危ない
夜番の護衛は、交代のたびに窓の下で名を言う。
その夜の二度目の交代で、窓の下の声は「ロラン」と言った。
ロランは知っている。馬屋の隣の部屋で寝ている、背の高い護衛である。煙草の匂いがする。
窓の下の人は、煙草の匂いがしなかった。
名前は知っている人で、匂いは知らない人だった。こういうのは初めてである。
それから、玄関のほうに馬車が着いた。降りてきた人は、多かった。どのくらいかは知らない。全員、知らない匂いだった。油と、鉄と、それから、紙。
一人なら威嚇する。多いときは、しない。危なければ離れる。それだけのことである。
わたしは寝間着のまま窓から出て、庇を伝い、屋根に上がった。屋根の上をいちばん高いところまで歩いた。走らなかった。走ると、追ってくる。
いちばん高いところには、煙突がある。厨房の竈につながっている煙突で、夜でもあたたかい。
わたしは煙突の根元に背中をつけて、丸くなった。
*
玄関で、知らない声が言った。
「王弟殿下の御命により、シャルヴィル嬢を、王宮にてお預かりいたします。御身の安全のためです」
父の声がした。
父の声は低いので、いつもは屋根まで届かない。この夜は届いた。
「その書面には、私の名を書く欄がない」
それから少しのあいだ、誰も何も言わなかった。
*
館の中で、ジェルマンの声がした。
「明かりは点けるな。全員、名を言え」
暗い館のあちこちから、名前が上がった。
ベルト。ピエール。ギヨーム。アネット。リュシー。護衛が九人。馬屋が四人。
ベルトは、ピエールとギヨームの分まで言った。二人は自分でも言い直した。
途中で、廊下のほうから「ロラン」という声がした。少しして、馬屋のほうからも「ロラン」と言った。
ロランが二人になった。
馬屋のほうのロランから、煙草の匂いがした。
廊下のほうのロランは、そのあとすぐに、名前の言えない人たちと一緒に、広間の真ん中に集められた。名前を言えない人は、暗い中でもよく分かる。一人だけ黙っているからである。
*
門の外で、マノンの声がした。
マノンは、通りに向かって報せていた。公爵家に、夜中に、王宮を名乗る者が来た。書面を持っている。名前が言えない。
通りの向こうの家に、明かりが点いた。その隣にも点いた。そのまた隣にも点いた。
あとで聞くと、マノンは、こんなに新しい噂を運んだのは十年で初めてだったそうである。誰よりも先に知っていて、しかも本当だった。
通りの明かりは、角を曲がって、ずっと先まで点いていった。
*
屋根の縁に、手がかかった。
父の書斎の窓の下には、台が置いてある。台から窓枠へ、窓枠から屋根へ上がれる。わたしが上がるときに使う道で、ほかの人が使っても同じように上がれる。
手の次に、頭が出た。知らない匂いだった。
わたしは立ち上がって、煙突の向こう側へ歩いた。急がなかった。相手を見なかった。煙突は、こちら側のほうがあたたかかった。
わたしの部屋の窓のほうから、リゼットの匂いがした。
声はしなかった。あの子は、いつもよく喋る。黙っているのは、初めてだった。
あとで聞くと、リゼットはわたしの部屋の窓の前に立って、そこから入ろうとした人を、何も言わずにじっと見ていたそうである。その人は、窓枠に足をかけたまま、長いあいだ動かなかった。それから、降りていった。
*
屋根の真下の、壁の根元のところで、厨房の三人の声がした。
「わたしらが出る話じゃないよ」とベルトが言った。
「出てないよ。ここにいるだけだ」とピエールが言った。豆の籠の匂いがした。
「ここは厨房じゃないけどね」とギヨームが言った。鍋の蓋の匂いがした。
三人は、屋根から人が落ちてくるなら、ちょうどそこに落ちるところに立っていた。誰も、どうしてそこにいるのかは言わなかった。
*
門に、もう一台、馬車が着いた。
降りてきた人は、銀を磨く布の匂いがした。本邸の匂いだった。
その人は、何も言わなかった。玄関にも入らなかった。
そのかわりに、館の壁沿いを歩きはじめた。
ずる、と、木を引きずる音がした。少しして、また、ずる、と鳴った。窓の下の台が、一つずつ、壁から離されていった。
屋根の縁の手が、止まった。
足の下の台がなくなったので、上がることも、降りることもできなくなったのである。
その人は、樋につかまったまま、しばらく黙っていた。それから、声を上げた。
降りられなくなった人の声は、木の上で降りられなくなった猫の声と、だいたい同じだった。
*
玄関では、紙とインクの匂いが、門から走ってきていた。
「その書面を、拝見できますか」とオーギュストが言った。
しばらくして、紙をめくる音がした。三度めくった。
「王弟殿下の印が、二行目の下にあります。殿下のお家の書式では、印は三行目の下に押します。三年前の届け出は、全部そうでした」
オーギュストは、少し間を置いた。
「書いた人が、殿下のお家の書式を知らなかったのだと思います」
それから、通りの先から、夜警の松明が来た。マノンの噂を辿ってきたのである。
*
朝になって、わたしは屋根から降りた。
台は、一つだけ残っていた。わたしの部屋の窓の下の台だった。
ジュベールがその横に立っていた。銀器を磨く布を持っていた。王都に着いたのは、ゆうべの夜中である。
「お嬢様」
「うん」
ジュベールは、それ以上何も言わなかった。
ジェルマンが来て、壁から離された台の列と、ジュベールを見比べた。
「なぜ、台を」
「夜は、足元が見えにくうございますので」とジュベールは言った。
ジェルマンは、しばらく考えて、それで納得した顔をした。納得したかどうかは知らない。
樋の人は、夜警が梯子を持ってきて降ろした。降ろされたあと、ずいぶん長く地面に座っていた。
母は、窓のところにいた。夜のあいだずっと、そこにいたらしい。
「オデット」
「うん」
母は、何か言いかけて、やめた。それから、わたしの肩に毛布を掛けた。それで足りた。
父は、外に出て、屋根を見上げていた。天井ではなかった。
*
ゆうべ下で何があったのかは、あとで全員から聞いた。
ジェルマンは、名前の言えない者を集めた話をした。マノンは、通りの明かりの話をした。リゼットは、窓の前に立っていた話をした。ベルトは、ただ立っていただけだと言った。オーギュストは、印の位置の話をした。父は、欄の話をした。
全員が、自分のことしか話さなかった。
それで、よく分かった。何も起きなかったのだ。
危なかったので、離れた。煙突は、あたたかかった。それだけである。




