好きにやりました
春になって、本邸に戻った。
馬車は三日だった。三日とも寝ていた。
茶色い猫は、二日目に荷台に乗っていた。誰が乗せたのかは知らない。ジェルマンは見送りのとき、荷台のほうを見ないようにしていた。
*
本邸は、去年と同じ匂いがした。少しだけ違うのは、窓がどれも半分開いていることと、館のあちこちに台があることだった。ジュベールが先に戻って、置いたらしい。
新しく入った者は、まずわたしの部屋の前で名乗る。これも先に戻ってきていた。
名乗りの列は、リゼットが仕切っている。名前を全部覚えているのは、あの子だけだからである。新しい者が名乗ると、リゼットは「うん」と言う。わたしの代わりらしい。誰が頼んだわけでもない。
「どうして、お嬢様の代わりにお返事なさるんですか」と、新しく入った庭の子が訊いた。
リゼットは、少し考えた。
「わたしが、決めたからです」
庭の子は、それ以上は訊かなかった。この屋敷で三日働くというのは、そういうことである。
父の部屋の前には、銀の盆が置かれた。ひとつ多い菓子は、毎日そこへ行く。父はそれを、天井を見ながら食べている。
夜中に、灯をつけに行く者はいない。怒鳴り声もしない。
西の小部屋にだけは、毎晩、灯が入る。ジュベールが入れて、ときどきマノンが入れる。誰も書き物をしない部屋である。眩しいので、夜は行かない。
*
マダム・ヴァシェが来た。
わたしの部屋の机が、まだ窓辺にあるのを見た。何か言うかと思ったが、何も言わなかった。日向に置いてある椅子に、自分で座った。しばらく座って、それから帰った。
帰りぎわ、扉のところで止まって、一度だけ振り返った。
「……今日は、よく日が当たりますね」
「うん」
マダム・ヴァシェは、それで満足した顔をした。この家の人間は、扉のところで止まるのが好きである。家の人間でなくても、そうなるらしい。
*
ロゼリーヌ・ド・ブリサックも来た。母を訪ねてきたのである。
この人は、正面からじっと見てくる。去年の茶会でもそうだった。だから、わたしは庭の楡の木に登った。いちばん下の太い枝から、東屋の屋根が見える。母とロゼリーヌは、その下に座った。
しばらく、二人とも茶を飲んでいた。それから、ロゼリーヌが言った。
「九年、あの方を見てきました」
母は何も言わなかった。
「家のことがありましたから。あの方がこちらを見返してくださったら、言いたいことが山ほどありました。一度も、見返してはくださいませんでしたけれど」
ロゼリーヌは、茶碗を置いた。
「今のあの方は、誰も見ません。わたしのことも。見ない人を睨んでいても、仕方がありません」
「そうね」と母が言った。
「……今日は、それを申し上げに来ました」
ロゼリーヌは、帰りぎわに一度だけ楡の木を見上げた。
じっとは見なかった。すぐに目をそらして、門のほうへ歩いていった。
じっと見られないなら、登っている理由がない。わたしは木から降りた。
*
マノンが、王都からの報せを運んできた。
曰く、王子殿下は即位を急がれない。陛下がお元気なうちは、横で見ておられるそうである。
曰く、王子殿下は近ごろ、床に座らなくなった。庭の芝に座るようになった。
曰く、王弟殿下の鳥は、よく鳴くそうである。
曰く、王都では、この冬いちばん賢かったのはシャルヴィル家だと言われている。何もしなかったからである。
いや、寝ていただけなんだけど。
鳥のところだけ、また少し気になった。
*
厨房では、誰も何も数えていない。
ベルトは鍋を拭いている。ピエールは豆の筋を取っている。ギヨームは、王都で覚えた食器棚の上の布を、本邸の食器棚の上にも敷いた。誰も、わたしが乗るとは言っていない。
「今年は数えないのかい」とピエールが言った。
「数えたら合わないって、言ったろ」と、洗い場からアネットが言った。
それで話は終わった。いつも通り、何も決まらなかった。
ジュベールは、銀器を磨いている。前と同じ速さで磨いている。前と違うのは、ときどき手を止めて、窓の外を見ることである。窓の外には、たいていわたしがいる。
庭のほうで、誰かが言った。
「まあ、いいか」
誰が何について言ったのかは知らない。庭師の声だった気がする。
*
昼すぎ、庭の南側の石の上で寝た。
はじめの日にも、ここで寝た。石は、あいかわらず、この屋敷でいちばんいい。
茶色い猫が来て、隣に座った。前より近く。今度は、背中がくっついた。どちらも何もしなかった。
屋敷のほうで、窓が開く音がした。父の書斎の窓だった。
「オデットは」
「石の上で、寝ておられます」と、ジュベールの声がした。
「そうか」
父は顔を引っ込めた。窓は閉めなかった。半分開けたままだった。
紙とインクの匂いが、庭の小道を来た。
オーギュストは、石の横に立った。何も言わなかった。
いつもなら、この人は「なぜです」と訊く。なぜ石の上なのか。なぜ猫がいるのか。なぜ王都から猫を連れてきたのか。
この日は、訊かなかった。立っているだけだった。手に紙を持っていたが、読まなかった。
わたしは目を閉じた。
この屋敷にいる理由を、誰かに訊かれたことはない。訊かれたら、こう答える。
わたしは、この屋敷が気に入っている。だから、いる。それだけの話である。
*
うとうとしているあいだに、誰かが髪を撫でた。
小さな手だった。急がない手だった。耳のうしろを、二度撫でた。
胸のあたりが、変な感じがした。毛づくろいしたくなる感じだった。
目を開けると、誰もいなかった。オーギュストは、さっきと同じところに立っていた。手は、紙を持ったままだった。茶色い猫は、寝ていた。
風かもしれない。春は、ときどき、そういう風が吹く。
わたしは、もう一度目を閉じた。
オーギュストは、何も訊かなかった。
石は、まだあたたかかった。




