初めて口を開いた。
「それは、良いことなのですか」
老人は、笑った。
「若いの。あんた、商いをしたことがないな」
「ありません」
「十二月に来れば、倉庫が差し押さえられる。倉庫が差し押さえられれば、年末の払いができん。払いができなければ、残りの四軒も来る」
「ええ」
「だから、全部いっぺんに終わるんだ」
老人は、窓のほうを見た。
「一軒ずつ来られてみろ。半年かけて、一枚ずつ剥がされるんだ。その半年のあいだに、わしは女房の指輪を売って、息子を使いに出して、知り合いに頭を下げて、それでも間に合わん。間に合わんことが、半年かかって分かるんだ」
彼は、手を膝に戻した。
「十二月に全部終わったから、わしは一月から、別のことを考えられた」
オーギュストは、黙っていた。
「あのお嬢様は、十六だった」老人は言った。「十六の娘が、そういうことを考えてやるもんかね」
彼は、そこで少し笑った。
「考えてやったのかもしれん。考えずにやったのかもしれん。わしには分からん」
そして、こう言った。
「ただ、あのとき家に来たあの子は、書類を出して、それで帰った。何も言わなかった。励ましも、謝りもしなかった」
老人は、窓の外を見ていた。
「あれが、よかった」
*
六日目に、オーギュストは、もう一人に会いに行った。
当時の市庁舎の書記で、いまは退いている男である。
この男は、九年前の冬の書類を扱った。
「ああ、覚えております」と男は言った。「十六の娘さんが、代理で来られた」
「どのようでしたか」
「どのようと申しますか」
男は、少し考えた。
「……泣いておられました」
オーギュストは、顔を上げた。
「泣いて」
「いえ、人前では泣きません。あの方は泣きません。ただ、目が赤かった。来られたときから」
男は、茶に手を伸ばした。
「書式が、三箇所、間違っておりました」
「間違って」
「ええ。わたしが直しました。日付の書き方と、代理の表記と、あと一つ。初めて書く者は、必ず間違えるところです」
そして、彼はこう付け加えた。
「あの方が、あとで二度も訪ねてこられて、わたしに訊くのです。『どこが間違っていましたか』と。三度目には、間違っていませんでした」
オーギュストは、ゆっくりと息を吐いた。
「それで」
「それだけでございます」
男は、茶を飲んだ。
「あの方は、十六でした。十六の娘さんが、父親の代わりに人の家を潰す紙に署名して、書式を間違えて、泣いて、三度目には間違えなくなった。それだけのことでございます」
*
七日目の夜、オーギュストは、物置に来た。
わたしは、庇の上にいた。
この七日のあいだに、何があったのかは知らなかった。訊かれなかったので、わたしも何も言っていない。
「オデット嬢」
「うん」
「九年前のことを、調べていました」
「ふうん」
「お話ししてもよろしいですか」
「うん」
彼は、話した。
三枚の紙のこと。八百リーヴルのこと。五軒のうちの一軒で、いちばん小さく、いちばん先に来たこと。老人が礼を言ったこと。書式を三箇所間違えたこと。三度訊きに行ったこと。
わたしは、聞いていた。
聞いていたが、他人の話だった。
わたしは、その娘を知らない。会ったこともない。わたしは、その娘が九年かけて作った評判の上に座って、昼寝をしている猫である。
「それで」とわたしは言った。
「はい」
「街の話は、うそだったの」
「嘘ではありません」とオーギュストは言った。「ただ、十倍ほど大きくなっています」
「ふうん」
「八百リーヴルが、家の存亡になり、一軒が、一つの家の運命になり、十六の娘が、冷徹な差配者になりました」
彼は、少し黙った。
「人は、話を大きくします。大きくしたほうが、納得しやすいからです」
わたしは、庇の上に伏せた。
「あの娘は」
「はい」
「それ、知ってたの」
オーギュストは、長いこと答えなかった。
「……知っていたと思います」
そして、こう言った。
「知っていて、訂正しなかったのだと思います。訂正すれば、八百リーヴルの話に戻ってしまう。戻れば、また同じことを頼まれる。冷徹だと思われているほうが、頼まれる回数が減ります」
わたしは、何も言わなかった。
下の厨房で、灯がついていた。
「九年のあいだに」とオーギュストは言った。「その方は、冷徹でいることを、たいへん上手になられました」
*
そのあと、わたしたちは、しばらく何も言わなかった。
王都の屋根は、暗かった。
やがて、オーギュストが言った。
「オデット嬢」
「うん」
「ひとつ、申し上げてもよろしいですか」
「うん」
「わたしは、あなたが何者なのか、いまだに分かりません」
「うん」
「ですが、この七日のあいだ、わたしは、あの方のことを考えていました」
彼の声は、いつもと同じだった。同じだったが、少し低かった。
「十六で署名して、書式を三度直して、九年かけて冷徹になった方のことを」
わたしは、庇の上から、彼のほうを見た。
物置の中は暗くて、顔は見えなかった。
「わたしは、あの方に、一度も訊かなかった」
オーギュストは、そう言った。
「婚約が決まってから四年です。わたしは、一度も訊かなかった。疲れていないか、と」
わたしは、聞いていた。
「訊いていれば、何かが変わったとは思いません。あの方は、答えなかったでしょう」
彼は、紙を持ち直す音をさせた。
「ですが、わたしは訊かなかったのです」
わたしは、庇の上で、少し考えた。
考えて、思ったことを言った。
「あんた、いま、わたしによく訊くけど」
物置の中が、静かになった。
「……ええ」
「それ、おなじこと?」
オーギュストは、長いあいだ、何も言わなかった。
それから、こう言った。
「はい」
わたしは、屋根のほうを向いた。
胸のあたりが、少し動いた。
わたしは、それを、今回は無視しなかった。
無視しなかったが、何もしなかった。
人間の言葉には、これに当たるものが、たぶんない。
猫の中にも、ない。
わたしは、ただ、そこにいた。
*
なお、さっき、他人の話だと思ったのは、少しだけちがっていた。
オーギュストが帰ったあと、わたしは物置に降りて、灯のそばに座った。
そして、机の上の紙に、ペンで線を一本引いてみた。
手が、勝手に動いた。
署名の形になった。
わたしは、それを見た。
オデット・ド・シャルヴィル。
この手は、それを、九年ぶん書いてきたのである。
わたしは、その紙を、灯で焼いた。
なぜそうしたのかは、自分でも分からない。
猫は、ときどき、理由のないことをする。




