日の当たるところ
三日目の朝、母がわたしの部屋に来て、こう言った。
「マダム・ヴァシェをお呼びしました」
わたしは、その名前を知らなかった。知らなかったが、母の言い方から、これは断るという選択肢のない話だと分かった。人間の言い方には、そういう種類のものがある。
「あなたに、思い出していただくのです」
思い出すも何も、わたしは最初から知らない。
そう言ってもよかったのだが、この三日で一つ学んだことがあった。人間は、こちらが何も言わないと、勝手にいちばん都合のいい説明を選ぶ。選ばせておけば、たいていの場合、面倒は少なくて済む。
わたしは、「うん」と言った。
母は、しばらくわたしを見ていた。
*
マダム・ヴァシェは、細い人だった。
背も細く、首も細く、声まで細い。この種の人間は、餌をやる側でも、餌をくれる側でもない。触ろうとすらしてこない。わたしは、この人をわりあい早い段階で、悪くない人間に分類した。
「オデット様。九年ぶりでございます」
「うん」
マダムの眉が、ほんの少し動いた。
「では、歩いてごらんくださいませ。あちらの壁から、こちらの窓まで」
わたしは歩いた。
壁づたいに歩いた。
部屋というものは、真ん中がいちばん危ない。上から何か落ちてきても、横から何か出てきても、逃げ場がない。壁のそばを行けば、片側は気にしなくていい。これは考えて選んだことではなく、体がそう行くというだけの話である。
窓の下まで来て、わたしは振り返った。
マダムは、扇を持ったまま、動かなかった。
「……オデット様」
「うん」
「なぜ、壁を?」
わたしは、この質問にどう答えるべきか、少し考えた。
「まんなかは、危ないから」
マダムは、扇を閉じた。
*
その日、わたしは全部で六つのことを教わった。
一つ目は、お辞儀である。人間は、頭を下げる。わたしは、目をそらした。相手を認めていて、こちらに争う気がないことを伝えるには、目をそらすのがいちばん早い。頭を下げると、相手が見えなくなる。見えなくなるのは、こわい。
二つ目は、扇の持ち方である。あれは、あおぐためのものではないらしい。持って、開いて、閉じて、どこかに向けることで、何かを伝える道具なのだそうだ。要するに、尻尾である。それならそう言ってほしかった。
三つ目は、椅子である。これは前にも叱られた。
四つ目は、詩の暗唱だった。わたしは覚えていなかったが、口が覚えていた。三行目まですらすら出てきて、そこで止まった。マダムが続きを言った。わたしは、なぜ覚えていないものを口が言うのか分からず、少し気味が悪かった。
五つ目は、会話である。相手が話しているあいだ、こちらは相槌を打つ。適当な間で、適当な言葉を返す。わたしは、「うん」でいけると思っている。
六つ目に入る前に、日が動いた。
窓の下の床に、四角い日だまりができた。
わたしは、そこへ行った。
行って、座った。
マダムは、しばらく何も言わなかった。
「……お寒うございますか」
「あたたかい」
「さようで」
マダムは、その日、六つ目を教えなかった。
*
夕方、玄関でマダムを見送るとき、わたしはその手に気がついた。
右の手のひらの縁が、赤い。皮が薄くなって、めくれかけている。あれは知っている。冬に水を使いすぎた手だ。あのままにしておくと、割れて、そのうち曲げるだけで痛くなる。
「それ」とわたしは言った。「しばらく水につけないほうがいい。油を塗って、布を巻いて寝ると、朝には少しましになる」
マダムは、自分の手を見た。
それから、わたしを見た。
「オデット様は」と彼女は言った。「以前、わたくしの手を、ご覧になったことはございませんでしたわね」
わたしは、何も言わなかった。
馬車が出ていった。
*
その夜、厨房の裏に人が集まっていた。
集まっていた、というより、たまたま三人が同時にそこにいて、たまたま話しはじめただけである。屋敷の話というのは、たいていそうやって始まる。
「壁を歩かれたんだろう」と庭師のギヨームが言った。
「壁を歩かれたのよ」と女中頭のベルトが言った。「マダムが、お帰りぎわに三度も溜息をつかれて」
「お疲れっていうけどさ」馬丁のピエールが、藁を払いながら言った。「あれ、疲れてるとかそういうのは、もう通り越してると思うんだよな」
三人は、少し黙った。
「お医者に、それとなくご相談してみたら」とベルトが言った。
「それ、誰がやるんだよ」ピエールが言った。「奥様に言うのか? 旦那様に言うのか? 怖いだろ」
「そこまでお怒りにはならないと思うけど」ベルトが言った。「なんだか、前より……ふんわりしていらっしゃるし」
「それなんだよな」ギヨームが言った。
また、少し黙った。
「ふんわりしてるだけで、こっちは別に困ってないんだよな、今のところ」
「そういえば」とベルトが言った。「先週から、夜中に灯をつけに行かなくてよくなったのよ。前は、お嬢様が二時三時まで書き物をなさるから」
「そういえば、俺も怒鳴られてない」とピエール。「三日、一度も」
「わたしなんて、褒められたわ」
「褒められた?」
「『その髪、いい匂いね』って」
三人は、それぞれ別の方向を見た。
「……まあ、いいか」
「今のところは、ふんわりしていただいてるから、いいか」
「う~ん」
ギヨームが最後に唸って、それで話は終わった。
結論は出なかった。出なかったが、三人とも、少し軽い足取りでそれぞれの持ち場に戻っていった。
*
翌朝、稽古の部屋に入って、わたしは足を止めた。
机と椅子が、窓辺に移されていた。
昨日まで、部屋の真ん中にあったものである。いまは窓の下の、日の当たるところにある。椅子は、壁を背にする向きに置かれていた。
わたしは椅子に座った。座って、しばらく動かなかった。
背中が壁で、前がひらけていて、日が当たる。
こんなに良い場所は、この屋敷に来てから初めてだった。
扉が開いて、マダム・ヴァシェが入ってきた。マダムは机の位置を見て、それから、わたしを見た。何も言わなかった。
「本日は、六つ目からでございます」
マダムの右手には、布が巻いてあった。
*
廊下で、マノンが執事に訊いた。
「机をお動かしになったのは、どなたでしょう」
「さあ」とジュベールは言った。
「日当たりが悪いと、紙が読みにくい」
それだけ言って、彼は銀器を磨きに行った。
マノンは、廊下にしばらく立っていた。
この屋敷で十年働くというのは、そういうことである。




