綴
これにて終幕です。
卒院後の二人は――の、部分となります。
ユナは、そっと目をあけた。
「あれ……ここ?」
ぼうっとした視界に映る、緑の庭。意外な生命力で咲き誇る白い野ばらに、下生えでささやかに群生する愛らしい菫。黄色い蝶が忙しなく花と花を行き来している。
森のような庭。さざめく葉の天蓋から斜めに洩れ差す陽の光。不規則な木立の奥からは、小鳥の囀りが聴こえた。
くるっと振り返り室内に目を凝らすと、さすがにそろそろ見慣れた、慎ましくも品よく飾られた小部屋が浮かぶ。上流階級ではサロン、というらしい。
ユナは、庭に面した窓近くのソファーで、背凭れに頬を預けてうたた寝していたことを思い出す。
――なんだか、懐かしい夢を見た。
開け放った窓から微風がそよと吹いて、白いレースのカーテンとユナの薔薇色の髪を揺らす。ふわり、と浮かぶ長い豊かな髪を、彼女は手で撫で押さえた。
貴族の。それも、創国以来連綿と続く名家なのだから、もっと厳つい豪邸と思っていた。
つくづく先入観とは怖いものだな…と、バード楽士伯邸に訪れたときは痛感したものだ。かれとの出逢いも、遡ればそうだったのだから。
『そう? うちはこうだけど、きらびやかな邸なら……あぁ。確かにあるね、もっと街側に』
街、とかれが称するのは観光街や平民街のことだ。ここは貴族街のさらに旧区画で、皇宮へと続く主街道に面した一等地。新興の下級貴族はこんな場所に邸など建てられない。
『貴族にもいろいろ、あるのね……』
そう呟いたユナを抱きよせ、いとしげに額に唇を落とした若き当主の青年は、それはそれは魅力的な笑みと声で容赦なく、新妻が他の些事へととらわれぬよう巧みに陥落させていた。
学院を卒業してすぐのこと。
――それからは、驚くほど瞬く間に時が過ぎていった。
今、アルムは西の隣国に遠征中。
かれは皇国楽士団の歌長として、招かれれば否とは言えない立場にある。
『体を大事にしてね。飛んで帰ってくるから』
と、真剣な表情で言っていた。本当に飛んでくるかもしれない。そう、予定よりずっと早く……
その時。
「奥様、こちらにおいででしたか」
コンコン、と開け放してあった扉を叩いて入室を知らせる声がした。この声は――お邸の家令さん。
栗色の髪、涼しい灰色の瞳の青年は、アルムの側近にして乳兄弟。とても便りになるひとだ。
ユナは、にこりと微笑んだ。
「ダーニクさん。いいですよ、“ユナさん”とか“エーシェンさん”で。アルムの厚意で住まわせてもらってるんですから、本当はお仕事しなきゃいけないのに」
「またそんなことを。……アルム様にこっぴどく叱られますよ。誰がなんと言おうと、貴女様はこの邸の女主人です。お間違いのないように」
口調は平淡だが、とても優しい気遣いにあふれている。ユナは――アルムとの婚姻を、皇王に認めてはもらえなかった。
よって、式も挙げていない。アルムやマルセルは沈痛な面持ちをしていたが、ユナは、そこは気にしていなかった。自分の出自を考えれば当然の処置といえる。
――――側に居られることが、奇跡。
いまだにそう思う。
透明な、凪いだ視線を宙にさ迷わせるも……ユナはゆるく目を閉じ、頭を振った。
だめだ。視力が著しく衰えている。
明るい光に照らされたものなら色合いでぼんやりと判別できるが、室内は無理。
ユナは薄く息を漏らし、ふたたび背凭れに体重を預けた。自然と右手が、まだ膨らみの目立たない腹部に添えられる。
――――授かったことが、奇跡。
この子と、アルムが生きた証。
(わたし、絶対にあなたを送り出すから。どうか、あなたも……アルムみたいなひとと、出会えますように)
ごめんね、とは心の中であっても言わない。
だって、愛してる。
こんなにもいとおしい。
目を閉じ、微動だにしないユナにそっと膝掛けをあてて、ダーニクは静かに退出した。眠ったと思われたのだろう。確かに眠い。妊娠がわかって、悪阻が落ち着くと日中でもひどく眠くなった。
今は、見えないのに“見る”のが億劫だから目を瞑っているだけだけど……
微風に、ほどけるように柔らかい笑みが自然とユナの頬に浮かんだ。
「……お願いね」
アルム、の部分は唇の動きだけで吐息に乗せた。
聞かせるべき相手がまだ、帰っていないから。
予定を早めて、息せききった若き歌長が飛び込んで来るまで、あと少し。
もう少しだけの幸せをかみしめるのは、きっとすごく贅沢なことだよ、と。まだ会えないあなたにも、伝わりますように……
ユナはずっと、心に綴っている。
fin.




