名簿
父が、紙を持ってきた。
紙を持ってくる人間は、この家に二人いる。オーギュストと、父である。オーギュストの紙は一枚ずつ説明がつくが、父の紙にはつかない。父は、紙を置いて、黙っている。
今回も、そうだった。
応接室の机に、名前の並んだ紙が置かれた。十九行ある。一行に一つずつ、家の名前が書いてあった。
「今年の冬の、招きの名簿だ」
「うん」
「見ておきなさい」
父は、それだけ言って、椅子に座った。
帰らなかった。
わたしは、机の上の日なたに座って、紙を見た。
*
紙の上の文字は、わたしには読めない。
正確に言うと、読める。読めるのだが、読もうと思わないと読めない。それは、思わないとできないことである。猫は、思わないとできないことを、あまりしない。
なので、わたしは眺めた。
眺めると、見えるものがある。
十九行のうち、三行だけ、字が少し濃い。インクをつけ直した直後に書かれた行である。つまり、この三つは、あとから付け足されたか、書く前に少し手が止まったかのどちらかである。
もう一つ。
上から六行目のところに、紙がわずかにへこんでいる。字はない。ペンの先を置いて、そのまま持ち上げた跡である。書こうとして、やめた場所だ。
わたしは、六行目に指を置いた。
「ここ、なんにもない」
父が、顔を上げた。
「……何だと」
「なんにもないけど、押した跡がある」
父は立ち上がって、紙を持ち上げ、窓のほうに透かした。
長いこと、そうしていた。
それから、紙を机に戻して、こう言った。
「誰が書き写した」
わたしは知らない。
父は、わたしに訊いたのではなかったらしく、そのまま部屋を出ていった。
*
その日の夕方、書記の男が屋敷を辞めた。
辞めたというのが正しいのかどうか、わたしには分からない。ただ、荷物を抱えた男が裏口から出ていくのを、回廊の上から見た。
男は、門のところで一度振り返った。
屋敷を見上げて、それから、わたしと目が合った。
わたしは、見返した。
男は、急に顔をそむけて、歩いていった。
わたしは、その背中をしばらく見ていた。
別に、睨んだつもりはない。見たから見ただけである。人間は、こちらが見ると、見られたと思う。見られたと思うと、何かをされたと思う。何もしていないのに、たいへん忙しいことである。
*
厨房では、この話で持ちきりだった。
というより、話が三つに割れていた。
「書記のルヴァン様が、名簿に細工をなさったらしいわ」
「細工って」
「ある家の名前を、書かないでおいたのよ。招かれなかったことになれば、その家は冬のあいだ誰にも相手にされない」
「それ、ばれるもんなのか」
「お嬢様が、見抜かれたのよ」
洗い場のアネットが、鍋を置いた。
「どうやって」
「紙を、こう、ご覧になって」
マノンが、机の上の何もないところを指さした。
「ここ、なんにもない、と」
しずかになった。
下働きのリュシーが、おそるおそる口を開いた。
「あの……それは、どういう」
「分からないわ」とマノンが言った。「でも、そこに本当に何もなかったのよ」
「そりゃそうだろ」と馬丁のピエールが言った。「書いてないんだから、何もないだろ」
「違うのよ。何も書いていないということが、そこに書いてあったのよ」
ピエールは、しばらく黙っていた。
「……俺、今日は早く寝るわ」
*
その夜、父がまた来た。
今度は紙を持っていなかった。
父は、応接室の椅子に座って、しばらく何も言わなかった。わたしは机の上にいた。もう日は当たっていなかったが、板がまだ少しあたたかかった。
「オデット」
「うん」
「お前は、あの紙に何が書いてあったか、読んだか」
「読んでない」
「読まずに、へこみだけを見たのか」
「うん」
父は、組んだ手に顎を乗せた。
「……そうか」
わたしとしては、本当のことを言っている。
父は、しばらくそのままでいた。
それから、こう言った。
「来月、王都へ行く」
「うん」
「冬の社交がある。お前も来なさい」
わたしは、机の上で少し身をずらした。
「行かないとだめ?」
「だめだ」
人間の社会には、こういう言葉もある。
*
父は、立ち上がって、扉のところで止まった。
この家の人間は、本当に、扉のところで止まるのが好きである。
「オデット」
「うん」
「王都では、何も言わなくてよい」
わたしは、父を見た。
「お前は、ただ座っていればいい。眠くなれば眠ってよい。誰かに話しかけられたら、わたしのほうを見なさい。わたしが答える」
「うん」
「……それで、こちらは充分だ」
父は出ていった。
わたしは、机の上で丸くなった。
この家の主人は、どうやら、わたしが何もしないことを使うことに決めたらしい。
都合がいい。
わたしも、何もしないつもりである。
*
翌朝、オーギュストが来た。
彼は、書記の男が辞めたことを知っていた。知っていて、それについては一言も触れなかった。
代わりに、こう言った。
「王都へ行かれるそうですね」
「うん」
「屋敷は、どちらに」
「知らない」
「ベルヴュ通りです。公爵家の冬の館で、わたしは一度だけ行ったことがあります」
彼は、少し考えてから、こう続けた。
「三階の、西の端の部屋に、小さな物置があります。窓が高いところにあって、外に庇が出ています。使っている者はいません」
わたしは、彼を見た。
「なんで、それを言うの」
オーギュストは、わたしのほうを見なかった。
いつものように、少し横を見ていた。
「屋敷が変われば、良い場所を探すところから始めねばならないでしょう」
わたしは、しばらく黙っていた。
人間というのは、分かろうとしてくる生き物である。分かろうとして、分からないと、怒るか、勝手に決める。
この男は、分からないままで、場所だけ教えてくる。
「……うん」
とだけ、わたしは言った。
それ以上、言うことがなかったからである。
*
出立は、十日後と決まった。
マノンは荷造りに大騒ぎをし、ベルトは保存の利く菓子を焼き、ジュベールは屋敷に残ることになった。
わたしは、出立の前の日に、西の小部屋に行った。
雨は降っていなかった。
出窓に座って、外を見た。庭の木は、もうほとんど葉を落としていた。
この部屋には、灯が入っていた。
毎日、入っているのだという。
わたしは、しばらくそこにいた。
胸のあたりは、特に何ともなかった。ただ、ここを離れるのは、少し惜しいと思った。
猫は、場所に執着する。
人に執着するのは、そのあとである。




