33話
「御館様が、恐ろしい……?」
兼続は何を云っているのだと、そんな顔をしている。
景勝も分かっていた。こんな反応が返って来ると。
兼続だけではない、他の家臣に聞いても同じような反応が返って来るだろう。
「? ああ、確かに恐ろしいまでに御強いですからね。敵にとっては誰よりも、しかし我らにとっては正に……」
ほら、云わんとしていることがやはり分かっていない。
だからこれまでの会話の流れでこんな感想が出て来るのだ。
「違う、そう云うことじゃないんだよ。叔父上は何を考えているか分からないんだ」
此処に来て、ぼんやりとしていた顔が内面そのままの苦いものに変わる。
「信長公は実に分かり易い性格だ。合理的で尚且つ激情家、その癖、感情の制御が上手いから大胆に行動しながらも慎重さを忘れない」
性格が分かるからと云って信長の一手を総て看破出来るわけではない。
後になって気付くようなものの方が圧倒的に多いのだ。
だが、行動の根底に潜む人間性と云うものは物凄く分かり易い。
「分かり易い性格だから、どう付き合えば良いかも分かる。
あれをすれば怒る、これをすれば喜ぶ。そんな風に一個人としての付き合い方が明白だ。
国と云う単位での付き合いにしたらもっと分かり易い。真面目に働けばそれで大丈夫」
忠節があるから放って置いても大丈夫。
などと軽んじられることもなくしっかり報いてくれるので気が楽だ。
「だから俺は信長公が怖くはない」
人間味があるのだ、織田信長と云う男には。
恐ろしくキレてはいるが、弟の一件で激憤したりと人間臭いところが多々存在している。
だからこそ得体の知れぬ何かと付き合っているのではない、人間と付き合っているのだと実感出来るのだ。
「そう云う意味で、叔父上の好敵手と世間で目されている武田信玄。アレも怖くはない」
信玄、あれは信長よりももっと分かり易い。
欲深な人間で、手を繋ぎながらも打算を忍ばせ後ろ手に短刀を隠し持っている。
隙あらば何の躊躇いもなく刺して来るが隙を作らねば良い付き合いが出来る。
「信を置かずに付き合っていれば良いんだもの。
隙を作らぬように、それでも隙が出来そうになったのならば裏切るなど覚悟が出来る」
だから怖くはない。
一個人としての付き合い方も国同士の付き合い方でもこうすれば良いと云う指針が明確に打ち出せる。
信玄もまた人間味に溢れた存在だから。
「だが叔父上はどうだ? 兼続、お前何考えているか分かるのか?」
「そんな、御館様の深謀遠慮を推し量ろうなどと恐れ多い……」
「それだよ」
程度の差はあれども、上杉の家臣は皆こんな具合なのだ。
景勝自身も少し前まではそうだった。
変わったのは信長の台頭、華々しい活躍とそれに付随して降り掛かる上杉はどうなるのだろうかと云うプレッシャー。
その中で徐々に徐々に思考停止状態から抜け出て今に至った。
軍神、上杉謙信と云う呪縛より解き放たれたのだ。
「足利からの打診を受けた時、家中の者はどうなのかと不安があった。
でも結局、謙信様は義理に厚い御方。弱きを助け強きを挫く。
専横激しい織田よりも、曲がりなりにもこれまで尽力していた足利を助けたいのだろうと納得した――本人は何も云っていないのに」
それがどれほど恐ろしいことなのか。
景勝は今現在の上杉に対して誰よりも危機感を抱いていた。
「挙句の果てに叡山焼き討ちの報が届くや、やはり御館様は正しかった!
あのような天をも恐れぬ悪逆非道の輩に組みすればどうなっていたか。
我欲がために叡山を焼くような天魔であると見抜いていたからこそ御館様は反信長包囲網に加わったのだ!
って……馬鹿か? 阿呆か? お前らまとめてその頭は飾りなのか?」
恐ろしい恐ろしい。
何一つとして謙信は自身の意を告げていないのに周りが勝手に勘違いして納得してしまっている。
御館様は正しい、軍神は無謬、目が曇っているのだ。
「歪な現状に気付かない皆もそうだが、それを放置している叔父上もどうかしている。
叔父上は何を考えておられるのだ? 俺には何一つとして分からない」
「御館様は不義を嫌っておられるではないですか!」
そう反論する兼続だが、
「ああ、確かにそんなこともたまに口にする。義がため、とかな。
だからこそ皆も勝手に理屈をつけて勝手に納得してしまって流石は御館様! と賛美する。
しかし、しかしだ……その嫌いと云うのもどうなんだ? 本気で云っているのか?」
あまりの人間味の無さ。
それで好きとか嫌いとか云われても正直信じられない。
「誰か叔父上と腹を割って語らった者は居るのか?」
だと云うのに何故謙信を語ることが出来る。
義人だの軍神だのと勝手に神格化して持ち上げて……。
それがどれほど危険な状態であるのか分かっているのか。
「甥で――義理の息子である俺ですら何を考えているかは分からん。
語らおうとしたこともない、俺もこれまでお前や他の皆と同じようなものだったからな」
「な、ならば……」
語り合えば良い、そう云おうとした兼続だが最後まで続けられなかった。
語らう? 腹を割って御館様と? どんな風に? どう切り込めば良い?
あの厳しい瞳に射竦められれば頭の中が真っ白になるのに。
盲目のままただただ崇めていれば楽だけど、向かい合うとなれば……。
「俺も語らおうとした、語らおうとしたところで気付いたのだ。
一歩退いて、上杉謙信と云う人間を見てみると……あまりに人間味が無さ過ぎて気持ちが悪い」
それは信長と信玄が謙信に抱いているそれと同じであった。
景勝もまた彼らと同じ感情を抱き、謙信に対して一歩踏み込めずに居る。
生理的な嫌悪と云うべきか。
「得体の知れない何かに見えて足が竦む。それに、問い掛けても答えてくれるだろうか?」
何時だって唇を真一文字に結び、必要な時にしか口を開かない。
開いた口から放たれた言葉のままに、これまで上杉家の人間は動いて来た。
まるで宣託を聞いたかのように、喜び勇んで。
「何時ものように荘厳なツラでだんまりを決め込まれたら八方塞だ。
危険な現状を変えるためにも、どうにかせねばと思っていてもどうすれば良いか分からない。
誰もが誰も叔父上を神聖視し、総てを委ねてしまっている。だが、叔父上が居なくなればどうなる?」
後継者問題だ。
例え自分が後を継いだとしても、謙信以来の家臣はさぞや扱い難いだろう。
「叔父上が若ければそれも良いだろう。だがな、好敵手と目されている信玄を見てみろ」
病に臥せっていて、もしかしたら既に死んでいるのかもしれない。
ただ、自分の死が知られてしまえば信長の侵略を招いてしまう。
だから必死で隠し通すように、などと遺言を遺し本人はポックリ逝ってしまっていても何ら不思議ではない。
「何時何が起きても不思議ではない。例え死せずとも、だ。
信玄のように戦場で倒れでもしてみろ、そこから上杉は戦えるか? 攻め切れるか?
無理だ、動揺が広がって逃げ帰ることしか出来ないだろう。俺達にとっても三方ヶ原は他人ごとではないのだ」
武田の二の舞となり、上杉が斜陽に入り、やがては完全に没す。
そんな未来は決して絵空ごとではなく、十二分にあり得る現実なのだ。
しかしそれを危惧しているのは家中において景勝唯一人。
盲いたまま絶対の信を謙信に預けているせいで誰もが憂慮していない。
謙信だって人間なのだ、何時何が起こるか分からないはずなのに。
その、何かが起きた際の備えに対して上杉家はあまりにも無防備。
「か、景勝様……で、ですが景勝様がおられますし……」
「無理だ。確かに俺は軍神の後継と目されてはいるが、軍神ではないのだ」
謙信と同じ役割をこなせと云われても不可能に決まっている。
第一、謙信と同じような振る舞いなどしたくもない。
「そう云う意味で織田は……信長公は実に上手くやっている。
あちらも当主たる信長が絶対の存在であると云うのは同じだが、依存しているわけではない。
それこそさっき三方ヶ原だ。あれを見ても分かるだろう?
信長が生死不明の状況にも関わらず残された家臣達の行動は実に迅速だった」
確かに混乱は広がった。
しかし、被害は最小限に食い止められたし奪われた領土も取り返せた。
「留守の間、全権を預けられた奥方の濃姫殿、そして重臣の羽柴秀吉や竹中半兵衛。
彼らは冷静に状況を判断し、その上で即座に三河の徳川と合流。
どころか、今川氏真もかなりの英断を下している。全軍を集結させて三方ヶ原で武田にぶつかり見事退けてみせた」
「しかし、あれは運が良かったと云う面も……」
「いや違うな」
兼続の反論をバッサリと叩き切る。
運もあるがしかしそれだけではなく武田にも責任がある、それが景勝の見解だった。
「信玄が倒れたからと直ぐに撤退した。このままでは秀吉、家康、道三、信秀と渡り合えぬと判断したのだろう。
しかしどうだ? 武田にも優秀な将は揃っているし、三方ヶ原にも多く参陣していたじゃないか。
つまりは、だ。何のかんの云っても信玄に対する依存が大きかったんだよ、武田も」
だから折角奪った領土を取り返される羽目になってしまったのだ。
ゆえに運だけではないと断言出来る。
織田と武田、それまでに積み重ねていたものの差が表れたのが三方ヶ原の戦いの本質である。
景勝の指摘に兼続も反論することなく成るほど、と頷く。
「武田でさえそれなのだ。もっと依存が酷い上杉ならばどうなる?
下手をすれば内乱もあり得るぞ。怠り続けたツケを上杉が払う日も、そう遠くはないのかも……」
先が見え過ぎるがゆえの苦悩だ。
優秀な人間であればあるほどに、要らぬ苦労を背負い込んでしまう。
これならばいっそ、謙信の夢にまどろんだままの方が良かった。
そう思う景勝ではあったが、それでも目覚めてしまったことに意味があると信じねばやっていられない。
「で、では上杉はどうするべきであったと?」
「上杉、と云うよりは叔父上だ。叔父上は信を預けられるだけでなく信を預け、和を作るべきだった」
「御館様が我らを信じておられぬと!?」
「何も云わんのに伝わるものか。内心がどうであれ言葉に、行動にすることで初めて意味が生まれるのだから」
「簡単に云いますが、しかしそれは……」
「手本ならば先に挙げた織田を、信長公を見てみると良い」
景勝は夢から醒めて以降、信長を手本とするようになっていた。
無論、用兵などは変わらず叔父である謙信の――と云うよりも上杉のそれを学んでいるが。
上杉の人間を扱うに適した用兵は上杉の中にしかないから。
しかし、それ以外の大部分では信長のそれが大そう参考になっていた。
「彼の御人は家臣とよく語らっている。
信長公はよく、自分の発言の意図が分からぬのならば自分に聞きに来いと云う。
分からぬまま放置しておくよりも分からぬものを分かろうとする姿勢こそが素晴らしいのだと賛美して臣らが聞き易いようにしてな。
そうすることで自分の意を浸透させ信長公ならばこうするであろうと、家臣らの頭に新たな思考形態を刷り込んでいる。
だからこそ不在の間に非常事態が起きたとしても独自の判断で動くことが出来るのだ。
無論、それだけではないが土壌となっていることは疑いようもない」
何でそんなこと知っているの? と思うかもしれないが簡単なことだ。
有名になればなるほど、誰もが思うのだ。
織田信長とはどう云う人間なのであろうか、と。
家臣らは信長がどんな人間か? と聞かれた際に色々と話す。
その際に漏れた話が人伝いでどんどん広がっていくのだ。それゆえ景勝もよーく知っていると云うわけである。
「加えて、よくやっている褒美の出る余興。
美濃攻略の際に催したそれが分かり易いか。あれらは家臣の考える力を養うためのものだ。
しかも、褒美を出すことで楽しく出来るから苦にもならない……上手い手だよ。
そうやって何かと考える機会を与えているからこそ、非常時でも上手く動ける。
単一の要素ではなく複合的な要素が絡み合って結実したのがあの三方ヶ原だと俺は思う。
他にも家臣が婚姻を結ぶ際には仲人を務めたり、功あらばよく褒め、
失敗をしても叱責をしつつも次があると慰め、どうすれば良かったのかと共に考えたり……和を結ぶことに余念が無い」
だからこそ、家臣らも信長を絶対の存在であると忠を捧げながらも近寄り難いとは思っていない。
この辺りが上杉とはかなり違う。
「そして、美濃攻略の一件や各地に配された方面軍を見ても分かるが信長公は自分以外にも大きく権限を持たせる。
そうすることで内外に知らしめているのだ、織田とは信長を筆頭にして傑物揃いである……と。
実際、織田で有名な人間を挙げてみろと云ったら信長公は当然として他にも幾つか挙げられるだろう?」
「鬼柴田、米五郎左、羽柴秀吉、明智光秀、今孔明の竹中半兵衛、蝮の後継帰蝶、退くも滝川進むも滝川……」
兼続はつらつらと勇名轟く者達の名前を挙げていきハっとなる。
ああ、確かにその通りだ。
例えば城攻めをした際、そこに信長が居なかったとしても勝家辺りが詰めていると知れば梃子摺ると考えるだろう。
しかし上杉はどうだ? 戦場に謙信が居ない。
それを敵方が知れば謙信無き上杉何するものぞと意気高揚となるだろう。
「分かっただろ? 家は上杉と云えば謙信なんだよ。勿論、優秀な家臣が居ないわけじゃないぞ?
ただ、織田は優秀な家臣が居て尚且つ彼らの力を十全に活かせる環境を信長公自ら丹念に作り上げているんだ」
だから織田と云えば? で信長以外にも色々と名が出て来るのだ。
「一朝一夕で出来ることじゃない。家督を継ぎ、その覇気を露にした桶狭間以降地道に作り上げて来たんだろう。
総てはこの状況を、反信長包囲網を見据えて……まさしく天下を統一するに相応しい御仁だよ、信長公は」
「……景勝様、上杉はどうなるのでしょうか?」
「さあな。だが、俺とて何もやらぬまま流れ流され滅びるつもりはない。ま、俺なりに色々とやってみるさ」
軍神の若き後継者上杉景勝――彼の苦悩はまだまだ終わらない。




