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3月がやってきた。
肌寒い日々は続くが梅のつぼみが色付きだしている。
江連邸の面々は、やはり各々忙しく動き回っていた。
3月の第一日曜日は士郎知恵と前田羽美に諸用事があり、最後の稽古は第2日曜日に行われる事となった。
故に、第一日曜日は稽古無しとなったのだが、昼過ぎに士郎じょうが一人で来訪した。
かつて“0.1%でも役に立てるのなら…”とは言ったものの、事情を聞いてみると自身がまったく役に立てそうにない。
しかし少しでも、せめて0.01%でもと思い立って起こした行動が姫を歓喜させ、そして苦しめた。
姫『おおっ!』
姫の前には士郎じょうが手土産で持参したドーナツの箱が置かれていた。
(士郎じょう“0.000…だめかな”)
これから命をかけた戦いに赴く皆さんに対してドーナツ…。改めて考えてみると全然役に立っていないとの自覚が出てきて赤面する士郎じょう。
だがこれが普通の中学生の精いっぱいでもあった。
士郎じょうの心情に反し、大歓喜する姫。
しかし、次の涼からの一言が姫を苦しめる。
涼「では一人一個づつですね」
姫『…一人2個づつの量が入っているではないか』
涼「残りは夕食後にデザートとして頂きましょう」
姫の葛藤の旅が始まった
“ここはやはりフレンチクルーズか?いやオールドパッションも捨てがたい。まてポンポンリングもあるぞ。しかし…”
苦悶の表情で多種多様なドーナツが入った箱を見つめる姫。
若干の逡巡の後、やがて姫の表情が晴れた。
姫『そうだ!今こそ“切り札”発動の時!』
(涼“お戯れを”)
懇願にも似た涼の心の叫びだったが、姫は本気だった。
姫が4人になった。
それぞれ髪色の一部分がメッシュを入れたかの如く“赤”“青”“白”“ブラウン”と違う色になっている。
そして目の色もそれぞれ“赤”“青”“白”“ブラウン”の色になっていた。
違っているのはその髪のメッシュと目の色だけで、あとは寸分たがわぬ姫が4人いる。
呆気の取られる士郎じょうをよそに、4人の姫が同時に叫ぶ
姫『わっはっはっ!一人一個だ!』
そして4人の姫が同時に、4本の手を箱に伸ばそうとしたが、氷の壁が姫と箱の間に展開され、手の進行を阻んだ。
涼が表情を変えずに言う。
涼「その状態ですと4人で1個です」
姫×4人『ぐう…』
かろうじてぐうの音を出した姫。
そしてそのまま4人で悩みだす。
姫赤『やはりフレンチクルーズだろう』
姫青『オールドパッションもシンプルで良いぞ』
姫白『甘くないパイも捨てがたいな』
姫茶『ポンポンリングのもっちり食感もだな…』
やがて意を決した姫が食するドーナツを決定し、姫が一人に戻った後にお茶会が開催されたのだった。
―
涼「中等部、高等部、共に3月25日から春休みですので、そこからは精霊界に戻り、討伐作戦を開始します」
丁度良い機会だったので、その場でミーティングを開始する涼。
涼「我々は3月25日から国外に赴くと士郎知恵殿にもお伝え下さい」
涼が士郎じょうに向かって言い、士郎じょうは「はい」と返事をしつつ頷いた。
涼「ただし」
と前置きしつつ涼が話を続ける。
涼「観測班が常時敵を監視しており、事態が急変した場合は緊急連絡が入る手筈を整えてある。そうなった場合は緊急帰国して事態の対処を行う事になるので皆、心しておいてくれ」
焔「もどかしいもんだな。こっちから撃って出たいんだが…」
涼「会議の席で竜種族たちも同じ事を言っていて、諫めるのに一苦労だった。“前回と同じ轍を踏まぬように、”と言って諫めたんだが」
颯「“前回と同じ轍を踏まぬように、”ですか…」
涼が頷く
涼「全力で迎撃できるポイントで迎え撃つ。その為に観測班がしっかり敵を観測してスピードを把握し、こちらの戦力から判断して最善の迎撃地点を決めてある。地球の暦で言うと4月1日から4月5日くらいが“その日”になる予定だ。」
姫『精霊界での全体訓練は2~3日しか取れないと言う事か』
涼「はい。結局のところ我々も竜種族も集団戦闘のノウハウがあまり無いので、細かく決まり事を決めるような戦術は選択出来ません。ですので戦術は単純なものとなる予定で、全体訓練も2~3日で問題無いと考えます」
焔「実際、もう考えてあるのか?」
涼「ああ、ある程度はな」
涼が肯定の意を頷きで伝えつつ、言葉を続ける
涼「先陣は焔と火竜軍と地竜軍に立ってもらおうと思っている。第二陣は私と水龍軍、第三陣は風竜軍と颯と風の精霊たちで、主に先陣と第二陣の龍たちが飛びやすく風に乗れるように風のコントロールを頼む。火の精霊軍と水の精霊軍は地上で防衛を、そして大地の精霊たちは同じく地上で待機してケガの回復を担当してもらう」
焔「だよな。前に帰った時に火の精霊たちは“前線で暴れたい”ってやつが大多数だったんだが、飛んで戦うの前提になると思うぜって言ったら、あいつら困り顔をしてたんだ。」
焔が苦笑しながら言った。
涼「大まかにはこの布陣で決まると思う。竜種族も交えての会議で近日中に伝えるつもりだ」
焔「竜種族の奴らは前線なら文句は出ないだろうな」
涼「焔、颯、次に帰国した際は、各々の軍に伝えて準備を行っておいてくれ」
焔「わかったぜ」
颯「わかりました」
涼「そして姫は、“切り札、属性分身術”で我々をそれぞれサポートして頂きます」
姫『まかせておけ』
涼「身体は四分の一ですがそれぞれの身体には精霊力を四分の一以上保持できるその術で、私と焔には主に風乗りの術で飛行のサポートを、颯には精霊力のブーストを行って下さい。大地の分身の姫には回復をお願いします」
姫『うむ、隙あらば攻撃参加も辞さんぞ』
涼「荒事はなるべく我々にお任せ願います。まずは自身の身を守る事を優先してください。それよりも…」
姫『それよりも?』
涼「お願いが一つあります」
姫『なんでも任されよう。申してみよ』
涼「では、戦線に立つ事を精霊大王様に報告し、説得してください。よろしくお願いしますね」
姫が硬直する。
涼は颯に向き直って言う。
涼「先に述べた通り、春休みが始まる前日の3月24日を大地の精霊王捜索のリミットとします。その時点で大地の精霊王に出会えなければ…」
颯が息を呑む
涼「今回は諦めましょう。そして、春休み中に災厄の難事を終わらて、その後に此方に戻って来てからまた再会を試みましょう。大地の精霊王との再会を…」




