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知らない人

冬のあいだは、庇が冷えすぎる。なので、夜は天蓋の上で寝ることにしている。


 寝台も悪くはないが、あれは低い。低いところで寝ると、扉が開いたときに目が覚めるのが一拍遅れる。天蓋の上なら、部屋の全部が下にある。わたしが上で寝るようになってから、ジェルマンが天蓋の骨組みを二度補強した。三度目はしなかった。もう軋まないからである。


 その夜、窓から人が入ってきた。


 窓は半分開いていた。この館の窓はたいてい半分開いている。誰が開けているのかは知らない。


 入ってきたのは、知らない人だった。


 匂いで分かる。油と、鉄と、よその家の石鹸。それから、長いあいだ屋根の上にいた人の、冷えた布の匂い。この館の者は、誰もこういう匂いをさせていない。


 知らない人は、床に降りるとき音を立てなかった。それには感心した。人間にしては、ずいぶんちゃんとしている。


 それから寝台のほうへ歩いていき、掛け布の上から、何かを振り下ろした。


 羽根が舞った。


 知らない人はしばらく動かなかった。それから、もう一度、枕を確かめた。枕は枕だった。


 わたしは天蓋の上で起き上がった。


 知らない人が自分の場所に入ってきたら、することは決まっている。


 まず、体を横に向ける。正面を向くより大きく見える。毛は、逆立てようと思って逆立つものではないが、寝起きの髪は最初から逆立っていた。背を丸め、低いところから声を出す。人間の喉はこの声に向いていないが、出た。


 ううう、と鳴った。


 知らない人が、上を見た。


 月明かりの中、天蓋の上に、寝間着の公爵令嬢が横向きに立ち、髪を逆立てて唸っていた──はずである。翌朝それをやってみせたとき、リゼットがそう言っていた。言葉にすると、そういうことになるらしい。


 唸りを少しずつ高くする。ここで目を合わせると喧嘩になるので、合わせない。喧嘩がしたいわけではない。出ていってほしいだけである。


 最後に、息を吐いた。


 しゃあっ。


 知らない人は刃物を落とした。拾わなかった。来たときとは違ってずいぶん大きな音を立てて窓枠にぶつかり、膝を打ち、それでも外へ出ていった。屋根の上を走る足音が三つして、それきりになった。


 追いはしない。負けた相手を追うのは作法に反する。


 床の刃物は油の匂いがした。汚れたものには触らない。わたしはもう一度丸くなり、天蓋の縁に顎を乗せて、窓が半分開いているのを見ながら寝た。


*


 朝、最初に部屋に入ってきたのはリゼットで、最初に悲鳴を上げたのもリゼットだった。


 羽根の散った寝台と、裂けた枕と、床の刃物と、窓枠の泥。リゼットは盆を落とさなかった。盆を卓に置いてから、悲鳴を上げた。この館に来てから、そういう順番を覚えたらしい。


 それから館が鳴った。


 ジェルマンが来て、家令の顔のまま窓枠を見た。護衛が三人来て、刃物を見た。母が来て、扉のところで止まった。父が来て、天井を見た。天井というか、天蓋の上のわたしを見た。


「オデット」


「うん」


「何があった」


 少し考えた。考えるほどのことはなかった。


「知らない人が入ってきたので、威嚇しました」


 部屋が静かになった。


 護衛のひとりが、刃物と枕とわたしを順に見た。もうひとりが何か書きとめようとして、何と書けばいいのか分からない顔をした。ジェルマンは、この館に勤めて二十年で初めて、「はあ」と言った。


「……威嚇」と父が言った。


「うん」


「どのように」


 訊かれたので、やってみせた。


 体を横に向け、低く唸り、少しずつ高くして、最後に息を吐いた。


 護衛のひとりが剣の柄に手をかけた。もうひとりが半歩下がった。リゼットは、さっき置いた盆をなぜかもう一度持ち上げて、今度は落とした。ジェルマンは動かなかったが、あとで聞くと、膝の裏に汗をかいていたそうである。


 父だけが動かなかった。天蓋の上の娘を見上げたまま、長いあいだ黙っていた。


「……知らない人、と言ったな」


「うん」


「どこかの家の者ではなかった、ということか」


「知らない人だった」


 父は目を閉じた。


「この館に出入りする家の者なら、おまえは匂いで分かる。夜会で会った者なら、なおさらだ。それが分からなかった。つまり、王都のどの家の者でもない。……外から雇われた者だ」


 護衛たちが顔を見合わせた。ジェルマンが小さく息を呑んだ。父は誰かの名前を口にしかけて、やめた。口にしなかった名前のほうが、部屋の中では大きかった。


 いや、知らない人だったから知らない人と言っただけなんだけど。


 母は、そのあいだずっと扉のところにいた。皆が出ていってから、寝台の羽根を一枚拾って、こちらを見上げた。


「オデット」


「うん」


「……いえ」


 母は羽根を持ったまま出ていった。夕方になってもまだ持っていたと、マノンが言っていた。


*


 昼前に、オーギュストが来た。知らせを受けて走ってきたらしく、紙とインクの匂いに汗の匂いが混じっていた。


 彼は寝台を見て、刃物を見て、それからわたしを見て、まっすぐ訊いた。


「なぜ、逃げなかったのです」


 この人は、いつも正面から訊く。


「わたしの場所だったから」


「相手は刃物を持っていました」


「うん。でも、知らない人だった」


「知っている人なら、どうしました」


「知っている人は、夜に窓から来ない」


 オーギュストは少し黙り、刃物の柄に巻かれた布を指先でつまんだ。巻き方を、三度、確かめた。


「……この巻き方は、どこかで見たことがあります」


 どこで見たのかは言わなかった。父には大事なことらしかったが、わたしにとっては油の匂いのする布だった。


 帰りぎわ、彼は扉のところで止まった。この家の人間は、扉のところで止まるのが好きである。


「怖くは、なかったのですか」


「怖かったら、離れてる」


「では、怖くなかった」


「うん。嫌だっただけ」


 彼は笑ったのかもしれない。笑ったかどうかは、匂いでは分からない。


*


 夕方、窓の下に新しい護衛が立った。


 知らない人だった。


 わたしは天蓋の上で体を横に向けた。唸る前に、窓の下の護衛は庭の端まで下がり、そこで槍を抱えて立ち尽くした。二人目も同じだった。三人目は、最初から庭の端に立った。


 ジェルマンが、半日ほど考えた。


「お嬢様は、知らない者を威嚇なさる」と、彼は使用人を集めて言った。「ならば、知らない者をなくせばよい」


 その夜、館の全員がわたしの部屋の前に並んだ。


 一人ずつ入ってきて、名を言い、頭を下げる。わたしは匂いを確かめて、「うん」と言う。それだけである。護衛が九人、馬屋が四人、洗い場が六人、厨房が五人、庭が二人。


 ベルトは名乗ったあと、後ろのピエールとギヨームの分まで名乗った。二人は自分でも名乗り直した。


 途中で、洗い場の女と馬屋の若いのが、並びながら初めて互いの名前を知った。同じ館で六年働いていた。厨房の見習いは、名乗ったあとで泣いた。誰かに名前を訊かれたのは、この館に来て初めてだったそうである。


 マノンは、自分はもう十年前から名乗っているはずだと言いながら、列に並び、名乗った。この屋敷で十年働くというのは、そういうことである。


 列の最後に、なぜかオーギュストが並んでいた。


「念のためです」


「うん。紙」


「……はい。紙です」


*


 それから、館の者は新しく入った人間を、まずわたしの部屋の前に連れてくるようになった。ついでに互いにも名乗るようになった。夜番の護衛は、交代のたびに窓の下から自分の名を言う。リゼットは全員の名前を覚えて、台所でそれを自慢している。


 どうしてそうなったのかは知らない。


 窓の下から、知っている人の匂いがする。こういう夜は、よく眠れる。


 窓は、半分開いていた。

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