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8 彼女の領分

 ぱたん、と扉の閉まる音のあと。

 アルムは重い総譜(スコア)をどさっ! と机の脇に置くと、肘をついて頭を抱え込んだ。

 つややかな髪に覆われて、その表情は窺えない。が、少し呻いているようでもある。

 ちなみに耳は出ている。赤い。


「~~ぅぅ……!」

「……」

「……」


 ((何なんだろう……この、男のくせにやたらと可愛い生き物))


 心の声が完全に合致したのには気づかず、そっと目配せを交わす青年と少年。


 目線で「お前、言う?」と、互いに譲り合うが。先に折れた――或いは、嬉々として先に話しかけたのはマルセルだった。


「恋患い、おめでとうアルム」


「よかったなアルム。これで私も、父として安心だ」


 歌劇の配役にかこつけて、未だに“父”を名乗ろうとするジュードに、流石に黒髪がぴくりと動いた。


「なんで、わかるんです……! 何にも言ってないのに。それにジュード、先に彼女に声をかけたのはお前だろ。その……いいの? お前、あぁいう子好きだろ」


 ジュードは片眉をぴく、と上げた。


「まぁ、好きだな。だが、それだけだ」


「――」


「常々言ってるだろう? 娶らねばならない女が、国に五指で足りぬほどいると。連れ帰れるわけがない。ユナとのことは、割りきって今の関係を楽しんでる。確かに、アルムよりは早く彼女と出会えたわけだが」


「ちょ……おま、それ。言葉(づら)だけ聞いたら、けっこうひどい奴なんだけど……え、無自覚なの?」


「だから」


 ジュードは、マルセルのある意味真剣な訴えを、綺麗さっぱり聞き流して続けた。


「――気にするな。されても困る」




 ……そうして、たっぷり二小節分、全休符二つ分ほどの空白のあと。



 黒髪がゆるゆると動き、伏せられていた(おもて)が上げられる。眉をひそめた整った顔が(あらわ)になり、すぅっと、濃い緑の目がプラチナ色の髪の悪友に向けられた。視線には、読みがたい複雑な色彩(いろ)が滲んでいる。


「……ジュード、そういうところ、本っ当に不器用だよね」


「放っとけ」


 灼けた肌の美貌に不敵な笑みを浮かべ、南国の王太子は何でもないことのように言って退()けた。


 気まずげに、白銀の髪の青年はあさっての方向に目を向けて、頬を指で掻いている。




   *   *   *




 夕暮れ時。

 見下ろした西塔の崖下にユナはいた。

 高く、低く――風にのって耳に届く声が軽やかに音階を踏んでいる。技巧的な音階移動をスムーズにするためのごく基礎的なパターン。しかし、彼女が歌うとそれだけで一つの曲になる。


 (何だろう……心の込め方なんだろうか。歌、そのものへの)


 崖下に至るまでは、長い石の階段を降りる必要がある。ひとつ段を降りる度、徐々に近づく不思議な響きの心地よい歌声。意識は簡単に(から)めとられた。


 ぱき、と小枝を踏む。

 下まで辿り着くと、目についたのは(まば)らな木立。足元の芝は手入れがおろそかになっているようだ。

 しばらく歩くと、レガート湖の波打ち際が見えた。ちゃぷ、ちゃぷと音が聞こえる。

 ……今日は風がつよい。


 なんとなく、目許を腕でかばいながら声の方向へと歩を進める。

 やがて、まぶしい夕映えに細められた暗緑色の視線の先に、たなびく薔薇色の髪をとらえた。

 風に(ひるがえ)る制服のスカート、華奢な背中、白く細い手足。歌声も、目の前の湖に聴かせることで、まるで溶けてしまっているようで……


 空の夕焼け色と、彼女の髪の色がかさなり、稜線があやふやになる。


 気がつくと、言葉がぽろっと零れた。



「捕まえててあげようか? 風に飛ばされて、消えちゃいそうだ」


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