【過去の自分よただいま】
白髪のシスターに丁寧に洗われ、清潔な布に包まれてベッドに横たわっていると、世界がひどく静かに感じられた。前世の、あの騒がしい都会の喧騒や、深夜のコンビニの冷え切った空気とは無縁の場所。
トントン、と規則正しい足音が近づいてくる。
「ネロ、ご飯を食べさせてやりな」
落ち着いた、それでいて慈愛に満ちた白髪のシスターの声。それに答えたのは、鈴を転がしたような澄んだ声だった。
「もうそんな時間? 少し待っててね」
ネロと呼ばれたその少女は、光を反射するような美しい金色のマッシュヘアーを揺らして、俺の元へやってきた。身長は百四十センチほどだろうか、年齢は十四歳前後。この世界ではそれなりに年長なのかもしれないが、赤ん坊の視点から見ると、どこか神秘的で、それでいてひどく大人びて見える。
(……さっき、心の中でサイコパスなんて疑って悪かったよ)
心の中で謝罪する。この無垢な瞳に見つめられると、前世の擦り切れた倫理観が恥ずかしく思えた。
ネロが運んできたのは、懐かしい香りのする木の器だった。
漂ってくるのは、鶏出汁のような、あるいはコンソメに近い、食欲をそそる芳醇な匂い。
ネロは慣れた手つきで木のスプーンを使い、スープを掬い上げる。自分の唇に寄せ、ふー、ふー、と丁寧に熱を逃がす。その一連の動作には、損得勘定も、効率化も、コンビニのレジ袋を提げて歩く寂しさも存在しない。
「レキ、ご飯ですよ~……はい、お口を開けて」
レキ。それがこの世界での俺の名前か。
促されるままに口を開けると、温かな液体が流れ込んできた。
薄いコンソメスープの味。
前世の化学調味料がふんだんに使われた「完璧な味」に比べれば、どこか物足りなさはある。けれど、喉を通り、胃に落ちていくたびに、俺の心は不思議なほど満たされていった。
(ああ、そうか……)
いつからだろう。誰かが自分のために手間をかけ、熱を冷まし、名前を呼びながら食べさせてくれる……そんな当たり前の、けれど最も得難い贅沢を忘れていたのは。
ファストフードで胃を満たしていた昨日までの俺に、この温もりを教えてやりたかった。
コンソメの香りが、涙腺を緩ませる。
赤子の身体は正直だ。俺はネロが差し出す次の一口を、今度は少しだけ急かすように待ち構えた。
食事を終えて、ベットから外の景色を除きながら考える。現在地は教会かもしれないな。教会ならシスターは理に叶っている。探索は後にして、ユニティーとネロが放った言葉だ。ユニティーとは魔法のことなのか、楽しみで仕方がない。食事を終えてネロが「片付けてくるね」と言ってその場を去った。
魔法の発動条件は、イメージが大事だと何処かのラノベで言っていた。おっと、被害を出してはまずいな。最悪の事を考慮し、風魔法辺りにしておくか。
さあ、さあ、天上に手をかざして頭の中で叫ぶ。「ウィンドカット」
何も起きない…詠唱無しではだめなのか。詠唱してみるか、詠唱はそれらしい事を言ってみよう。
気を引き締めて、
さあ、さあ、天上に手をかざして頭の中で叫ぶ。
「風よ集まり天上を切れウィンドカット」
何も起きない…まあまあまあ落ち着け自分よ、多分詠唱ミスだな。詠唱をしっかりすればできるはずだ。
何せ、ラノベでは大体の転生者が、何かしらの能力があり、活躍するのが定番だからな。そんな事かんがえていると、意識が遠退いていく。
ネロの優しい声と、かけられた毛布の温もりに包まれながら、微睡の中に溶けていく……。
前世では無機質なワンルームで、スマホの画面を眺めながら眠りにつくのが当たり前だった。今のこの「誰かに見守られている」という感覚は、それだけで一つの奇跡のように思える。
自分に与えられた『レキ』という名前を噛みしめることから始めよう。




