冬
冬至の儀というものがある。
年にいちど、王宮の大聖堂で行われる。王と、王族と、上位の家の者が出る。出て、二刻のあいだ、立っている。
二刻である。
わたしは、この話を聞いたとき、三度訊き返した。
「座らないの」
「座りません」
「二刻?」
「二刻でございます」
「なんで」
マノンは、答えられなかった。
あとで父に訊いたら、こう言われた。
「そういうものだ」
人間の社会でいちばんよく使われる説明である。
*
当日の朝から、わたしの機嫌は悪かった。
機嫌が悪いという言い方は、正確ではない。猫に機嫌というものはない。ただ、嫌なことが決まっていて、それが避けられないと分かっている状態が、朝から続いていた。
服が、重かった。
儀式用の服である。布が何枚も重なっていて、首のところが固い。背中に金の飾りがついていて、これが重心を後ろに引く。
「マノン」
「はい」
「これ、動けない」
「お動きになる必要はございません」
「二刻、立ってるだけ?」
「はい」
わたしは、鏡の中の女を見た。
女は、たいへん立派だった。
立派だが、たぶん、屋根には登れない。
*
大聖堂に入って、わたしがまず気がついたのは、匂いだった。
香である。
王宮の香よりも、ずっと強い。
石の床と、何百本もの蝋と、人間が二百人と、香炉が四つ。この四つが、閉じた石の箱の中で混ざっている。
わたしは、入口で足を止めた。
「オデット」と父が言った。「進みなさい」
「うん」
わたしは、進んだ。
位置が決まっていた。前から四列目の、右から三番目。
石の床に、小さな印がついている。ここに立てという印である。
わたしは、その上に立った。
*
儀式が始まった。
始まってから、わたしは数を数えることにした。
蝋の数を数えた。百二十まで数えて、同じのを二度数えたことに気がついて、やめた。
次に、人の後頭部を数えた。四十三まで数えて、前の人が動いたので、分からなくなった。
次に、歌が何回同じところに戻るかを数えた。
四回目で、やめた。
この聖堂の音は、上に昇って、天井で跳ね返って、下に降りてくる。だから、同じ声が二度聞こえる。二度聞こえるので、歌がいつ終わるのか、まったく分からない。
わたしは、天井を見上げた。
高い。
たいへん高い。
そして、その高いところに、ものがあった。
石の出張りである。壁から、細い棚のように突き出している。何のためにあるのかは分からない。たぶん、何の意味もない。
鳩が、そこに一羽いた。
わたしは、その鳩を見ていた。
鳩は、脚を片方上げて、そこに立っていた。
あたたかそうだった。
*
半刻が経った。
足が、痛くなってきた。
人間の足は、こういうふうに立ち続けるようにできていない。できていないのに、人間はこれをやる。やるのが偉いことになっているらしい。
猫なら、半刻あれば三度場所を変える。
わたしは、体重を右に移した。
少しして、左に移した。
また右に移した。
四列目の右から三番目で、公爵令嬢が、ゆっくりと左右に揺れていた。
これは、あとでたいへんな問題になった。
*
一刻が経ったあたりで、わたしは、重要なことに気がついた。
前の列の男の、背中の飾りである。
金の糸で、房がついている。長さは、指三本ぶん。
それが、揺れていた。
男が呼吸をするたびに、わずかに揺れる。
わたしは、それを見た。
見ているうちに、揺れる速さが分かってきた。吸うときに少し上がって、吐くときに下がる。そのあいだに、房の先が、小さく回る。
——あれは、よくない。
猫にとって、目の前で小さく揺れているものは、ひとつの意味しか持たない。
わたしは、自分の手を見た。
手は、まだ、体の前で組まれていた。
わたしは、その手を、もう一度見た。
組まれていた。
まだ組まれていた。
——組まれていなさい。
わたしは、天井の鳩を見ることにした。
鳩は、まだいた。
もう片方の脚に替えていた。
いい身分である。
*
一刻半が経った。
歌が、いちばん長いところに入った。
聖堂の中の全員が、動かない。
誰も、咳もしない。
静かだった。
たいへん、静かだった。
静かな場所で、目の前で、小さいものが、揺れていた。
わたしは、鳩を見ていた。
鳩を見ていたが、視界の下のほうで、房が揺れていた。
鳩を見ていた。
房が、揺れていた。
鳩。
房。
——あ。
*
わたしの手が、動いた。
前に出た。
指が、房に触れた。
触れて、軽く、引いた。
房は、たいへんよくできていた。引くと、少し伸びて、戻る。
わたしは、もう一度引いた。
前の列の男が、振り返った。
*
そのあとのことは、断片的に覚えている。
男の顔が、こちらを向いた。
男の目が、わたしの手を見た。
わたしの手は、まだ房を持っていた。
わたしは、その手を離した。
離して、体の前で組んだ。
男は、わたしの顔を見た。
わたしは、天井を見た。
鳩は、飛び立っていた。
*
儀式は、そのまま続いた。
誰も、何も言わなかった。
だが、その半刻のあいだに、わたしの左の列の三人と、後ろの列の五人が、それを見ていた。
八人である。
八人が見たことは、三日で街を一周した。
*
噂は、二つに割れた。
ひとつ。
曰く、シャルヴィル家のご令嬢が、冬至の儀で、ロシュフォール侯の背に手を触れられたそうだ。
曰く、あれは、何かの合図であったという。
曰く、侯は先月、王弟派に近づいていた。ご令嬢は、公爵家としての立場を、言葉を使わずに示されたのだ。
曰く、なんという――
ふたつ。
曰く、シャルヴィル家のご令嬢は、儀式のあいだ、終始、たいへん落ち着いておられなかったそうだ。
曰く、左右に揺れておられたそうだ。
曰く、天井を、ずっと見上げておられたそうだ。
曰く、そして、前の方の背に、手を伸ばされたそうだ。
曰く、あれは――
曰く、あの方は、どこか、お悪いのではないか。
*
この二つ目の噂は、父にとって、たいへん都合が悪かった。
わたしは、その日の夜、初めて父に叱られた。
叱られるというのは、正確ではない。父は、声を上げなかった。
ただ、こう言った。
「オデット」
「うん」
「なぜ、あれに触った」
わたしは、正直に答えた。
「揺れてたから」
父は、長いこと黙っていた。
たいへん長いこと黙っていた。
それから、額に手を当てて、こう言った。
「……揺れていたか」
「うん」
「揺れていると、触るのか」
「うん」
父は、椅子の背に体を預けた。
この人が、こういう座り方をしたのは、初めてだった。
「オデット」
「うん」
「次は、やめなさい」
「うん」
「できるか」
わたしは、少し考えた。
考えて、正直に答えた。
「わかんない」
父は、天井を見た。
*
その夜、厨房は、たいへん静かだった。
静かだったが、話はしていた。
「お嬢様が、お叱りを受けたんだって」
「初めてじゃない?」
「初めてよ」
ベルトが、鍋を置いた。
「なにをなさったの」
「人の背中の、房をお引きになったんだって」
長い沈黙があった。
ピエールが、ゆっくりと言った。
「……なんで」
「揺れていたからだって」
ピエールは、藁の上に座り込んだ。
「いや」
「うん」
「それは、分かるわ」
ベルトが、ピエールを見た。
「分かるの?」
「分かるだろ。目の前でヒモが揺れてたら、触りたくなるだろ」
「ならないわよ」
「なるだろ」
「ならないわよ」
洗い場のアネットが、鍋を洗いながら言った。
「あたしはね、お嬢様が二刻立っていらしたことのほうが、驚きだよ」
誰も、何も言わなかった。
*
その夜、わたしは庇の上にいた。
足が痛かった。
人間の足というのは、たいへん不便である。
マノンが、湯の入った器を持ってきた。何も言わずに、台の上に置いて、降りていった。
わたしは、足を湯につけた。
これは、良かった。
人間の体には、良いところも、少しある。
*
しばらくして、物置に人が来た。
オーギュストだった。
彼は、いつもどおり、窓から顔を出さなかった。
「冬至の儀のことを聞きました」
「うん」
「房を、お引きになったそうですね」
「うん」
彼は、少し黙った。
それから、こう言った。
「二度、引かれたと聞きました」
「うん」
「……なぜ、二度」
わたしは、庇の上で振り返った。
わたしとしては、これはたいへん答えやすい質問だった。
「一回目、よく戻ったから」
物置の中が、静かになった。
やがて、音がした。
この男が、笑っていた。
声を押し殺して、たいへん苦しそうに、笑っていた。
わたしは、その音を聞いていた。
この一年で、この男が声を出して笑ったのは、初めてだった。
わたしは、庇の上に伏せた。
足は、まだ痛かった。
だが、この夜は、悪くなかった。




