9 うつろう時間、ささやかな約束
灰色を帯びる西の空は、燃えるようなオレンジ色の残照。いままさに落陽のとき。遮るもののない湖の畔でそれは、最も華やかな薔薇色の光に変わりつつあった。
アルムは、木立の下生えを踏み分けながら、空と同じ髪色のユナのもとへと歩み寄る。
今は申し訳なさそうな表情を浮かべる整った顔も、その私服姿も夕映えに照らされて似た色に輝いて見えるのを、本人は気付いていない。
先ほどの発言の照れで、目線を足元に落としているため――ユナが、なかば口を開いたままで彼を見つめているのにも気付けなかった。
なかなか返事がないので、そのまま彼女の隣に立つ。赤光のなかでも青の色調を保ったままの瞳に感嘆しつつ、再度声をかけた。
「ごめんね、急に変なこと言って――……ユナ?」
「あ、アルム……だよね? ごめん、こっちこそ。集中しすぎてて、声、掛けられるまで全然気付かなくて……えぇと、私服? だし。一瞬、わからなかった」
さっきまでの、風景に溶けかねぬほど儚く見えた少女はどこへやら。ユナは、あわあわと焦った様子で答えた。
アルムは、ほんのり微笑する。優しげに細められた暗緑色の瞳は少し金を帯びて見えて、不思議な色合いになっていた。
思わず、少女は口走る。
「すっっっごく、綺麗よね。アルムって……」
ため息まで吐いた。本気だ。
対する黒髪の少年は怪訝顔。たちの悪い冗談を聞いたときのような表情に、他意のないユナは、さらに言い募る。
「言われない? 女の子より綺麗だって」
「マルセルにはよく揶揄われる。『誘われた』って言えば『男に?』って訊かれる程度には――って、こら。そこ、笑わないの」
くつくつ、と懸命に手で口を押さえて笑いを誤魔化している少女を見咎めたアルムは、ちょっと傷ついたな、と言わんばかりの甘さを含むテノールで非難した。
少女は悪びれず、笑いながら返事をする。
「ふふ、う、ごめん。多分、ジュード殿下よりましだけど、私も相当笑い上戸なのよ。で? ほんとに、男の子から誘われちゃうの?」
なるほど、確かに笑い上戸と納得し、アルムは視線を空に流しつつ、ざっと過去をさらった。
……『低学年の頃は、なくはなかった』とは、伝えずにおこうと瞬時に判断する。よって、瞑目し、ゆるく頭を振った。
頭を振るたび、さら、さらと黒髪が靡く。その様にもユナは見とれる。残照が衰えて、かれに投げ掛けられている金の光が消えてゆくのを、惜しいと思いながら。
「一応、女の子から。課題の歌のパートナーを探してる子達から、よく誘われるんだ。あんまり学舎をふらふらしてると、すぐ声、掛けられるから。一々断るのも大変だし……最近はいつも四階の研究室とか、図書の塔にいる」
「ふうん」と、少女は笑いを納めていた。辺りは徐々に闇色に沈み始めている。アルムは、少し残念な気持ちになった。
「……悪い。練習の邪魔に来ちゃったみたいだ。肝心の歌、歌えなかったね」
つ、と。
今やほとんど黒に見える双眸をユナから逸らして侘びるアルム。心なし、しょんぼりと項垂れて見える姿は雨に濡れた黒猫のようで、ユナは再び慌てた。
「え?! いえ、いいのよ! 元はと言えば、私が振った話題だし。あの、明日も来るから。明日、歌おう?」
思わず少女は、二歩分ほど空いていた距離を詰めた。少し不揃いな芝をさく、と踏みしめて右手で、かれの左の袖を引っ張る。
小柄なユナが、自分の――服であっても、一部分にみずから触れているという事実に気がついて、アルムは艶やかな笑みを浮かべた。
「…………っ!」
瞬間、言葉に詰まるユナ。
(うそ。何、この美人。聞いてないよ、このひと、一人だと雰囲気がぜんぜん違う――!)
固まるユナの表情に不思議そうにしながら、黒髪の少年はさらに、にこっと邪気なく微笑んだ。そのまま、袖を掴む少女の指を右手で外し、左手で触れる。
直接あわさる手のひらの感触に、ユナは再び、びくっと身を固くした。
「!」
「足元、暗いから。上にあがるまでエスコートさせて。そろそろ行かないと寮の夕食に間に合わないし。君は、食いっぱぐれるべきじゃない。遅くなってごめんね。明日はもう少し早く来るよ」
――なるほど、かれは貴族。
しかもこの国の筆頭とも言える旧家の当主だった。女性のエスコートには慣れてて当たり前なのか……と。そう思い当たったとき、ユナはなぜか安堵と落胆を覚えた。
すでに辺りは夕闇。確かに、足元は覚束ない。
少女は「うん。わかった」とだけ答え、引かれるままにゆっくりと歩き出す。
――見るともなく、崖の上を見あげる。
東の藍色の夜空に、星が瞬きはじめていた。




