第34話 校舎裏の呼び出し
朝のホームルームが始まる前の校舎裏。
直射日光の当たらない日陰のコンクリートには、まだ微かに夜のぬるさが残っているものの、そこを吹き抜けていく風には、夏の近さを思わせるじりじりとした熱を纏っている。
遠くのグラウンドからは野球部か陸上部かの朝練の声が聞こえ、開け放たれた窓からは吹奏楽部が鳴らすフルートの音色が、日常を彩るBGMのように響いていた。
そんな絵に描いたような青春のワンシーンの中で──。
「来栖さん……!」
私はなぜか、背中に冷たい壁の感触を味わいながら、月江さんに追い詰められていた。
「つ、月江さん?」
ずい、と。
普段は一定のパーソナルスペースを保つ月江さんが、私の眼前まで距離を詰めてくる。
まるでキスでもしそうな距離に、今朝の夢が頭をよぎって思考がうまく纏まらない。
「えっと……どうしたの?」
頭をぐるぐると回して混乱する私に、月江さんは語気を強めた口調でこう言った。
「昨日の! 電話のこと! 忘れてください!」
「あ……そのことか」
「そうです! 昨日はちょっと寝ぼけて変なことを言ってたと思いますから……!」
「ちょっと……?」
「すごく寝ぼけてたって言いたいんですよね! とてもお気持ち分かります!」
普段のクール優等生の面影はどこへやら、その白い頬は耳先まで真っ赤だった。
どうやら昨日の夜のふにゃふにゃ具合をしっかりと思い出してしまったらしい。
よかった。月江さんでもあれは、普通に恥ずかしいことをしていたようだ。
必死な形相の月江さんを見ると、私も次第に落ち着きを取り戻し──。
つい、ふっと。
「梓。……好き」
「か、からかわないでください!」
昨日の夜の音声をそっくり再生してみると、月江さんは更に顔を赤くした。
その赤い顔を隠すように、私の胸元をぽかぽかと軽く叩いてくる。
「……ねぇ、梓」
「え、な、なんですか!」
「私のこと好きなの? 若菜、好きって、言ったよね?」
「うぅ……ほんとに、反省してますから。許してください……」
「昨日みたいにタメ口でもいいよ? 眠い時の梓って、すっごく甘々なんだね」
にやにやしながら追撃すると、月江さんは居心地が悪そうに視線を泳がせて、きゅっと唇を結んだ。
「……自分が優位に立った途端、意地悪するのやめてください」
「すみません。つい可愛くてやってしまいました。ほんとにすみません」
ちょっとやり過ぎたので、普通に謝罪をする、と。
「あ」
月江さんの顔から、ふと何かを思い出したように赤みが引き。
代わりにじとっとした、冷ややかな光が瞳に宿った。
「昨日。私と電話する約束、忘れてましたよね。御船さんの家で、ずっと遊んでましたよね。私のこと、ずっと待たせていましたよね」
「うぐっ……!」
しまった、こうかはばつぐんだ!
陰属性に正論の相性がいいことをすっかり忘れていた。
形勢逆転。圧倒的な正論に、すぐに月江さんが優位に立ってしまう。
「そ、それは本当にごめんなさい……!」
「いえそんな謝らなくても……でも、不安だったのはほんとですよ?」
責めるような口調から一転、月江さんは少しだけ目を伏せて、ぽつり。と零した。
「だって昨日は放課後からずっと、御船さんと一緒だったんですよね?」
「うん。ちょっと家に寄ったりしてて……」
「だから不安で……。御船さん、すごく綺麗な人ですから」
「いやいや、月江さんだってめちゃくちゃ美人じゃん」
「で、でも今は、私がモデルのヒロインを書いているんですよね?」
え? なんで急に、私の小説の話に?
「うん。月江さんがモデルのヒロインのお話を書いてるけど……あ、でも、最近ちょうど編集さんに『ヒロインのライバルキャラも出してみて』って提案を受けてて──えと、ほら。やっぱり作品に幅を持たせるためにって」
私が今の状況を飲み込めてないまま正直に答えると、月江さんの眉がぴくりと動いた。
「そのモデルが、もしかして御船さんですか?」
「──あ」
言われてみれば、たしかに。
陽キャで距離感が近くて、オタク趣味に理解があって、少し強引に主人公を引っ張ってくれる女の子……なるほど、その手があったか。
キャラ立ってるし、月江さんとは真逆のタイプだし……。
ライバルとして意外と悪くないかもしれない。
「…………あー」
作家としての脳髄が刺激され、私は無意識に「なるほど」と頷いてしまっていた。
すると月江さんが、ひどく冷めたような、呆れたような溜息を漏らす。
「……来栖さんって、主人公みたいな性格してます」
「えっ?」
そんな、主人公みたいだなんて。
まさか褒められるとは思わず、照れ隠しに頬をかく。
でもなぜか、月江さんは信じられないくらい不服そうな顔をしていた。
……あれ、これ、ひょっとして褒められてない?
一つの可能性に辿り着きそうなところで、月江さんは不服顔のまま嘆息した。
「私……来栖さんのヒロインになれてますか?」
上目遣いで探るように見つめてくる月江さん。
小説のキャラクターとしての意味なのは分かる……が、なんだか変な意味に聞こえてしまう。朝に見てしまった夢が尾を引いているな、と私は邪念を飛ばして強く頷いた。
「なれてるよ。立派なヒロインだよ」
「……今の私、すごく負けヒロインみたいじゃないですか?」
「いやいやそんな──って、月江さんそんな言葉知ってるんだ。結構オタク用語なのに」
「私、ラノベの文化を知るために、こっそり調べたりしているんです。最近は負けヒロインが旬だって。御船さんのような顔のいい女性と、最終的に主人公は結ばれるんです」
……月江さんが変な知識をつけてしまっている。
月江さんの親御さんに謝罪しなければならない日も遠くなさそうだ。
確かに、最近は負けヒロインは多すぎる方がいいという傾向もあるけど……。
いやいや、今はそれはさて置いて──。
「今回書いている作品は、月江さんをモデルにした女の子が勝つよ」
「……ほんとですか?」
「うん、ほんと」
私がはっきりと断言した瞬間。
たた、と。月江さんが一気に距離を詰め、私の胸の中にすっぽりと収まった。
「えっ……ちょ、月江さ……」
抱き着かれた衝撃で変な声が漏れる。
胸に当たっているが、小さいので気にしてもしょうがないだろう。
月江さんは私の胸に顔を埋めたまま、制服のシャツをぎゅっと掴んだ。
「一番、私を大切にしてください」
声は小さく、私の制服で搔き消える。
「……大切に、してるよ」
私の声は、上擦っている。
「一番、私と過ごしてください」
声が直接、心臓まで伝わる。
「過ごしてるよ」
鼓動が早くなる。
「一番に、してください」
体温が上がるのが分かる。
「……してるよ」
一つ一つの要求に、私は顔を逸らしながらもどうにか言葉を返しきった。
すると月江さんはゆっくりと顔を上げ、至近距離で私の目を見つめ返してくる。
「……今の、ヒロインぽかったですか?」
「え…………?」
「私、今まで人と深く関わったことがないので、想いの伝え方が分からないんです。だからネットで、ヒロインがする可愛いわがままを調べて、実践してみました」
少しだけ恥ずかしそうに「どうでしたか」と首を傾げる月江さん。
……は。可愛すぎるが。
天然なのか計算なのか……いや多分、天然なんだろうけど、その不器用な甘え方に、言葉にならない想いが胸の中であふれて、口からこぼれそうになってしまう。
「すごく……可愛かったです」
思うままに伝えると、月江さんはこくりと頷いてから──。
「これからも私を、小説のネタにしてくれますか?」
胸元に押し付けられた柔らかい体温と、ほんの少しだけ震える華奢な肩。
不安と期待が混じった、まるで雨の日に捨てられた子犬のような潤んだ瞳。
私のなけなしの理性はどこかへ飛んで行って、もう頷くことしかできない。
「……する。超する」
「よかったです」
月江さんはホッとしたように安堵の笑顔を浮かべた。
張りつめていた糸が解けたように、今日一番の柔らかい表情になる。
これで一件落着か、と教室に戻ろうと提案しかけた、次の瞬間。
「それで。昨日は御船さんの家で、なにもなかったんですか?」
にげられない!
そうだ。私と月江さんではレベル差がありすぎるので、にげるが失敗しやすいんだ。
ていうかやましいことは何も無いので素直に答えればいいだけじゃないか……!
「い、いや。カレーはご馳走してもらったけど。後は恋愛相談を受けて、穂乃果の妹さんともちょっと触れ合って……。他には──」
「……………………」
「いや、ほんとだよ!? ほんとに、ほんと!」
月江さんはジト目で私を睨みつけ、防御力を一段階下げてくる。
あ、そういえば穂乃果って佐倉わかのファンだったんだっけ。
それをちょうど思い出し「あ、実は」と口にしようとしたところで──。
「い、いえ疑っているわけではないんです。ただ──」
月江さんがふいっと視線をそらし、少しだけバツの悪そうな顔をした。
そして、私のシャツを握る手に、さらにぎゅっと力を込める。
「ただ……私の家にも、来て欲しいなって……」
下を向いたまま、月江さんがもじもじと身をよじる。耳の先まで真っ赤に染まった彼女の口がもごもごと動いて、信じられない言葉がぽつりと──。
「お泊まり、しませんか」
…………えっ? いやいやお泊まりって。
確か、月江さんの家ってすごいお嬢様の家なんだよね。
お泊まりとかそもそも私にとったらハードルが高すぎる。
そんな可愛くおねだりされたって私は──。
「……する。超する」
あれ、口から言葉が勝手に。




