原簿
その朝、父の書斎の窓の下で寝ていると、郡から人が来た。
馬車の音がして、ジュベールが玄関で迎えた。書斎に通された人は、紙と革と、遠くの町の埃の匂いがした。
「郡の書記、ノワイエでございます」
声は低くて、急がなかった。
「技師から、線が二本出ております。わたくしの仕事は、二本とも、郡の審議に出せる形にすることです。どちらかを選ぶのは、わたくしではございません」
「何を見る」と父が言った。
「原簿です。南の庭と、東の果樹園の。持ち主、借り手、境、それから記された目印。あとは技師の数字を、原簿と合わせます」
「東の果樹園の端は、うちの土地だ」と父は言った。「南の村のガルニエに貸している。りんごは酒にして、冬に飲む分と、秋の市で売る分に分けている」
「原簿で確かめます」とノワイエは言った。「旦那様のお言葉を疑うのではございません。原簿に書いてあるとおりでなければ、審議に出せませんので」
「わかっている」
それで、話は済んだらしかった。
日が南へ回ったので、わたしは石へ移った。
*
茶色い猫は、今日も来なかった。
あいつ、今日も来ない。
石の上で丸くなっていると、ノワイエが庭に出てきた。脇に、大きな帳面を抱えていた。ジュベールが後ろからついてきた。
ノワイエは庭を見回した。草は露で濡れていた。卓はない。平らで乾いているのは、石の上の、わたしのいないほうだけだった。
「こちらを、お借りしてよろしゅうございますか」
ジュベールに訊いたらしかった。ジュベールは、わたしのほうを見て、それからうなずいた。
ノワイエは、石の空いたほうに帳面を広げた。大きな帳面だった。開くと、石の半分が紙になった。
わたしは、紙のほうへ移った。
石よりなめらかだった。紙の端が、石から指一本ぶんほど浮いていて、体を載せると、その浮いたところが少し沈んだ。体の下に一枚あると、具合がいい。
ノワイエは、しばらく黙っていた。それから、わたしのいないところの頁を、指でたどって読みはじめた。
「東の果樹園。シャルヴィル家の地。南の村、ガルニエに貸す。境は、生け垣と、北の端の目印の石。……合っております」
ノワイエは、そこで指を止めた。
「南の庭の欄は」
わたしの下だった。
ノワイエは、ジュベールを見た。
「恐れ入りますが」
ジュベールは、庭の端を振り返った。そこにリゼットがいた。いつからいたのかは知らない。
リゼットは、わたしのそばに来て、背中に手を当てた。
「お嬢様、少しだけ、こちらへ」
手は、ゆっくりだった。押されたぶんだけ、わたしは横へずれた。ずれた先も、紙だった。そこに、また体を載せた。
ノワイエは、空いた欄に目を落とした。
読んで、頁を少し戻して、もう一度読んだ。もう一度戻して、三度目を読んだ。
それから、肩をすくめた。
「南の庭。石については、記載がございません」
「記載が」とジュベールが言った。
「境の石でも、記しの石でもございません。原簿のうえでは、ただの庭の石です」
ジュベールは、少しのあいだ黙っていた。
「さようでございますか」
それだけだった。リゼットも、何も言わなかった。
*
ノワイエは、帳面に挟んだ紙に、何か書きつけた。それから、帳面を閉じようとした。
閉じなかった。
表紙を持ち上げたまま、ノワイエはわたしを見た。わたしは、紙の上で目を閉じていた。
ノワイエは、ジュベールを見た。
「……いつごろ、お降りになりますか」
「日が石を離れましたら」とジュベールは言った。
「お急ぎでしたら、もう一度お移りいただきますが」とジュベールは続けた。
「いえ。こちらで書きつけを済ませます」
ノワイエは、表紙を元に戻した。石の脇の草の上に外套を敷いて座り、帳面に挟んでいた紙を膝に載せて、審議に出す書きつけを、そこで書きはじめた。
しばらくして、ベルトがスープを持ってきた。ノワイエの分だった。
*
書きつけが終わるころ、日が少し傾いて、紙が冷えてきた。わたしは紙から降りた。
ノワイエは書きつけを畳んで、帳面を閉じた。今度は閉じた。帽子を取って、わたしのほうに一度頭を下げてから、門のほうへ帰っていった。
厨房に戻って、食器棚の上に乗った。下で、話をしていた。
「果樹園の端ってのは、ガルニエのりんごのことだったのか」とギヨームが言った。
「秋の市で売るほうの木かね。冬に飲むほうかね」とベルトが言った。
洗い場から、アネットが顔を出した。
「どっちも同じ木だよ」
誰も、それには何も言わなかった。
石のことを言う人は、いなかった。
*
食器棚の上で、目を閉じた。
体の下に、昼の紙の感じがまだ少し残っていた。
郡の紙は、冷たくて、つるつるしていた。村の長の紙は、ざらざらしていた。
あいつは、今日も来なかった。




