杭
新しく来た人は、まずわたしの部屋の前で名乗る。
その日、列に並んだのは四人だった。街道の測量に来た人たちで、いちばん前が技師だった。残りの三人は助手で、棒と鎖と、杭の束を抱えていた。
技師は、部屋に入っても顔を上げなかった。手に帳面を持っていて、そこに目を落としたまま話した。
「技師のテシエです。街道の付け替えの測量をいたします」
リゼットが、横で「うん」と言った。わたしの代わりである。
テシエは、それで少し間を置いた。それから、やはり帳面を見たまま続けた。
「明朝五時より、南の庭に入ります。杭を打ちますので、音がします。昼までには一度引き上げます」
来る時刻を、先に言う人だった。じっと見ない。急に手を出さない。こういう人は、悪くない。
「うん」と、今度はわたしが言った。
テシエは帳面に何か書いた。あとでリゼットが覗いたところでは、「南庭、五時より立入り。ご令嬢へ伝達済み」と書いてあったそうである。
わたしは、聞いただけである。
*
父の書斎の窓は、半分開いている。その下の日向で寝ていると、父とテシエの声が聞こえた。
「これが屋敷の図面だ」と父は言った。「南の村は、冬の半年、市に間に合わない。庭は遠慮なく通ってくれ」
「承知しました。南の村から市まで、いまはトマの騾馬で二時間です。新しい道なら、一時間で着きます」
テシエは、距離を人の名前で言う。トマが誰なのかは、まだ知らなかった。
*
翌朝、五時に音がした。
南の庭に、杭が並んでいた。新しい木の匂いと、知らない人の手の匂いがした。助手たちの手である。昨日名乗ったので名前は知っているが、匂いはまだ庭のものではなかった。
庭に、知らない匂いのするものが立っている。することは決まっている。
わたしは杭のところへ行って、頬をこすりつけた。右から一度、左から一度。
「三番、傾きました」と、助手の一人が言った。
「直してください」と、テシエが帳面を見たまま言った。
助手が杭をまっすぐにした。まっすぐになった杭は、まだ半分、知らない匂いがした。わたしは、もう一度こすりつけた。
「三番、また傾きました」
テシエは、そこで初めて顔を上げた。杭を見て、わたしを見て、すぐに帳面に目を戻した。
「三番は、あとで打ち直します」
隣の杭に行こうとしたところで、乳の匂いがした。
*
門のほうから、騾馬が荷車を引いて入ってきた。荷車には壺が並んでいて、手綱を持った男は、日に焼けた顔をしていた。
「トマです。南の村の」と、男はテシエに言った。「道を教えに来いと言われまして」
「おはようございます、トマ。朝市は七時でしたね」
「七時です。うちの村から行くと、着くのは八時です。八時には、いい場所はもうありません」
トマはそれから、荷車の横に立っているわたしに気がついた。少し考えて、壺の蓋を開け、荷台の箱から錫の杯を出した。乳を注いで、両手で差し出した。
「お嬢様。今朝しぼった分です」
受け取った。杯は冷たかった。
体が、勝手に背筋を伸ばした。杯の持ち方も、口のつけ方も、体のほうが知っていた。わたしは何も考えていない。トマは帽子を胸に当てて、そのあいだ黙って立っていた。
飲み終わってから、口のまわりを手の甲で拭いた。それは、わたしが知っていた。
荷車の陰から、茶色い猫が出てきた。片耳が欠けている。トマは何も言わずに、壺の蓋を裏返して、そこにも乳を注いだ。茶色い猫は、それを飲んだ。
*
乳のあと、南の石に戻った。
日が当たっていた。茶色い猫も来て、隣で丸くなった。
テシエが、石の近くで鎖を張っていた。石の上を通る線を引きたいらしかった。帳面と、石と、門のほうとを、順に見た。
しばらくして、ジュベールが庭に来た。三番の杭を見て、それから石のほうへ歩いてきた。
テシエが訊いた。
「ご令嬢は、いつごろ、石から降りられますか」
「日が石を離れましたら」とジュベールは言った。
テシエは、石を使わずに測れるところから、鎖を張り直していた。
そのあと、ベルトがスープを持ってきた。テシエに渡して、三番の杭を見て、帰ろうとした。テシエは同じことを訊いた。
「昼の皿が下がるころに、だろうね」
ベルトがまだいるところへ、リゼットが洗濯物を抱えて通った。三番の杭を見ていった。
「茶色いのが帰ったらです」
マノンも来た。三番の杭を見て、それから訊かれた。
「お嬢様のお気が済まれましたら」
テシエは帳面を見て、少し考えた。それから、鉛筆で一本線を引いた。
「南庭は後日にします。東の測点から先に進めます」
助手たちが鎖を巻いた。トマは騾馬の手綱を取って、その様子を見ていた。
*
昼すぎ、厨房の食器棚の上で寝ていると、下で三人が話していた。
「朝、三番の杭を見に行ったら、ジュベールさんがいた」とピエールが言った。
「わたしがスープを持っていったときは、リゼットがいたよ」とベルトが言った。
「おれが行ったときは、マノンがいた」とギヨームが言った。
三人は、少し黙った。
「誰も、道に反対してないよな」とギヨームが言った。
「してないよ」とベルトが言った。
「じゃあ、誰が見てるんだ、庭を」
ピエールが、窓の外を覗いた。
「いまは旦那様」
*
次の朝、測量の者たちの分を頼まれて、トマがまた乳を届けに来た。厨房の裏口でマノンがそれを受け取り、そのとき話を聞いた。
マノンは、わたしの髪を梳きながら、それを話した。わたしは半分寝ていた。
ゆうべ、南の村の酒場で言われたそうである。旦那様の許しは出た。測量も始まった。だが南の庭だけは、後日に回された。お嬢様のほうは、まだらしい、と。
トマはその場で言ったそうである。
「いや、乳を飲みに来られただけだ」
「飲みながら、おまえの話を聞いておられたんだろう」
「話してたのは、技師さんとだよ」
「じゃあ、技師に聞かせたんだな」
トマはそこで黙って、酒を飲んで帰ったそうである。
マノンは、そのあいだも髪を梳く手を止めなかった。
うん、と言った。半分寝ていた。
*
昼前に、南の庭へ行った。
ジュベールが、三番の杭の横に立っていた。
「朝は、露で杭が動くことがございますので」と、訊いてもいないのに言った。
わたしは杭に鼻を寄せた。
新しい木の匂いは、まだ少し残っていた。助手の手の匂いは、もうしなかった。
杭は、もう、わたしのにおいがした。




