箱と書類
痩せた男には、名前があった。
「オーギュスト・ド・メルシエと申します」
わたしは、それを三度聞いて、ようやく覚えた。人間の名前というのは長い。長いわりに、呼ぶ以外の用途がない。
「以前からご存じのはずですが」
「うん」
「……まあ、よいでしょう」
この男の良いところは、ここである。訂正しない。
*
その日、彼は書類を持ってきた。
父が三日ほど領地に出ていて、そのあいだに片づけなければならないものがあるのだという。いくつかは、娘の署名でよいのだそうだ。
応接室の机に、紙の束が置かれた。
わたしは、まずその匂いを嗅いだ。
顔を近づけて、端から順に。人間はこれをしないが、理由が分からない。紙というのは、ずいぶんいろいろな匂いがする。どこで作られたか、どれくらい古いか、誰が長く持っていたか。犬ほどではないが、わたしにも分かる。
オーギュストは、わたしがそれをやっているあいだ、黙って立っていた。
止めなかった。
これも、この男の良いところである。
「八枚目」とわたしは言った。
「……はい?」
「これだけ、匂いがちがう」
彼は、八枚目を抜き取った。
しばらく見ていた。表を見て、裏を見て、窓のほうに透かして、それから、いちばん上の行と、いちばん下の行を、交互に見た。
「……書式が、新しい」
彼は言った。
「他の七枚は、去年の春の書式です。これだけ、今年の秋に改まったほうの綴じ方になっている。同じ日に作られた書類ではありません」
「ふうん」
「どなたかが、あとから一枚足したということです」
「ふうん」
わたしは、机の端に手をついて、そこに座った。椅子ではなく、机である。この部屋でいちばん日の当たるところが、そこだった。
オーギュストは、何も言わなかった。
*
残りの七枚について、彼は一枚ずつ説明した。
わたしは聞いていた。聞いてはいたが、内容は半分ほど流れていった。人間の書類というのは、同じことを三回ずつ別の言い方で言う。三回目には、もう最初の話を忘れている。
五枚目のあたりで、日が動いた。
机の上の日なたが、少しずれた。
わたしも、少しずれた。
七枚目のあたりで、もう一度ずれた。わたしもずれた。
説明が終わったとき、わたしは机のいちばん端に寄っていた。
「オデット嬢」
「うん」
「署名をなさいますか」
わたしは、ペンを見た。
ペンというのは、持ちにくい。細くて、軽くて、先が尖っている。前肢の指で挟むようにできているらしいが、わたしの指は、挟むという動きをあまり信用していない。
それに、眠かった。
日が当たっていて、部屋が静かで、紙の匂いがして、男が黙っている。こういうときに起きていられる生き物は、たぶんいない。
わたしは、机の上で横になった。
横になって、目を閉じた。
オーギュストが、紙を揃える音がした。
それから、扉の閉まる音がした。
*
二日後、父が帰ってきた。
帰ってきて、わたしを呼んだ。
「メルシエから聞いた」
「うん」
「八枚目は、ドルネ家の裏書きだ。わたしの留守に、お前の署名で通そうとしたものだ。通っていれば、この家が保証人になっていた」
父は、紙の束を机に置いた。
「お前は、七枚にも署名しなかったそうだな」
「うん」
「なぜだ」
「眠かったから」
父は、わたしを見た。
しばらく見ていた。
それから、紙を一枚めくって、こう言った。
「……そうか」
わたしとしては、本当のことを言ったのである。
父は、そのあとマノンを呼んで、応接室の机を、窓から少し離すように言った。
言ったあとで、少し考えて、やっぱりそのままでよい、と言い直した。
*
その夜、マノンは厨房で、たいへん重要な報告をした。
「お嬢様が、署名をお断りになったのですって」
「断った?」
「一言も仰らずに。ただ、お休みになったのですって」
庭師のギヨームが、手を止めた。
「それ、断ったことになるのか?」
「なるわよ」とベルトが言った。「書類に署名しないって、そういうことでしょう」
「いや、まあ、そうなんだけど」
「旦那様も、お認めになったのよ。メルシエ様なんて、お帰りぎわに、ずっと何か考えていらしたわ」
馬丁のピエールが、藁の上に座った。
「なあ」
「なによ」
「あのさ。お嬢様って、寝てるだけじゃね?」
厨房が、しずかになった。
三人は、それぞれ別の方向を見た。
「……まあ」
「結果として、助かってるのよね、この家」
「助かってるんだよなあ」
「う~ん」
ギヨームが最後に唸って、その日も結論は出なかった。
*
三日後、オーギュストがまた来た。
今度は書類を持っていなかった。
わたしは庭にいた。石の上である。昼の熱が、ちょうどよく残っている時刻だった。
「八枚目のことですが」
「うん」
「あなたは、匂いが違うと仰った」
「うん」
「本当に、匂いで分かったのですか」
人間は、これを訊く。訊いたあと、たいてい、こちらの答えを聞かずに自分で別の説明を作る。賢いとか、見抜いたとか、そういうやつである。
わたしは、答えた。
「紙が、ちがうから」
「……紙が」
「作った場所が、ちがう」
オーギュストは、しばらく黙っていた。
それから、石畳の横にしゃがんだ。しゃがんで、わたしと同じ高さになった。
これは、わりあい珍しいことである。
「あなたは」と彼は言った。「わたしが『なぜです』と訊くと、いつも答えてくださる」
「うん」
「他の方には、答えない」
「うん」
「なぜです」
わたしは、片目を開けた。
この男は、何かを訊くとき、こちらの目を見ない。少し横を見て、訊く。そして答えを待つあいだ、動かない。
「あんた、見てこないから」
彼は、何も言わなかった。
それから、立ち上がって、服についた土を払った。
「オデット嬢」
「うん」
「わたしは、あなたが何を考えておられるのか、まだ一度も分かったことがありません」
「うん」
「ですが、分からないままで、結構です」
彼は帰っていった。
わたしは、その背中を少し見ていた。
人間というのは、たいてい、分かろうとしてくる。分かろうとして、分からないと、怒るか、勝手に決める。
この男は、どちらもしない。
わたしは、目を閉じた。
石は、まだあたたかかった。
*
なお、八枚目を作った者が誰であったかは、翌月の社交界で、たいそう面白い噂になった。
曰く、シャルヴィル家のご令嬢は、紙を一目見ただけで偽りを見抜かれたそうだ。
曰く、見抜いたうえで、何も仰らなかったそうだ。
曰く、何も仰らないということは、相手に「気づいている」とだけ伝えるためであり、つまりあれは、恩を売られたのだそうだ。
曰く、ドルネ家は三日のあいだ、眠れなかったそうだ。
曰く、なんという――
「――おそろしい方」
マノンが、留め具を留めながら、うっとりした声で言った。
おそろしい、というのは、たぶん褒めているのだと思う。人間の言葉は、ときどきよく分からない。
わたしは、鏡の中の女を見た。
眠かっただけなんだけど。




