↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
6/22

雨

雨の日は、何もしない。


 これは決まりごとではなく、そういうものである。


 猫は雨の日に出かけない。出かける理由がないからである。濡れると重くなる。重くなると動きが鈍くなる。鈍くなると、面倒なことが起きたときに間に合わない。それだけの話で、特に深い考えがあるわけではない。


 朝から降っていた。


 午前のうちに一度やんで、昼過ぎにまた降りはじめた。やんでいるあいだも、空の色は変わらなかった。ああいう日は、どうせまた降る。


 この日、屋敷には誰も来なかった。


*


 わたしは、西の小さな部屋にいた。


 この部屋は、使われていない。椅子が二つと、古い机と、背の高い棚がある。棚には何も入っていない。窓が一つあって、その下に出窓の張り出しがある。板張りで、幅は人ひとりぶんくらい。


 ここは、三日前に見つけた。


 雨の日は、ここがいい。


 理由を説明するのは難しい。日は当たらない。あたたかくもない。ただ、窓のすぐ外に雨が降っていて、ここは濡れていない。濡れていないところから濡れているところを見るというのは、たいへん良いものである。


 猫をしていたころから、これだけは変わらない。


 わたしは出窓に乗って、膝を抱えて、外を見ていた。


 庭の木が、少しずつ色を落としていた。


*


 午後に、母が来た。


 足音で分かった。母の歩き方は、他の誰とも違う。踵を先に下ろして、そこで半拍止める。あれは、どの部屋に入るときも、入ってよいかを自分に一度訊いている人の歩き方である。


 扉が開いた。


「ここにいらしたの」


「うん」


 母は、部屋を見回した。


 それから、椅子を一つ持ってきて、出窓の少し手前に置いて、座った。


 隣には来なかった。


 この距離は、悪くない。


*


 しばらく、どちらも何も言わなかった。


 雨の音がしていた。


 母は、膝の上で手を組んで、わたしと同じほうを見ていた。


「この部屋は」と母が言った。「わたくしが嫁いできた年に、ふさいだのです」


「うん」


「寒いからと言われて。でも、本当は、使う人がいなかったからです」


「ふうん」


 また、しばらく黙った。


 雨が、少し強くなった。


「オデット」


「うん」


「あなたは、変わりましたね」


 わたしは、外を見たままでいた。


 人間は、こういうとき、たいてい答えを求めていない。求めているときは、声の終わりが上がる。母の声は、上がらなかった。


「わたくしは、ずっと考えていました。あなたが、どこかで壊れてしまったのではないかと」


「うん」


「医者を呼びました。何も分からないと言われました」


「うん」


「それで、わたくしは、もう考えないことにしたのです」


 母は、そこで少し笑ったようだった。


「ひどい母親でしょう」


 わたしには、それがひどいことなのかどうか、分からなかった。考えるのをやめるというのは、わたしからすると、たいへん健康な判断に思える。考えても腹は減るし、考えなくても雨はやむ。


 わたしは、黙っていた。


*


 雨が、屋根の端から落ちていた。


 一本の線になって落ちて、下の石を打って、跳ねる。ときどき風が吹くと、線が切れて、散って、また一本に戻る。


 猫は、これをいくらでも見ていられる。


「あの子は」と母が言った。「よく、ここにいたのですよ」


 わたしは、母のほうを見た。


 母は、気づかずに続けた。


「十か、十一の頃です。ふさいだ部屋だと知っていて、こっそり入って、その出窓に座って。わたくしは何度も叱りました。寒いから、と」


「ふうん」


「でも、あの子は、雨の日だけは必ずここにいて」


 母は、そこで口を閉じた。


 閉じて、自分の手を見た。


「……何を言っているのでしょうね、わたくしは」


 わたしは、出窓の板に手をついた。


 その手が、少し、冷たかった。


 胸のあたりが、変な感じになった。


 これは、前にもあった。あの茶会の帰りの、箱の中と同じ感じである。痛いのでも、苦しいのでもない。ただ、内側のどこかが、こちらの許可を取らずに動いている。


 わたしは、母を見た。


 母の髪に、白いものが混じっていた。


 わたしの手が、持ち上がりかけた。


 母のほうへ。


 途中で止まった。


 止めたのは、わたしではない。わたしは止める理由を持っていない。手は、勝手に上がって、勝手に止まって、勝手に膝の上に戻った。


 母は、気づかなかった。


 外を見ていたからである。


*


「お茶をお持ちしましょうか」


 と、母は言った。


「うん」


「……うん」


 母は立ち上がって、扉のところまで行って、そこで止まった。


「オデット」


「うん」


「この部屋は、またふさぎましょうか」


 わたしは、首を横に振った。


 人間の首は、こういうときに便利である。


 母は、何も言わずに出ていった。


*


 茶は、マノンが運んできた。


 マノンは、出窓に座っているわたしを見て、少し驚いた顔をしたが、何も言わなかった。茶を机に置いて、それから、持ってきた膝掛けを、黙って横に置いた。


「寒くはございませんか」


「うん」


「……うん」


 マノンは、出ていくときに、扉を半分だけ閉めた。


 全部閉めない。


 これは、いつからか、この屋敷の決まりになっている。わたしが閉じた扉を嫌うからである。誰も、そうしろとは言っていない。言っていないが、いつのまにか、全員がそうしている。


 人間というのは、不思議なものである。


 何も分かっていないのに、よく見ている。


*


 夕方まで、雨は降り続けた。


 わたしは、出窓で三度眠って、三度起きた。


 二度目に起きたとき、机の上の茶が、新しいものに替わっていた。


 三度目に起きたとき、外がもう暗くなっていて、部屋に灯が一つ入っていた。これも、誰が置いたのかは見ていない。


 この日、屋敷では何も起きなかった。


 噂も立たなかった。誰もわたしを見上げず、誰も深く考えず、誰も「お見事でございました」とは言わなかった。


 わたしは、ただ雨を見ていた。


 たぶん、この日がいちばん良い一日だった。


*


 夜、廊下で、ジュベールがマノンに言った。


「西の小部屋の灯は、毎日入れなさい」


「毎日でございますか」


「毎日だ」


 マノンは、少し考えてから訊いた。


「……ジュベールさん」


「何だ」


「お嬢様は、お戻りになったのでしょうか」


 執事は、しばらく答えなかった。


 銀器の布を持ち直して、それから、こう言った。


「わたしは、そうは思っていない」


「では」


「だが」とジュベールは言った。「あの部屋に灯を入れて、困る者はいない」


 彼は廊下を歩いていった。


 マノンは、しばらくそこに立っていた。


 この屋敷で十年働くというのは、そういうことである。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。