16 闇夜の、星ひとつ
学院の入り口、西塔の崖下はただでさえ月明かりが届かない。まして今夜は曇り空。いつもなら目映いほどに夜空を埋め尽くす星々も、おぼろな光の影すら見当たらなかった。
ただ、静かで暗い。
湖の波音がちゃぷ、と聴こえるくらいであとは無音。今夜は風すらない。
「はぁ……そろそろ戻らないと、また怒られる……」
木立と湖の中間に位置する、木のベンチ。
ユナは一人、膝を抱えて座っていた。
いつも通りここで残照を眺めて、帰ろうかと思ったが、なんとなく帰る気が失せた。
昼間、アルムと並んでいた綺麗な少女が、そういえば最近寮で見かけるようになった他国からの留学生だったな……と、思い出したのもある。
戻って、うっかり間近で見てしまったら。
――おそらく表情を取り繕えない。
ユナは嘆息した。
「どうしてだろな……ただ、死ぬまでの間に誰にも迷惑かけず、生きてたいだけなのに」
「――聞き捨てならないな、ユナ。ちょっと気が変わった。隣、いい?」
かさ。
さくさくさく、
……どさっ。
「…………え、えぇっ?!! その声っ。嘘、アルム??!」
突然、左側に誰かに座られた重みがベンチを伝う。やたら決然とした意志に満ちた、甘やかで深いテノール。気のせいじゃない。
名乗るよりも雄弁にそれが誰かを教えてくれる、特別な声だ。
(……まてまて、待って。その声は、こんな暗いなかで聴くもんじゃない。見えない分、耳が働きすぎる――!)
「ユナ」
「はっ……はい?」
内心の動揺そのままに、答える声が上擦った。動悸はまだ収まらない。
「きみと、結婚したい」
「……ぇっ……? ……~~~ッッ?!」
小さく訊き返し、一拍遅れて叫びそうになるのを――両手で、慌てて抑え込んだ。
なにを……何を、このひとは今、言ったんだろう?
少女は声もなく隣の人影に目を凝らしながら、混乱と歓喜と、なぜか泣きたいほどの悲しみの極みに容赦なく、一瞬で叩き落とされた。
* * *
ユナの口許は、彼女自身が押さえた両手によって隠されて見えない。そもそも闇夜。
けれど大きく見開いた青い瞳は、雲に遮られた向こうの一等星がこぼした僅かな光を受けて、うっすらと青みを増したような気がする。
アルムは怒っていた。
きっかけは、足音を忍ばせて近づいたとき、漏れ聞こえた彼女の呟き。
“ただ、死ぬまでの間に誰にも迷惑かけず、生きてたいだけなのに”
――――正直、は? と思った。
それが、拒否された理由なのだと思い至り、彼女の抱える闇かと思うと、むかむかして止められず、気付くとベンチに腰掛けていた。
(だめだ、抑えられない)
アルムはしずかに息を吸うと再び、腹の底からの声をpでそっと響かせた。聴客はユナひとり。
「あのね、ユナ。私の両親は私が十三の年に、死んだ。殺されたんだ。東国での仕事中に」
「え」
ユナの口許から、手の覆いが外された。ゆるゆると下ろされた手の位置を探りあて、暗闇のなかで強引に掴む。
――細く、つめたい手。
記憶が刺激されて、その手を温めたくて、アルムはただ無心にみずからの両手でそれを包み込み、胸元に引き寄せた。
返事は待たない。
「皇国楽士の、父はヴァイオリン独奏者。母は、先の歌長だった。招聘を受けて……招かれた先で騙し討ちに遭って、囚われたんだ。
解放の条件を提示されて、でも陛下は静観を決め込んで――なにも、なさらなかった。両親を助け出してくれたのは、マルセル殿下のご婚約者、白夜の国の雪花王女だったよ。今、この学院に短期留学に来ておいでだけど」
暗闇のなか、ユナがわずかに身じろぐ気配がする。こわごわと、声が届いた。
「おうじょ、殿下……だったの、彼女。しかもマルセル殿下のご婚約者……?
いえ、ちょっと待って。どうして、一介の姫君にそんなことが……どうやって……?」
混乱の色を濃密に漂わせながら、それでもユナは問う。
学院の学習課程は芸術分野だけではない。王候貴族並みの地理や歴史、教養も含まれる。よって、ユナもそれなりに国際情勢には詳しい。この国の立ち位置も。
皇国楽士団は、産業と呼べるものは観光以外に何もないこの国の、唯一の稼ぎ手――であると同時に、様々な危機に晒される。
そうならないための。
或いは、そうさせないために外交分野はことのほか重要視されるのだと。
講義ではっきりと聞いたわけではないが、それらの修了課程を終えたとき、ユナは自然とそう思えたのを覚えている。おそらく、間違ってはいない。
アルムはゆっくりと頷き、その声に答えた。
「雪花様はね、現白夜国王陛下の愛娘なんだよ。……大好きで、焦がれる婚約者の国を助けたいって気持ち一つで、あの方は父君を動かしてみせた。凄かった。白夜の一個師団の精鋭、二万。東の草原の国に差し向けてくださったよ。
彼の国にそうやって、重圧をかけて……両親を解放させてくれたんだ。もう、殺されてたけど」
「っ……―――!! ……な……」
再度。
ユナが、握られていない左手でみずからの口を覆った。叫びは抑えられた。
でも、涙が伝った。
見開いた青い目に、こんこんと涙があふれる。自分のことでは、ちっとも泣けなかったのに。……ただ、ただ悲しい。目の前のひとの心を思うと、つらくて――……くるしい。
「……ごめん。泣かせるつもりじゃなかったんだ」
アルムの声音からは、いくらか烈しさが収まっていた。
震える細い肩に手をかけて、思いきり抱き寄せる。
服が、彼女の涙を吸いとった。
涙は最初つめたかったけど、じきに彼女自身の熱に取って替わった。その熱が、ひたすらいとおしい。
「あのさ……誰でも死ぬんだよ。君だけじゃない。短命? いいよ、それでも。私がその分、頑張って長生きする。君の、残りの時間が全部欲しいんだ。…………だめかな? ユナの、全てを預けてほしい」
抱き締めた腕のなかで。
ちいさく震えながら、ユナは――こくり、と頷いた。
アルムの手で温められた両の腕をそっと、かれの背に回しながら。
(……!)
若い歌長の暗緑色の瞳が、驚きで見開かれた。心を満たすのは、深い、深い歓喜。そして幸福感。――ほんの少しの、未来を思う痛み。
藍色の濃い夜空に。
雲の切れ目からひとつだけ、あえかな星が瞬いていた。




