隅の席
箱に入れられた。
中は狭くて、布が張ってあって、悪くない。悪くないのだが、動く。
箱が動くというのは、どういうことなのか。わたしは最初の四半刻、座面の縁に爪を立てようとして、爪がないことを思い出し、それから諦めて、揺れの少ない隅に体を寄せた。
向かいに母が座っていた。
「オデット。今日の茶会には、ブリサック家の方がいらっしゃいます」
「うん」
「先方は、あなたに含むところがおありです」
「うん」
「……あなた、少しは聞いていらして?」
聞いてはいた。ただ、それがわたしに何かをしろという意味だとは思わなかった。
含むところがある人間には、近づかない。それで済む話である。
*
ドルネ家の広間に入って、わたしがまずしたことは、部屋を見ることだった。
出口が二つ。窓が四つ。人間が二十三人。天井が高い。上のほうに手すりのついた通路が渡っていて、そこには誰もいない。あそこがいちばん良い場所だが、たぶん登れない。
次に良いのは、壁を背にできて、両方の出口が見えて、人の流れから外れている席である。
広間の南の隅に、それがあった。
わたしは、そこへ行った。
あとで聞いた話では、このときわたしは、二十三人のあいだを、誰にもぶつからず、誰にも足音を聞かせずに横切ったのだそうだ。わたしとしては、混んでいるところを通ると踏まれるので避けただけである。
隅に座って、わたしは息をついた。
広間のざわめきが、二段ほど下がった。
*
茶が出た。
わたしは、器を持った。
持ってから、自分の手を見た。指が三本、器の柄に添っていて、残りは軽く曲げてある。腕は、肘から先だけが動いていた。誰もこんな持ち方を教えていない。
体が、勝手にやった。
わたしは、この体が九年のあいだ何をしてきたのかを、少しだけ考えた。考えて、やめた。茶は熱すぎたので、少し置くことにした。
最初に話しかけてきたのは、細い声の老婦人だった。この人は音を立てずに近づいてきて、話しているあいだ、わたしをじっと見なかった。わたしはこの人が気に入った。
三人目までは、そういう調子だった。
四人目が、ブリサック家のロゼリーヌ嬢だった。
*
この人は、遠くからでも分かった。
歩くたびに音がする。話す声が、部屋の半分に届く。そして近づいてくるとき、まっすぐこちらの目を見ていた。
人間は知らないのかもしれないが、正面からじっと見るというのは、あれは「やるか?」という意味である。
「オデット様」
ロゼリーヌ嬢は、わたしの正面に立った。
「ご静養なさっていたと伺いましたわ。ずいぶん長く、お顔を見ませんでしたもの。お加減は? もう、お仕事はできますの?」
「うん」
「うん?」
わたしは立ち上がった。
そして、三歩、横に動いた。
ロゼリーヌ嬢の視線から外れる位置である。ついでに、そこは窓から入る日が当たっていた。
「……あの、オデット様?」
わたしは、その人のほうを見なかった。見ないというのは、こちらに争う気がないという合図である。争う気はなかった。近づかれたくなかっただけである。
ロゼリーヌ嬢は、しばらくそこに立っていた。
立っていたが、相手が見てくれない以上、言葉には行き先がない。行き先のない言葉は、部屋に落ちる。落ちたものは、周りの人間が拾う。
誰も拾わなかった。
やがて、ロゼリーヌ嬢は別のほうへ歩いていった。足音は、来たときより大きかった。
わたしは日なたで、茶を飲んだ。ちょうどよく冷めていた。
*
その茶会で、一つだけ、わたしが動いた場面がある。
給仕の娘が、茶をこぼした。
布の上に、丸い染みができた。娘は十四か十五くらいで、手が震えていて、すぐに膝をついて拭きはじめた。
そこへ、この家の女主人の声が飛んだ。
声というより、音だった。高くて、硬くて、広間の端まで届く音である。内容は覚えていない。覚えていないというのは、わたしがそれを言葉として聞いていなかったからで、わたしにとってあれは、上から降ってくる音でしかなかった。
あの音は、よくない。
わたしは立ち上がった。
二十三人が、こちらを見た。
わたしは広間を横切って、膝をついている娘の横まで行って、そこで止まった。
何も言わなかった。言うことがなかった。
ただ、娘とその音のあいだに、立った。
女主人の声が止まった。
止まったまま、しばらく誰も何も言わなかった。二十三人ぶんの沈黙というのは、思ったよりも重い。わたしはその重さの中で、娘が布を絞り終えるのを待っていた。
娘が立ち上がった。
わたしは隅の席に戻った。
茶会は、そのあと何ごともなく続いた。
*
帰りの箱の中で、娘の顔を思い出した。
あれは泣く前の顔だった。泣く前の子どもは、息を吸うのが速くなる。
そう思った瞬間、胸のあたりが、変な感じになった。
説明のしようがない。痛いのでも、苦しいのでもない。毛づくろいをしたくなるときの感じに、少し似ている。相手が小さくて、震えていて、こちらが大きいときに起きる。
わたしは、窓の外を見た。
そういえば、さっき、手が勝手に動きかけた。あの娘の頭のあたりへ。途中で止めたが、止めたのはわたしではない気がする。
向かいで、母が言った。
「オデット」
「うん」
「……いいえ。何でもありません」
母は、そのあと屋敷に着くまで、何も言わなかった。
*
三日のうちに、この茶会の話は街を一周した。
わたしが聞いたわけではない。マノンが、聞いてきたことを全部、着替えのあいだに喋るからである。
曰く、シャルヴィル家のご令嬢は、ブリサック家のご息女の問いに、一言も答えなかったそうだ。
曰く、答えずに、ただ横へ退かれたそうだ。
曰く、あの問いは、九年前の例の件についての当てこすりであり、答えれば非を認めたことになり、否定すれば話が広がる、答えたら負けの問いだったそうだ。
曰く、それを察して、答えることそのものを拒まれたのだそうだ。
曰く、そのうえで給仕の娘を庇われた。あれは「この家のやり方は好まぬ」という意思表示であり、ドルネ家は翌日、使用人の扱いについて内々の申し合わせを改めたそうだ。
曰く、なんという――
「――ご聡明な」
マノンが、留め具を留めながら、うっとりした声で言った。
いや。
わたしは鏡の中の人間の女を見ながら、思った。
嫌いだから避けただけだし、大きい音が嫌だっただけなんだけど。
*
夜、庭に出ると、石畳の横に痩せた男が立っていた。
書類は持っていなかった。
「茶会のことを聞きました」
わたしは石の上に座った。昼の熱が、まだ少し残っている。
「あなたは、ブリサック嬢の問いに答えなかった」
「うん」
「なぜです」
人間は、よくこれを訊く。
「あの人、こっちを見てたから」
男は、しばらく黙っていた。
「……見ていた」
「まっすぐ」
「それは、無礼という意味ですか」
「ちがう」わたしは言った。「やるか、っていう意味」
男は、また黙った。
それから、めずらしく、小さく笑ったようだった。
「オデット嬢」
「うん」
「あなたは、変わられましたね」
「そう?」
「ええ」
男は、それ以上は言わなかった。屋敷のほうを見て、しばらく立って、帰っていった。




