17 二重唱
課題の歌を披露する。
――それは、歌う生徒たちが試験官の教諭に予め願い出て、場所と時刻をみずから確定して行う。
ユナとアルムは、とある高級娼婦と彼女に恋い焦がれる青年の役で、有名な歌劇の最も華やかな第一幕の二重唱を選んだ。
流れる、ピアノの伴奏。本来はオーケストラだが試験である場合、ピアノ科の教諭が弾いてくれる。華やかで賑やかな三拍子が室内を彩った。
アルムとユナは、ちいさめの舞台――壇上でそれぞれ、役に入り込んでいる。
小歌劇室。
音楽棟の四階にある、歌劇の講義に使われるやや広めの教室に聴客として訪れたのは、試験官である声楽科の教諭とマルセルにジュード。かれらは、舞台よりやや離れた席に並んで座り、静かにビアノの音に耳を傾けている。
幕が上がるイメージ。
ユナは、今をときめく都で一番の高級娼婦。
アルムは、彼女を一途に慕ってきた青年貴族。
宴の主役は彼女。けれど歌劇の始まりは……
とくに息を吸う気配もなく、しなやかに空気を打つ柔らかな音――奇跡のような男声が響いた。
“酌み交わそう! この喜びの杯に
このうつくしい女性が 花添える杯に”
壇の中央、やや上手側でアルムが朗々と声を張る。
聴くものの耳を酔わせ、意識を搦めとり、陶然とさせる。これからの数分を期待させるに相応しい、並びなき美声。
無駄な力を抜いてスッと伸びた背筋。
左手は軽く握ってそのまま横に下ろし、右手は小道具の酒杯を品よく支え、鳩尾のあたりに添えている。
役どころは田舎に小領地を持つ貴族の息子なのだが、凛と佇む黒髪の美少年は、由緒ある名家の若き当主たる存在感をさらりと纏う。
そのことに、客席のマルセルとジュードはこっそり笑んでいる。教諭は目を閉じ、うっとりと聴き入っている。
やがてアルムのパートは終わり、ピアノの間奏部分へ。本来ここは合唱パートなのだが、今、壇上に立つのは主役が二人。多くは求められない。
それでも一度、空気が凪いだ。その間隙を突き、今度は頭上から、滑らかな絹を思わせる澄んだ女声が降り注ぐ。
“皆さんと分かち合いましょう
わたくしの この喜びの時を”
壇上の下手に控えていたユナは左手に酒杯を捧げ、右手を広げて視線をゆっくりと流す。
レガート湖の青い瞳。
背に波打つ、暁色の長い髪。
採点に容姿は含まれないが、客席の三名は思わず目をみはった。
うつくしい。
儚さと、場を支配する華やかさ。
享楽に身を委ねて今このときを楽しもうと、みずからの宿命すら軽く笑んで、歌に融けさせている。
天使のような歌声と相反する少女の色香に、思いがけず室内にどこか落ち着かない、そわそわと恋にさざめくような甘さが漂った。
“……楽しみましょう――”
少女は、場の女主人として優雅に中央に進み出て、上手側のアルムに歩み寄る。まなざしが束の間、ひたと絡んだ。
“愛のよろこびとは 儚いもの
咲いては散ってゆく花
二度と楽しむことは 出来ぬもの……”
青い瞳にはこの上ない幸せが。
濃い緑の瞳には焦燥に似た色がちかりと閃き、抑えきれない熱情となってかれ自身を彩る。しずかな、炎のように。
(これが演技なら、二人とも名優だ)
わずかに、胸に刺さる痛みとともに心の声を溢したのは、一体誰だったのか――聴くものも、歌うものも今は些細なことと自我を脇に置き、沸き上がる音の波に身を任せる。
再び、ピアノによる間奏のあと。
歌いつつ自然な身のこなしで少年が歩き、少女から離れて行った。
壇の中央、上手側にアルムを振り返るユナ。
下手側に、彼女を一心に見つめるアルム。
視線を繋いだ二人は、同時に唇をひらく。
互いに、ほころぶような笑顔で。
“楽しもう! 杯と歌を!
夜が輝きを増し ほほ笑むと この楽園に
あたらしい 一日がやってくる”
もう一度同じフレーズを繰り返して、歌曲はいよいよ終盤、音階のみを奏でる軽やかな二重唱へ。
天上にまで届きそうなほど澄みきって、華やかなユナの高音。
すべてを受けとめて、柔らかく包むアルムの中低音。
完璧な調和に満たされたアリアは容赦なく空気を揺らし、水面を伝う波紋のように室内に広がる。それは聴客の心にも届いた。
誰かの胸が不意に、ぎゅっと締めつけられる。
――これは、第一幕。本来の歌劇なら、楽しみはこれからのはずなのに。
聴客の切なさを振り切って、階段を駆けのぼるように音が速さを増す。ピアノ伴奏も勢いを増し、追い上げるように鳴り響く。
物語の始まりを告げる、うつくしい歌声の共演はやがて……
~~ーーーー―ィィン……
と。
最後の一音が鍵盤から弦を伝い、反響板へと渡ったグランドピアノの余韻を残して、きっぱりと。あざやかに終わりを告げた。
しん……、とした静寂のあと。
突如、一人分の拍手が部屋に鳴り響く。
まずはマルセル、そしてジュード。なんと教諭まで。
それぞれ音色の異なる三人分の労いと、感動を伝えるあたたかな音――そこに、にこやかに壇上を仰ぎ見るピアノ教諭の拍手まで加わった。
「えっ……?」
「……!」
驚いた表情で互いを見つめる二人。
――それもすぐ笑顔にとって替わり、どちらからともなく、中央へと歩み寄る。
にっこりと、どこかはにかんで微笑みあうかれらが交わすのは、もちろん握手。
手のひらに合わさる互いの温もりに、主役二人はコツン、と額を合わせると、ふふっと幸せそうに笑みを深めた。
パラパラと小雨のように、途切れぬ音。
「そこまで! その辺にしとけよー」という朗らかな声に周囲の笑い声も混じり、課題を終えた二人は暫し、やさしい拍手に包まれた。
ヴェルディの『椿姫』より、乾杯の歌ですね……(あぁ、おそれおおい)




