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見よう見まねでボクシングのファイティングポーズを取る焔。
焔(身長差がそこそこあるんだ。この距離は届かね…)
見えない圧力によって視界が天井に向けられる。顔の下部の方に刺激が感じられた。(試合後に考えたのだが)結果から推察できるのは顔が殴られたという事だった。
スパーリング中はもちろんそんな事を考える余裕は無かった。
無意識に視線を戻そうと、顔を戻す動作をしようとするが、それを待っていたかの如く、拳により頭がはじけて跳ね上げられる。
士郎知恵「相変わらずすごい技術ね」
軽い感じで士郎知恵が言う。
涼は驚愕していた。
(まさかこれほど一方的とは)
士郎知恵「スピード特化のジャブと、そのジャブでもヒットアンドウエイで距離感とらせにくくしているのと、ムチみたいに威力と軌道変化つけたりとか、それにフットワーク絡めて身体の置き方とパンチの出どころはなるべく死角になるようにしてる。対峙している焔君、相手を見る事すら難しいんじゃないかな」
一方的なまま2分が過ぎたころ、前田羽美がファイティングポーズのまま軽いフットワークで焔との距離を取って士郎知恵の方を見た。
士郎知恵が頷き、焔に向かって話す
「焔君。ファイティングポーズ、とれる?」
焔(!…腕があがらねぇ。なぜだ?)
察した前田羽美が言う
前田羽美「初めてグローブ付けたら、3分間腕を上げ続けるだけでも大変なんですよ」
士郎知恵「じゃあ審判権限で今日の試合は終了ね」
焔「ま、まだ…」
士郎知恵「ダメ、ガードが上げられない以上、審判権限で続行は許可できないわ。それに…きっと後で大変よ」
士郎知恵の言う“大変”の意味は今は良くわからなかったが、スパーリングはそこで終了となり、結局スパーリングの間に焔は前田羽美をまともに視界にとらえる事すら叶わなかった。
座り込む焔。いつの間にか道場の壁が背中近くに来ていた。
(追い込まれていた?いつのまに?)
ただ、今は壁にもたれられるのがありがたく感じた。
視線の先には軽くシャドーボクシングをしながら士郎知恵に話かける前田羽美の姿があった。
前田羽美「久しぶりに身体動かすとやっぱり楽しいです。来て良かったです。ありがとうございます」
士郎知恵がいつもの笑顔で答える「それは良かったわ」
前田羽美と軽く会話をしていた士郎知恵が、会話の切れ目の後に焔に近づいてきて目の前にしゃがみ、人差し指を一本、目の前に立ててゆっくり左右に振りながら聞いてきた
士郎知恵「指、何本に見える?それとあなたの名前は?」
何の冗談だ?と思った焔だったが、普段見せない士郎知恵の真剣な表情が素直な返事を余儀なくさせた。
焔「一本です。名前は江蓮焔」
士郎知恵「OKね。あと、顔をしっかり冷やしてね」
そう言って前田羽美のいる方に戻っていく。
前田羽美が困惑した表情で言う
「やりすぎたでしょうか?すごく鍛えている方みたいだったのでつい…すみません」
士郎知恵「大丈夫よ、彼からの申し出でもあるんだし」
次に少し離れていた涼の方に行き、涼に小声で言う
士郎知恵「涼さん、焔君の様子がおかしいように思ったらすぐ救急車を。それで病院では精密検査を、お願いね」
化身人化術によるリセットを行えばまったく問題が無い事なのだが、正直にそれを伝えるわけにもいかず、涼は「了解しました」と答えるのみだった。
姫『それでは次は私の番だな。』
立ち上がってシャドーボクシングを始める姫。
涼「…本日はここまでです」
稽古が終了となり、今日も食事会での再訪依頼を涼が言い、快諾した士郎一家と前田羽美だった。
一度士郎家の家に引き上げて、シャワーで汗を流してから再訪すると言い、
士郎知恵「見送りは良いんで涼君は焔君についていてあげてね。じゃ、またあとで来るわね」
士郎一家に続いて、お辞儀をして道場を退出する前田羽美。
そのころになると立ち上がる事は出来るのだが、視界に違和感がある焔だった。
涼が焔の顔を見て言う
涼「なるほど、これが知恵殿の言っていた“後で大変”か」
涼は道場の隅にあるクローゼットの収納からフォームチェック用の大きな鏡を出して焔に見せた。
顔が腫れてひどい状態になっていた。
特に右目の瞼の腫れがひどいように見え、視界不良の原因と思われた。
涼「大丈夫か?」
焔「問題ねえよ、見た目ほどの痛みはねえし。それに知ってるだろ、化身人化のリセットで…」
涼「それなんだが…、この後の再訪時に全く腫れていない顔になっていたらだな…」
焔「なんてこった!」
焔にも言っている意味が理解できた。
少なくとも、今日の再訪問後までは化身人化のリセットが出来ない事を。
―
焔「一度部屋に引き上げるぜ」
涼「片目が見えぬと距離感がつかめず、うまく歩けないと聞く。おとなしくここにいるか、歩くなら手で壁を触り、体を支えながら歩いてくれ」
焔「…わかった」
手探りで壁伝いに歩いて自室に戻り、ベッドに座る焔。
少し遅れてドアがノックされ、涼が入って来た。
涼「先ほど言われていたからな。冷やしている振りをしてくれ」
そう言って保冷剤を焔に手渡す涼。
焔「ああ…ありがとうな」
長居はせずに涼は部屋を出た。
火の精霊王が身体を冷やせ…格好がつかないといった所だろう。
涼はそう考えた。
そして焔もここ数日の付き合いで、涼が昔よりも気を使うようになっていると感じ、そう考えて“振りをしてくれ”と言ったのだろうと感じていた。
そもそも昔は(今もそうだが)精霊の王であり、“ほかのエレメンタルの精霊に気をつかう”という行為とはあまり縁の無いはずなのだが…そんな事を考え、涼の変化に少し驚く焔だった。
そして涼は先の焔の言葉“ありがとうな”を思い出し、
(火と水、その王という立場、礼を言い合うような事は…記憶にないな。あったとしても儀礼の形式としてのみで、心に引っ掛からなかったのか、あるいは本当に無かったのか…)
そんなことを考え、焔の変化に少し驚く涼だった。




