32話
越後、春日山城では一人の少年が苦悩していた。
もっとも、傍目にはそうとは分からないだろう。
パッと見は自身の館の庭にある池で鯉に餌をやっているだけなのだから。
分かるのは、
「……景勝様、どうなされました?」
景勝の近習たる彼よりも更に若年の直江兼続ぐらいのものだろう。
兼続は餌を放っている景勝がかなり悩んでいることを察しこれまで黙っていたのだが、耐え切れずついに口に出してしまった。
「うぅむ……いや、なぁ……」
景勝の歯切れは悪い。
だがそれも当然だ。彼は上杉においては考えてはいけないことを考えていることから。
兼続のことは信頼しているものの、そうそうと話すことが出来ないのだ。
「……第六天魔王の叡山焼き討ち、ですか?」
信長が立案し、更に修正を加えて博打要素が強くなった叡山焼き討ちからの浅井攻め。
結果から云えばそれは成功に終わった。
深夜に包囲が完了した段で逃げ出す者が居たが話すら聞かずに殺害。
叡山から黄金やら何やらを差し出すからと和睦を申し入れられたが使者を殺害。
そして早朝、坊主オブファイヤー久秀の教導の下、信長は初体験(業火)を終える。
燃える燃える比叡の御山。
たまらぬと下山して来る者らを切っては捨て切っては捨て。
粗方殺し尽くしたところで信長が士気高揚の演説を打つ。
罰当たりなことをしたと消沈する者らに向けた演説。
その内容は信長らしい、実に厭らしいものだった。
人間は誰しも自己を正当化したがる、ゆえに信長はその背を押したのだ。
大丈夫、お前達は間違っていないのだ。正しいことをしたのだ。彼らは僧などではない。
むしろ悪徳の輩に利用される仏を救い出したのだ、と。
そうして気を持ち直させたところで織田軍を二つに分けた。
一つは空になった美濃へ帰還させ防備に。
一つは既に出立していた織田・徳川連合と合流するために。
半兵衛の予想通りに浅井はガタガタだった。
『逃げるなー! 逃げる輩は斬るぞ!?』
前線では浅井方の指揮官のそんな怒声が響き渡っていた――そう云えばガタガタ具合も察せるだろう。
朝倉も増援に駆け付けはしたものの、焼け石に水。
ガタガタになっているのは浅井だけではなく朝倉も同じなのだ。
『――――横腹が柔らかそうで御座いまするな』
と、竹千代が即座に浅井・朝倉連合軍の陣形が伸びきっているのを看破。
横合いから殴り付けてやらば更に悲惨なことになった。
そうして数時間と経たずに連合は瓦解し、連合は撤退。
信長は勢いを殺さずそのまま浅井の本拠地たる小谷まで侵攻。
その段で浅井や朝倉から将の寝返りが頻発。
最早滅亡は避けられない状態になっていた。
武田が動ければ話はまた変わっていただろう、此処で武田が再び西進していれば徳川は離脱せざるを得ない。
が、武田は動けない。信玄が病と云うこともあるが、彼らも恐れているのだ。
信玄が居たから織田何するものぞと信長生死不明の報が届いた際、義昭の誘いに乗って織田に喧嘩を売った。
だがその戦いですら藤乃、竹千代、道三、信秀――そして何よりも氏真の功により阻まれてしまう。
尚、信秀に一時軍権を手渡すと云う英断を下した氏真に対し、信長は破格とも云える恩賞を与えている。
『此度の第一公は紛れもなく氏真である』
と。
一度目の西進に失敗し、しかもその原因は陣中で信玄が倒れたことによるもの。
武田軍は結局領土一つ奪えぬままに逃げ帰ることとなった。
甲斐に帰還した後も、信玄の病状は一向に快復せず。
武田の人間は誰もが実感しただろう、信玄はもう長くはないと。
さあ、信玄が死んだ後でも織田とやりあえるか?
この上、まだ信長の怒りに火を注ぐような真似が出来るか?
紛糾する家中、そのような状態で軍を動かすなど出来ようはずもない。
では西側の勢力はどうだろう?
毛利→北近江は遠いです。尾張・美濃でも遠いです。
寺社勢力→焼き討ち直後で北近江まで行けねーよ。尾張・美濃にも行けません。
三好→京都を取り返したいので遠慮します。
ってな具合で誰も彼もが動けず。
各勢力はキッチリ連携を取りたいのに、信長のせいで爆弾を抱え込まされたり何だりで連携が取れず。
連携が取れないまま浅井は滅びてしまった。が、織田の恐ろしさは此処からだ。
『――――機だな』
と、まるで三方ヶ原でのシニアタッグのようなことを云い出した信長はそのまま越前へと攻め込んだ。
補給については浅井・朝倉領内の民草が既に浅井・朝倉を見限っていたこともあり赦しを得たいと云う下心ありきで物資を差し出したので解決。
尚、物資を提供した村々については占領後の搾取において幾らか軽減することも決めた。
そのような甘さを見せることで、他勢力に侵攻した際の効果を期待したのだ。
領民の寝返りによる敵勢力への打撃と現地での物資調達――信長の一手は二手三手先に繋がっている。
それを象徴するようなやり方と云えよう。
さて、話を戻そう。領民らの支えもあって強行軍は越前へ侵攻。
立ち直れていない朝倉を信長は一気呵成に滅ぼし、美濃へと凱旋。
尚、その際に事前の人事通りに勝家、藤乃、長秀らはそれぞれの領土を任された。
信長は見事包囲網序盤の一番キツイ苦境を乗り切ってみせたのだ。
織田にとってはこれから徐々に楽になり、反信長包囲網に加わっている勢力には此処から辛くなる。
包囲網から抜け出せば、織田に降伏すれば、なんて甘い考えは罷り通らない。
何せ信長は、
『八割か九割領土を差し出すのならば降伏認めてやるプー。寺社勢力は全部な! 信仰なんて身体一つあれば十分だろ!?』
と云っているのだ。
実質降伏は拒否すると云っているようなものである。
武田が、上杉が、毛利が、大大名たる彼らが八割の領土を差し出せるだろうか?
負けてもいないのに、そのような条件が呑めるはずがない。
そして信長も、呑むわけがないと分かっていてこのような条件を吹聴しているのだ。
ようするに邪魔なんだよお前らマジ消えろ――と滅ぼす気満々なのである。
「加賀も陥落すればいよいよ本腰を入れて取り組まねばなりませんし、心配なのは分かりますが……」
兼続は上のような事情もあって、景勝が悩んでいるのだと思っていた。
しかし、
「……ああいや、別にそのことはどうでも良いのだ。いや、良くはないが今悩んでいるのは別のことでな」
予想はあっさりと否定された。
「で、では……何故、苦悩しておられるのですか?」
「んー……まあ、そうだなぁ……兼続にならば……云っても良いかな……」
と云うもののやはり歯切れが悪い。
「なあ、兼続。叔父上と――上杉謙信と、織田信長。どちらが恐ろしい?」
「それは……信長でしょう。叡山を燃やし僧や女子供を皆殺しにするなど人の所業ではありません。正しく天魔が如き蛮行」
「そうかな? そもそも、信長は事前に糾弾状を出していたじゃないか」
武器を捨てろ、大名の如く振舞うな。
居るはずのない、居てはならない人間が居るならば追い出せ。
僧侶としての本分を取り戻さねば織田の敵として処断する――と。
「しかし、時間が……」
「無いってか? まあ、突然の奇襲のような形ではあったが下山するぐらいならば直ぐにも出来るだろう」
武器にしたってそうだ、織田に使者を送り武器を捨てると意思表示は出来た。
相談するでもなく僧侶が武装するのはおかしい、即座に手は打てたはず。
「結局、僧だ何だと云っても我らと同じ浅ましい人間なんだよ。
が、民草が想起する僧と云うものは高尚で神聖なものではあるが今回の一件でその幻想も薄れたろう」
信長を責める声もあるが擁護の声も同じくらい、或いはそれ以上にある。
それが民草の僧に対する信が揺らいでいることの証明だ。
「見事に人の心理を操っているよ、信長は。糾弾状、あれは燃やした後での云い訳にするつもりだったんだろうな」
何せあのタイミングだ、浅井・朝倉攻めにちょっかいを出すなよと云っているようなもの。
見事に裏を掻いて叡山を燃やし、その勢いのままに連戦に次ぐ連戦を経て浅井・朝倉を滅ぼしてしまった。
「京の一件でも確かだ、彼は恐ろしいまでに人の心を熟知している。
人心を撫で繰り、熱狂へと駆り立てるその手腕は恐らく日ノ本一だろう。天晴れと云わざるを得ない」
「し、しかし領民を殺すような男ですよ?!」
叡山焼き討ちの後、極小規模ではあるが信長の領内でも一向一揆が起きた。
その際、信長は迅速に軍を動かし一人残らず殲滅。
「だからそれにしたって武装したからだろう? 一向宗の扇動に呼応した奴らが悪い」
高野山に来ていたことからも分かるように、謙信は信心深い。
そして家臣も自然に倣い信心深くなっている。
それゆえ兼続も信長に怒っているのだが、景勝だけは冷静だった。
「現に領内にある武装蜂起に加担しなかった寺社とその周辺の信徒は何もされていない。
それどころか、僧としての本分を真っ当としたと大々的に褒め称えたそうじゃないか。
周りからの締め付けもキツかっただろうに、よくぞ耐えた。よくぞ仏の教えを守ったと喜捨までしたと聞くぞ?」
「そ、それは……」
「まあ、俺が思うにそれも仕込みなんだろうがな」
「え」
「いや、だから仕込み」
景勝は一見すれば冴えない風体でうだつが上がらなさそうに見える。
見た目からして威圧感を与えている謙信とは正反対だ。
しかし、だからと云って見た目通りに冴えないわけではない。
むしろ、かなり頭がキレる方だ。それこそ、周囲からは軍神の後継と見做されるほどに。
が、誰も景勝の真価を理解していない。彼はリアリストなのだ。
まあ、最近になって呪縛から解かれたおかげなのだがそれはまた後ほど語ろう。
「事前にな、何時からか分からない。ひょっとすれば、将軍を擁立して上洛する以前からかもしれない。
自領土に存在する寺社、その幾つかに金を握らせるか何かして呼応しないように抱きこんでいたんだろう」
「そんなことが……それならば、総ての寺社を抱き込めば良いではないですか」
「そこが信長公の恐ろしいところさ」
切り捨てるものと切り捨てないもの、キッチリ区分することの意味。
景勝は正確に把握していた。
もしも信長が居たのならば景勝のことを褒めていただろう。
よくぞ気付いた! まっこと見事である――と。
「そうすることで、自分は仏教を弾圧しているわけではないと喧伝したのさ。
京で宣言したらしいじゃないか、第六天魔は決して仏の教えを弾圧しないと。
討ち滅ぼすのは仏の威を借りて威張り散らす浅ましい狐だと。さあ、此処まで云えば分かるだろ?」
仏教を弾圧しないとアピールすると同時に、武装蜂起した奴が悪いのだと貶めた。
民は思っただろう、武装蜂起しなかった寺社に対する信長の手厚い保護を見て悪いのは殺された方だと。
「織田領の人間は口々に云っているんじゃないか?
武装蜂起した連中は皆悉く赦しがたい悪党であると。
下手をすればその一向一揆に巻き込まれて自分達にまで被害が及んでいた。
そうせぬように即座に鎮圧してくださった信長様はまこと名君であるってな感じで」
死人に口なし、民草の言葉に反論する者は居ない。
居ないから、武装する寺社勢力の人間に対する不満は何処までも広がっていく。
「本願寺の御坊がどれだけありがたい説法をしたところで……さて。
叡山焼き討ちと相まって正しさが揺るぎ、末端はもう酷い具合なんじゃないか?
いや、本願寺の御坊だけではないな。高野山もかなり戦々恐々としているだろうて」
越前を陥落させた際、信長は朝倉の人間を幾らか取り逃がしている。
そして彼らは叡山無き今、高野山へと逃げ込むしかない。
「俺が見るに信長公はわざと朝倉の人間を逃がしたな。高野山を攻める口実を作るために」
武装している上に逃げて来た朝倉の人間までも匿った。
こりゃあ滅ぼさにゃーいけませんわ――と信長は哂っているのだろう。
「な、何と恐ろしい……やはり私は間違っておらんではないですか」
わなわなと身を震わせる兼続だが、景勝は変わらずぼんやりしたまま。
ぼんやりしたまま自身の意見を言葉にする。
「本当に? 俺にはそう思えないんだなぁ……」
確かに恐ろしいほどにキレている。
しかし、
「信長公は合理的なんだよ、一見不合理な行動ですらも後から見れば合理的だと納得出来る。
総ての行動が天下統一へ向けて繋がっているんだ、確かにそう云う意味では恐ろしい。
ハッキリ云って同じ世代に生まれなくて良かったとすら思っている」
景勝は信長とやり合っている大名達を哀れんでいた。
信長を敵に回したばかりにさぞや苦心しているだろうと。
そして、自分が上杉の当主でなくても良かったと。
「(……いや、俺が当主であった方が良かったのかもしれん。ああでも、頭が冷えてなきゃ結局間違ってたかな?)」
ままならぬものだと嘆息する。
「ハッキリ云って俺じゃあ信長公と同じ舞台に上がる資格が無い」
「だと云うのに恐ろしくないと云うのですか?」
「ああ、恐ろしくないな。だって味方になって天下統一の邪魔をしなければそれだけで安全だもの」
敵対すれば恐ろしい、ならば敵対しなければ良い。
味方になってしまえば良いのだ――――至極当然の論法である。
「味方になれば手厚く扱ってくれるぞー? 今川を見ても確かだ。
一度奪われた駿河、取り上げることもせず取り返した後もそのまま今川に任せている。
これが武田だったならばどうかな? 難癖つけて取り上げられてるぞ。
加えて、だ。味方になって功を挙げればしっかり報いてくれる。良いこと尽くめじゃあないか」
「……景勝様」
景勝は上杉の人間にあるまじきことを云っている。
兼続は諌めようと口を開くも、
「なあ兼続よ、俺は信長公は恐ろしくない。俺は叔父上が」
景勝はそれを無視した。無視して遂に本音を語ろうとしている。
「否――――上杉謙信の方が恐ろしい」
味方であるにも関わらず、そう云って景勝は深い溜息を吐いた。




