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総決算

あの夜から十日ほどして、マノンが市場から戻ってきた。


 曰く、陛下は持ち直された。ただし、評議の席にはもうお出にならない。


 曰く、あの夜の書面は、書式の違う偽物として片づけられた。誰が書いたのかは、誰も言わない。


 曰く、王弟殿下は評議から退かれ、領地にお帰りになった。向こうで鳥を飼いはじめたそうである。


 鳥のところだけ、少し気になった。


*


 屋根から降りてから、昼は厨房で寝ることにしている。


 厨房の奥に、背の高い食器棚がある。竈の隣で、煙突の根元の壁にくっついている。棚の上は、館でいちばんあたたかい。ベルトが乾いた布を一枚敷いてくれた。誰が敷いてくれと言ったわけでもない。


 その日の昼、ジェルマンとジュベールが厨房に来た。


 家令と執事が、館のことを申し送るのだという。王都の館はジェルマンのもので、本邸はジュベールのものである。二人とも、帳面を持っていた。


「先に申し上げておきますが」とジェルマンが言った。「この館には、変わった決まりがいくつかあります」


「どうぞ」


「窓は、半分開けておきます」


「本邸も同じです」


「館のあちこちに、台が置いてあります。登りやすいように」


「本邸も同じです」


「新しく入った者は、まずお嬢様のお部屋の前で名乗ります。夜番は、交代のたびに窓の下で名を言います」


 ジュベールは、少し考えた。


「それは、本邸にはありません。持ち帰ります」


「旦那様のお部屋の前には、銀の盆が置いてあります」


「何のための盆ですか」


「説明はありません」


「本邸も同じになると思います」


 ジェルマンは帳面をめくり、それから顔を上げて、食器棚の上を見た。


「……それと、厨房の棚の上で、お嬢様が寝ておられます」


 ジュベールも、顔を上げた。


「本邸も同じです」


 二人は、帳面を閉じた。申し送ることは、それで全部だったらしい。


*


 昼過ぎに、リゼットが台を運んできた。食器棚の下から、背伸びをして棚の上に載せた。菓子が、ひとつ多かった。


 ひとつ多いほうは、あとで父の盆に持っていく。それは決まっている。


 紙とインクの匂いが、厨房の戸口に来た。


 オーギュストは、竈と、食器棚と、棚の上のわたしを順に見た。


「なぜ、棚の上なのです」


「あたたかいから」


 オーギュストは少し考えて、厨房の卓に書類を広げた。


「では、わたしもここで読みます」


 ベルトが何も言わずに、オーギュストの前にスープを置いた。オーギュストは、書類を三枚めくるごとにスープを一口飲んだ。紙とインクの匂いに、玉葱の匂いが混じった。


 しばらくして、母が厨房の戸口に来た。


 この家の人間は、扉のところで止まるのが好きである。母も、止まった。卓の書類と、スープと、棚の上のわたしを見た。


「オデット」


「うん」


 母は、何か言いかけた。


 それから、言うのをやめて、厨房に入ってきた。オーギュストの向かいに座った。


「ベルト、わたしにも」


 ベルトは、母の前にもスープを置いた。母が厨房の椅子に座るのは、たぶん初めてだった。ベルトの手が、少しだけ止まっていたからである。


*


 夕方、厨房に三人と、洗い場のアネットが残った。


 言い出したのは、今回はギヨームだった。


「去年の冬から、何が変わったか、数えてみようか」


 誰も止めなかった。


 ピエールが指を折った。窓が半分開いている。台がある。全員の名前を知っている。夜中に、旦那様の怒鳴り声がしない。


「旦那様は前から怒鳴らなかったよ」とベルトが言った。


「怒鳴らなかったけど、怒鳴りそうな音がしてた」


 それで一本になった。


 夜中の二時に、灯をつけに行く者がいない。朝、誰も目を赤くしていない。リゼットがいる。新入りのリュシーが居着いた。医者が来て、外れて、それでよかった。


 ピエールの指が足りなくなった。ギヨームの指を借りた。ギヨームの指も足りなくなった。


「これ、誰のおかげなんだろうね」とギヨームが言った。


 誰も答えなかった。ベルトは鍋を拭いていた。ピエールは借りた指をギヨームに返した。


 アネットが、手を拭きながら言った。


「数えても、合わないよ」


 三人はアネットを見た。


「誰のおかげか数えたら、みんな自分の分を一つずつ足すだろ。そしたら、数が合わない。だから数えないのさ」


 それで話は終わった。いつも通り、何も決まらなかった。


 ベルトは、鍋を置いてから、食器棚の上に布をもう一枚足した。


 いや、あたたかいから寝ているだけなんだけど。


*


 夜になった。厨房の灯は、竈の火だけになった。


 ジュベールが来た。マノンも来た。二人は、竈の前の椅子に座った。わたしが棚の上で寝ているのは知っているはずだが、二人とも、上を見なかった。


 しばらく、どちらも何も言わなかった。


「前に、マノンさん、あなたは訊いた」とジュベールが言った。「お嬢様は、疲れがお取れになったのでしょうか、と」


「はい」


「わたしは、そうは思っていない、と言った」


「はい。それから、あの部屋に灯を入れて、困る者はいない、とおっしゃいました」


 ジュベールは、竈の火を見ていた。


「本邸の西の小部屋には、九年間、夜の二時に灯がついていた。書き物の灯だ。わたしは毎晩、廊下の端からそれを見てから寝た。消しに行ったことは、一度もない。お休みくださいと言える立場では、なかった」


 マノンは何も言わなかった。


「去年の冬から、あの灯はつかなくなった」


 竈の中で、薪が一本崩れた。


「わたしは、お嬢様の疲れが取れたとは、思っていない。いまも、思っていない」


 ジュベールはそこで少し黙って、それから、続けた。


「あの部屋には、いまも毎日、わたしが灯を入れている。誰も書き物をしない部屋に。……あれは、前のお嬢様の分だ」


 マノンは、長いあいだ黙っていた。それから、ジュベールの手の上に、自分の手を一度だけ乗せた。


「本邸に戻ったら、わたしも入れます」


「頼む」


 二人は、それきり何も言わなかった。竈の火が小さくなるまで、座っていた。


*


 ジュベールが、こんなに長く喋るのを聞いたのは初めてだった。


 何の話かは、半分くらいしか分からなかった。灯の話だった。わたしは灯は好きではない。眩しいからである。


 ただ、胸のあたりが少し変な感じがした。毛づくろいしたくなる感じだった。棚の上で、しばらく手を舐めた。


 次の朝、マノンはその話を誰にもしなかった。市場から戻っても、玄関先でも、厨房でも、しなかった。


 この屋敷で十年働くというのは、そういうことである。

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