高いところ
目が覚めたら、高いところにいた。
高いところはいい。下からは誰も来ないし、来ても先にこちらが気づく。足の下は布で、少したわむが、破れそうではない。腹の下があたたかい。
わたしはそこで、もうひと眠りすることにした。
下のほうで、扉が開く音がした。
「お嬢様、お加減はいかが……」
女の声が途中で止まって、そのあと、たいへんな高さまで上がった。悲鳴というものである。これはよくない。悲鳴が上がると、人間は増える。増えると、面倒なことになる。
わたしは起き上がって、下を見た。
寝台がある。天蓋というものが張ってあって、わたしはその上に乗っている。床までは、猫なら何でもない高さだった。
問題は、わたしがもう猫ではないことだった。
前肢が、やたらと長い。毛がない。爪がない。指だけがたくさんある。こんな体で寒くないのかと思ったが、実際、寒かった。だから布がかぶせてあるのだと、そこで理解した。
とりあえず降りることにした。猫なら、腰を落として、爪を引っかけて、するりと降りる。
するりとはいかなかった。
落ちた。
布団の上だったので痛くはなかったが、女はもう一度悲鳴を上げて、廊下に向かって走っていった。
*
半刻もしないうちに、部屋には七人いた。
鏡というものを、顔の前に持ってこられた。中に人間の女がいる。若くもないが、年寄りでもない。髪が長い。目が黄色くない。
これがわたしらしかった。
「オデット」
いちばん前にいる女が言った。この女の匂いは、悪くなかった。手も乱暴ではなさそうだった。ときどき、そういう人間がいる。餌をくれるかどうかとは別に、手が乱暴でない人間というのが。
オデットというのが、どうやらわたしの名前であるらしい。
「オデット、返事をなさい」
わたしは返事をした。
人間の口は、思ったより思いどおりに動いた。動いたので、わたしは「うん」と言った。
部屋が、しんとなった。
*
朝の食事の席で、わたしは三度叱られた。
一度目は、椅子の上での座り方についてである。人間の座り方は無駄が多い。膝を抱えて座面に乗るほうが、明らかに安定する。
二度目は、皿の上の魚についてである。焼いてあった。焼いてあるのは構わないが、それを金物の先で刺して食べろというのは、わたしには理解できない要求だった。手で持てば済む話である。実際、手で持った。
三度目は、水についてである。器に顔を近づけて飲んだ。それの何がいけないのか、いまだに分からない。
「疲れているのだ」
いちばん奥に座っていた男が、そう言った。この男は父らしい。匂いが薄い。人間には、ときどき匂いの薄いのがいる。そういうのは、たいてい強い。
「このところ、屋敷のことを一人で背負っていた。無理をさせた」
それで話は終わった。
昼に医者が来た。わたしの手首を握り、目の中を覗き、いくつか質問をした。わたしはそのあいだ、医者の肩越しに窓を見ていた。窓の外に鳥がいた。
医者は帰りぎわ、ご静養を、と言った。
わたしはこの日、「ご静養」という言葉を覚えた。人間の社会には、たいへん便利な言葉があるものだと思った。
*
厨房の裏で、侍女のマノンが執事のジュベールに言った。
「天蓋の、上でございました」
「上に」
「上に」
ジュベールは、しばらく何も言わなかった。それから、銀器の布を持ち直した。
「お嬢様は、十二の年から一度も熱を出しておられない」
「はい」
「一度も出しておられない方が、一度出されたのだ」
マノンは、それで納得したわけではなかったが、納得した顔をした。この屋敷で十年働くというのは、そういうことである。
*
午後、客が来た。
部屋に入ってきた瞬間に、わたしは椅子から立ち上がった。
匂いがひどい。花を潰して煮詰めて、それをさらに濃くしたようなものを、首のあたりに塗っている。しかも声が高い。高いだけならまだしも、語尾が跳ねる。あれは、こちらの反応を待たずに次を喋る人間の喋り方である。
わたしは、その人から二歩離れた。
向こうが一歩詰めた。
わたしは三歩離れた。
向こうがまた詰めた。
最終的に、わたしは廊下に出た。廊下を出て、庭に出た。庭の南側に、石畳のあたたまっているところがあったので、そこで丸くなった。
背中に、日が当たっていた。
石はよかった。今日いちばんよかった。
*
その夜、父がわたしを呼んだ。
「ドゥブレ夫人のことだが」
わたしは、昼寝から覚めたばかりだった。
「よく席を立った」
わたしは父を見た。
「あの家は、来月には持たん。今日の訪問は縁談の話ではない。金の話だ。お前があの場で一言でも同情を口にしていれば、明日には『シャルヴィル家が後ろ盾になる』と街中に流れていた」
父は、そこで少し黙った。
「立ったな。何も言わずに」
「うん」
「……うん、か」
父は、めずらしく笑ったようだった。笑ったかどうかは、匂いでは分からない。
「疲れているところを、すまなかった。ゆっくり休みなさい」
わたしは部屋に戻った。
戻る途中の廊下で、侍女のマノンとすれ違った。マノンは壁際に寄って、頭を下げて、それから、たいへん小さな声で言った。
「……お見事でございました」
いや。
わたしは、部屋の扉を閉めながら、思った。
嫌いだから避けただけなんだけど。
*
夕方、庭にもう一人来た。
わたしはそのとき、庭の石の上で二度目の昼寝をしていた。正確には夕寝である。
足音が止まった。止まったまま、しばらく動かなかった。人間は、たいてい動かずにいられない。これは動かない人間だった。
わたしは片目だけ開けた。
痩せた男が立っていた。背が高い。手に書類の束を持っている。この男の匂いは、紙とインクだった。
「オデット嬢」
わたしは目を閉じた。
「……眠いのですか」
わたしは目を開けた。
この男は、いま、たいへん珍しいことをした。
「うん」
「そうですか」
男はそれだけ言って、書類を小脇に抱え直し、石畳の横に立ったまま、屋敷のほうを見ていた。何かを待っているふうでもなかった。
わたしは、もう一度目を閉じた。
背中の石は、まだあたたかかった。




