第九章 継ぐ者
心臓外科医・黒木誠、四十五歳。kl彼には、開いた胸の奥から「その人の来歴」を読み取ってしまう才能があった。顔は笑える。言葉は飾れる。だが、心臓だけは嘘をつかない――。法が裁けぬ罪を、彼は手術台の上で、静かに裁いていく。生と死、家族、師弟、そして組織の闇へと沈んでいく、後味の悪い医療イヤミスです。手術・死・暴力などの描写を含みますので、苦手な方はご注意ください。どうか、最後の一行まで見届けていただけますと幸いです。
「先生。次、糸を」
新村の声で私は手を出した。渡された持針器の角度が、私の指の向きに、ぴたりと合っていた。言わなくても彼にはわかる。かつて、相馬がそうだったように。
その日、私たちは、七十代の男の冠動脈に、三本のバイパスをつないだ。手術は成功した。閉創まで私はほとんど口をきかなかった。それでも、必要なものは、すべて手の中にあった。
器械を片づける新村の背中を見ながら、私は思った。この二年で、私の手術は、ずいぶん楽になった。
あれから二年が経つ。
自首はしなかった。できなかった、と言うべきか。
相馬が去り、証拠が消え、病院が私を守ると決めたあとで、私は知った。自首という選択肢は、もう自分の手の中にない。私は、桐生のように、独りで真実を抱えて生きる強さを持っていなかった。
私はただ、日常に逃げ込んだ。手術着を着て、手を洗い、人の胸を開く、あの変わらぬ日常に。
人間はたいていのことに慣れる。それがこの二年で私が学んだことだ。
* * *
朝、目が覚める。珈琲を淹れる。病院へ行く。手を洗う。人を助ける。夜、眠る。二年、それを繰り返した。繰り返しているうちに、あの三つの死は、私の中でだんだんと、遠い症例のようになっていった。それがいちばん恐ろしいことだった。
私は変わった。もう、誰も裁かない。
手術台の上で、私はただ患者を救う。読んでしまった罪も、見なかったことにする。心臓に刻まれた過去を、私はもう読まない。読まないように目を閉じる。
それが、私にできる、せめてもの贖罪だと思っている。
贖罪。笑わせるな、と、姉の声が聞こえる気がする。二人殺しておいて、贖罪だと。
その二年間、私の手術成績は、病院でいっそう際立った。皮肉なものだ。人を裁くのをやめ、ただ救うことだけに集中したとき、私の手は、かつてないほど多くの命を生かした。
私は名医と呼ばれた。学会で講演し、若い医者たちが、私の手術を見学に来た。誰も、私が二人の患者を殺した男だとは知らなかった。
私は、白い仮面の裏側で、静かに腐り続けていた。
これを更生と呼ぶ者もいるだろう。私は呼ばない。私は、罪を悔いて裁くのをやめたのではない。自分の読みが信用できなくなったから、やめただけだ。臆病になった人殺しを、人は、名医と呼んでいた。
新村は立派な外科医になった。
もう研修医ではない。初期研修を終え、外科の専攻医として、いまは私の第一助手を務め、多くの手術に入る。彼の手つきは、かつての相馬を思い出させるほど鮮やかだ。
変わったところが、二つある。
一つは、質問をしなくなったこと。あれほど私を追いかけて質問を浴びせた男が、この二年で、ほとんど何も訊かなくなった。技術を覚えたからではない。訊かなくても見ればわかるようになったからだ。
もう一つは、時計を見なくなったこと。秒まで測る癖は、いつのまにか消えていた。訊いてみたら、こう言われた。
「もう、だいたいわかるようになったので」
だいたいわかる。何が、とは訊かなかった。
彼はいまも私に憧れている。私の技術を貪欲に吸収していく。
彼は私が何をしてきたかを知らない。あの、症例への疑いを、彼はいつしか口にしなくなった。憧れは疑いを上書きする。
いや――本当に知らないのだろうか。
最近、私はときどき、彼の視線に、あの鋭いものを感じる。私が城之内を読んだような、相馬が私を読んだような、あの視線を。
彼は、もしかしたら、すべてを知った上で、それでも私に憧れているのではないか。腐った世界を、自分の手で切除する、神になろうとした男に。
半年ほど前の、ある手術のことを、私は思い出す。
患者は六十代の男だった。長年、妻に暴力をふるってきた男だ――ということを、私はその日、たまたま外来の看護記録で知っていた。
もう、私は誰も裁かないと決めていた。だから私は、いつものように、ただ彼を救うつもりだった。冠動脈のバイパスを、淡々とつないでいった。
だが、術野を挟んで向かい合う新村が、ふと手を止めた。そして、モニターの数値に目をやりながら、独りごとのように言った。
「この患者さん、右の第七肋骨に、古い骨折の痕がありますね」
私は顔を上げた。新村は私を見ていなかった。心臓を見ていた。
「自分で転んだ、では、つかない位置です」と、彼は言った。淡々と。「殴られ慣れた人間の、体つきじゃない。殴り慣れた人間の、手だ」
私は何も言わなかった。言えなかった。
この青年は、私が教えもしないのに、私と同じ読み方を覚えていた。人の体に刻まれた履歴を読み、そこに罪の物語を書き込む、あの読み方を。
私は教えた覚えがない。だが、思い返せば、私は毎日、それを見せていた。回診で、手術で、症例検討で。言葉で教えなくても、人は見て覚える。母が私に、何も教えずに、すべてを教えたように。
「先生」と、新村は、それから、私の目を見た。マスクの上で、その目は、笑っているようにも見えた。「ぼくが助手だと、なんだか、手術中、事故が起きやすい気がしませんか。ぼくの、力不足でしょうか」
私は答えなかった。
その日、その患者は無事に手術を終えた。私がそうさせた。手を一度も止めずに、最後まで、いつもの倍の確認をしながら。
だが、新村の言葉は、その後もずっと、私の耳の底に残った。彼は扉の前に立っていた。私が、かつて開けてしまった、あの扉の前に。そして、こちら側を覗き込んでいた。
いや。覗き込んでいた、というのは、正しくないかもしれない。
先月、私が執刀し、新村が術後管理を受け持った患者が、病棟で突然死した。
容態は落ち着いていたはずだった。夕方の回診でも、笑って話していた。原因はわからなかった。カンファレンスでは、不運な合併症とされた。
私は、その患者のことを、あとで、少しだけ調べた。
かつて、酒に酔って車を運転し、母子をはねて逃げた男だった。時効で、罪に問われることはなかった男だった。
一度だけ、訊きかけた。医局で二人になったとき、あの患者は、と口に出しかけた。
新村が顔を上げた。何でしょう、という顔で。澄んだ、いい目だった。
「……いや。なんでもない」
私は、それきり、何も訊かなかった。
訊けば、答えが返ってくる気がしたからだ。彼が、私の教えなど待たずに、とうに扉の向こう側へ踏み込んでいた、という答えが。
継承はこれから始まるのではなかった。私が気づかないうちに、それは、もう始まっていた。そして、たぶん、私よりも、ずっと迷いなく。
私はあの夜、新村の記録を読み返した。指示も、投薬も、観察も、すべて完璧だった。非の打ちどころがない。教科書どおりだ。
時刻の並びも寸分の乱れがなかった。あとから直した跡は、どこにもない。彼は、直す必要のない書き方を、最初から選んでいた。私より、うまい。
教科書どおりの記録ほど、恐ろしいものはない。それを私は誰よりもよく知っている。
新村は、私の記録の書き方も、見て覚えたのだろう。何を書き、何を書かないか。どこを厚く書けば、薄い部分が目立たないか。私が三十年かけて身につけたものを、この青年は二年で吸い取った。教えたのは私だ。教えた覚えがなくても、私だ。
今日、私たちは、ひとつの手術に入る。
患者は三十八歳の女。重症の僧帽弁疾患。
だが、それは表向きの話だ。実を言えば、彼女の心臓に、外科的な緊急性は、それほどなかった。
ここへ運ばれてきたのには、別の事情がある。
彼女は、二年前に退職した、ある看護師だった。名を、相馬という。
彼女は、この二年、諦めていなかった。私が思っていたよりも、ずっと強い女だった。
別の病院に移り、そこで働きながら、独りで証拠を集め直していた。臨床工学技士の残したログの、そのまた控え。麻酔記録の矛盾。私が殺した患者の、遺族への聞き取り。彼女は、消せない形で、それらを束ねていた。
あの六畳のアパートで、彼女が紙を並べていた夜のことを、私は知らない。知ったのは、すべてが終わってからだ。
そして、ある報道機関に接触しようとしていた。
* * *
二年ある。
一年目。相馬美紀は、別の病院に移る。急性期の一般病棟。夜勤は月に八回。
帰って、紙を並べる。六畳の部屋である。畳の上に、四つの列を作る。
医師の記録。麻酔科の記録。臨床工学技士のログ。看護師の器械の出納。
四つとも、少しずつ違う時刻で書かれる。四つ並べれば、噛み合わない箇所が出る。
相馬は、この四つを集めるのに、一年かけた。
一年で、集まったのは三つだった。
看護記録は、自分で書いたものが手元にある。技士のログは、控えの控えが五年保存される。麻酔記録は、開示請求が要る。請求して、届くまでに四か月かかった。
残る一つが、医師の記録である。
それだけが、書き換えられた側の紙だった。
七月の夜、夫が立っている。
「その人、あなたに何かした?」
「してない」
「じゃあ、なんで」
相馬は、答えを持っていた。答えると長くなる。長くなると、この人は聞かない。
だから、こう言った。
「見たから」
夫は、それきり何も訊かなかった。
八月。荷物が減る。テレビが消える。炊飯器が残る。
九月。相馬は、部屋の真ん中に紙を並べたまま、眠るようになる。
二年目。職場の休憩室は、六人掛けのテーブルが二つある。
相馬は、窓側の端に座る。四月は、隣に人が座った。六月から、座らなくなった。
理由は、誰も言わない。相馬も訊かない。
十月、師長との面談。相馬さん、前の病院のこと、あまり話さないほうが、と言われる。
はい、と答える。
十一月十四日、夜勤明け。六時五十分、退勤。七時二十分、電車。
胸を押さえる。
三十八歳である。心疾患の家族歴はない。
その日のうちに、病院へ行った。エコーを撮られた。僧帽弁に、逆流がある、と言われた。
軽度である。経過観察でいい、と言われた。
その紙を、相馬は持ち帰った。
持ち帰って、四回読んだ。
――軽度。
四回読んでも、軽度と書いてあった。
十一月十六日、相馬はある報道機関に手紙を書く。封をする。切手を貼る。
出さない。
十一月十八日、もう一度書き直して、今度は出す。
三週間後、彼女は救急車で帝都大学附属病院に運ばれる。
そこで撮られたエコーには、別の数字が書かれることになる。
そのことを、この夜の相馬は、まだ知らない。
* * *
後で知ったことだが、この二年で、彼女は多くのものを失っていた。
彼女は、私を告発するというたったひとつの目的のために、自分の生活を静かに燃やし尽くしていた。
私が、姉の復讐のために自分の人生を燃やしたように。
私たちは、よく似ていた。人を裁こうとする者と、人を裁いてしまった者は、同じ火で身を焦がす。彼女は、私を狩る猟師のつもりでいて、いつのまにか、私と同じ檻の中に囚われていた。執着という名の檻に。
あの日、彼女が封筒を差し出したとき、私は、うなずいた。自首する、と。その約束を守っていれば、この人はいま、別の場所で、誰かの手を握っていたはずだった。
そのことが、どこからか、病院の上層部の耳に入った。
私は何もしていない。何も、頼んでいない。
ただ、ある日、院長が、私に静かに告げただけだ。
「相馬くんが、心臓を悪くしてね。うちで、診ることになった。きみに、執刀を頼みたい」
その目は、笑っていなかった。それが命令であることを、私は理解した。
彼女は、突然の胸痛を訴えて――本当にそうだったのか、それとも、そう仕立てられたのか、私は知らない――この病院に救急搬送されてきた。検査の結果、僧帽弁の手術が必要ということになった。そして、最も難易度の高い症例として、私に割り当てられた。
私はその検査の記録を開いてみた。エコーの計測値が、どれも、少しずつ重症の側へ寄せられているように見えた。手術の必要が、ぎりぎりある、ように見えるちょうどの重さに。
誰が計測し、誰が読んだ検査なのか。名前の欄は、そこにあった。私は確かめなかった。
三年前、私は、篠田の夫の病名の欄を開かなかった。あのときと、同じ手つきだった。人は、知りたくないものの前では、いつも同じ癖を出す。
城之内のときと、桐生のときと、同じように。
手術台の上で死んでも、誰も不審に思わない。むしろ、当然と思われる。そういう「症例」として、彼女は、私の前に運ばれてきた。
組織は、汚れ役に、私を選んだ。かつて、母が、毒の運び役に私を選んだように。
運命というものを、私は信じない。心臓を読む人間に、運命を信じる資格はない。すべては、因と果だ。
誰かが、この果を用意したのだ。私が、それを拒めないことを知っている、誰かが。
その誰かの顔を、私は見ていない。院長でさえ、たぶん、伝えているだけだ。命令は、上から下へ流れる。途中の誰も手を汚さず、いちばん下でメスを握る私だけが濡れる。
術前の回診で、私は、彼女の病室を訪ねた。
相馬はベッドに横になっていた。少し、痩せていた。二年前より、目の下が黒かった。
私を見ても、彼女は、驚かなかった。
「……こうなると、思っていました」と、彼女は言った。「いつか、あなたの手術台に乗るんだろうな、って」
「逃げなかったのか」
「逃げたら、負けじゃないですか」
彼女は少しだけ笑った。あの、感情を消した平らな顔が、そのときだけ、崩れた。
「先生。私、いまでも、思ってます。あなたは、人を生かせる手を持ってる。……それを、自分でも、まだ、信じてないでしょう」
私は何も答えられなかった。
「明日、よろしくお願いします」と、彼女は言った。患者の言葉だった。それだけを言って、彼女は、目を閉じた。
病室を出るとき、私は振り返った。窓辺に見舞いの花はなかった。家族は、去ったと聞いていた。桐生の病室と、同じ景色だった。この建物は、こういう部屋を、いくつも用意している。
――君なら、この患者の胸を、どんな顔で開く。私には、まだ、その顔が用意できていない。
手術室に入る前、私は、長い時間、手を洗った。爪の間を、ブラシで擦った。
隣で、新村も手を洗っていた。彼の白衣のポケットには、いまも、あの文庫本が入っている。
「先生」と、新村が、水音の中で静かに言った。「ぼく、先生に憧れて、ここまで来ました」
「知っている」と私は言った。
「先生は、ぼくに教えてくださいました。誰かがやらなければ、その患者は死ぬ、と。医者の仕事は、治すことだ、と」
新村は微笑んだ。まぶしいほど、澄んだ笑顔だった。
「でも、ぼく、最近、わかったんです。本当は、そうじゃない。医者の仕事は――裁くこと、なんですね」
水の音だけが、しばらく続いた。
蛇口を閉めると、部屋が静かになった。手術室のドアの向こうで、器械の当たる音がしていた。あの中に、相馬がいる。麻酔で眠って、私の手を待っている。
私は彼の目を見た。彼も私の目を見た。
マスクの上の、その目の奥に、私は、三十九年前の待合室の少年を見た。古い漫画を読み、神のいない世界で、自分が神になろうと誓った、あの傷ついた少年を。
私自身を。
私は何も言えなかった。
手術室のドアが開いた。麻酔科医が顔を出して、準備が整いました、と言った。
この二年で、私は何人助けたか。
事務に訊けばわかる。訊けば、答えが返ってくる。
訊かない。
訊けば、そこから二を引きたくなる。城之内と、篠田を。
――いや、三だ。桐生も入る。
――いや、四だ。
私は、数えるのをやめた。三十年、そうしてきた。
新村が先に入っていった。私は、その背中を見送ってから、自分の手を見た。震えていない。三十年、この手は裏切ったことがない。
あと十分で、私はこの手で、あの女の胸を開く。
――あるいは、開かない。
(第九章 了)
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(更新:毎日22時投稿予定)
隠岐群青




