雨
雨の日は、何もしない。
これは決まりごとではなく、そういうものである。
猫は雨の日に出かけない。出かける理由がないからである。濡れると重くなる。重くなると動きが鈍くなる。鈍くなると、面倒なことが起きたときに間に合わない。それだけの話で、特に深い考えがあるわけではない。
朝から降っていた。
午前のうちに一度やんで、昼過ぎにまた降りはじめた。やんでいるあいだも、空の色は変わらなかった。ああいう日は、どうせまた降る。
この日、屋敷には誰も来なかった。
*
わたしは、西の小さな部屋にいた。
この部屋は、使われていない。椅子が二つと、古い机と、背の高い棚がある。棚には何も入っていない。窓が一つあって、その下に出窓の張り出しがある。板張りで、幅は人ひとりぶんくらい。
ここは、三日前に見つけた。
雨の日は、ここがいい。
理由を説明するのは難しい。日は当たらない。あたたかくもない。ただ、窓のすぐ外に雨が降っていて、ここは濡れていない。濡れていないところから濡れているところを見るというのは、たいへん良いものである。
猫をしていたころから、これだけは変わらない。
わたしは出窓に乗って、膝を抱えて、外を見ていた。
庭の木が、少しずつ色を落としていた。
*
午後に、母が来た。
足音で分かった。母の歩き方は、他の誰とも違う。踵を先に下ろして、そこで半拍止める。あれは、どの部屋に入るときも、入ってよいかを自分に一度訊いている人の歩き方である。
扉が開いた。
「ここにいらしたの」
「うん」
母は、部屋を見回した。
それから、椅子を一つ持ってきて、出窓の少し手前に置いて、座った。
隣には来なかった。
この距離は、悪くない。
*
しばらく、どちらも何も言わなかった。
雨の音がしていた。
母は、膝の上で手を組んで、わたしと同じほうを見ていた。
「この部屋は」と母が言った。「わたくしが嫁いできた年に、ふさいだのです」
「うん」
「寒いからと言われて。でも、本当は、使う人がいなかったからです」
「ふうん」
また、しばらく黙った。
雨が、少し強くなった。
「オデット」
「うん」
「あなたは、変わりましたね」
わたしは、外を見たままでいた。
人間は、こういうとき、たいてい答えを求めていない。求めているときは、声の終わりが上がる。母の声は、上がらなかった。
「わたくしは、ずっと考えていました。あなたが、どこかで壊れてしまったのではないかと」
「うん」
「医者を呼びました。何も分からないと言われました」
「うん」
「それで、わたくしは、もう考えないことにしたのです」
母は、そこで少し笑ったようだった。
「ひどい母親でしょう」
わたしには、それがひどいことなのかどうか、分からなかった。考えるのをやめるというのは、わたしからすると、たいへん健康な判断に思える。考えても腹は減るし、考えなくても雨はやむ。
わたしは、黙っていた。
*
雨が、屋根の端から落ちていた。
一本の線になって落ちて、下の石を打って、跳ねる。ときどき風が吹くと、線が切れて、散って、また一本に戻る。
猫は、これをいくらでも見ていられる。
「あの子は」と母が言った。「よく、ここにいたのですよ」
わたしは、母のほうを見た。
母は、気づかずに続けた。
「十か、十一の頃です。ふさいだ部屋だと知っていて、こっそり入って、その出窓に座って。わたくしは何度も叱りました。寒いから、と」
「ふうん」
「でも、あの子は、雨の日だけは必ずここにいて」
母は、そこで口を閉じた。
閉じて、自分の手を見た。
「……何を言っているのでしょうね、わたくしは」
わたしは、出窓の板に手をついた。
その手が、少し、冷たかった。
胸のあたりが、変な感じになった。
これは、前にもあった。あの茶会の帰りの、箱の中と同じ感じである。痛いのでも、苦しいのでもない。ただ、内側のどこかが、こちらの許可を取らずに動いている。
わたしは、母を見た。
母の髪に、白いものが混じっていた。
わたしの手が、持ち上がりかけた。
母のほうへ。
途中で止まった。
止めたのは、わたしではない。わたしは止める理由を持っていない。手は、勝手に上がって、勝手に止まって、勝手に膝の上に戻った。
母は、気づかなかった。
外を見ていたからである。
*
「お茶をお持ちしましょうか」
と、母は言った。
「うん」
「……うん」
母は立ち上がって、扉のところまで行って、そこで止まった。
「オデット」
「うん」
「この部屋は、またふさぎましょうか」
わたしは、首を横に振った。
人間の首は、こういうときに便利である。
母は、何も言わずに出ていった。
*
茶は、マノンが運んできた。
マノンは、出窓に座っているわたしを見て、少し驚いた顔をしたが、何も言わなかった。茶を机に置いて、それから、持ってきた膝掛けを、黙って横に置いた。
「寒くはございませんか」
「うん」
「……うん」
マノンは、出ていくときに、扉を半分だけ閉めた。
全部閉めない。
これは、いつからか、この屋敷の決まりになっている。わたしが閉じた扉を嫌うからである。誰も、そうしろとは言っていない。言っていないが、いつのまにか、全員がそうしている。
人間というのは、不思議なものである。
何も分かっていないのに、よく見ている。
*
夕方まで、雨は降り続けた。
わたしは、出窓で三度眠って、三度起きた。
二度目に起きたとき、机の上の茶が、新しいものに替わっていた。
三度目に起きたとき、外がもう暗くなっていて、部屋に灯が一つ入っていた。これも、誰が置いたのかは見ていない。
この日、屋敷では何も起きなかった。
噂も立たなかった。誰もわたしを見上げず、誰も深く考えず、誰も「お見事でございました」とは言わなかった。
わたしは、ただ雨を見ていた。
たぶん、この日がいちばん良い一日だった。
*
夜、廊下で、ジュベールがマノンに言った。
「西の小部屋の灯は、毎日入れなさい」
「毎日でございますか」
「毎日だ」
マノンは、少し考えてから訊いた。
「……ジュベールさん」
「何だ」
「お嬢様は、お戻りになったのでしょうか」
執事は、しばらく答えなかった。
銀器の布を持ち直して、それから、こう言った。
「わたしは、そうは思っていない」
「では」
「だが」とジュベールは言った。「あの部屋に灯を入れて、困る者はいない」
彼は廊下を歩いていった。
マノンは、しばらくそこに立っていた。
この屋敷で十年働くというのは、そういうことである。




