第九章 継ぐ者
心臓外科医・黒木誠、四十五歳。kl彼には、開いた胸の奥から「その人の来歴」を読み取ってしまう才能があった。顔は笑える。言葉は飾れる。だが、心臓だけは嘘をつかない――。法が裁けぬ罪を、彼は手術台の上で、静かに裁いていく。生と死、家族、師弟、そして組織の闇へと沈んでいく、後味の悪い医療イヤミスです。手術・死・暴力などの描写を含みますので、苦手な方はご注意ください。どうか、最後の一行まで見届けていただけますと幸いです。
あれから、二年が経つ。
自首は、しなかった。できなかった、と言うべきか。相馬が去り、証拠が消え、病院が私を守ると決めたあとで、私は、自首という選択肢が、もう自分の手の中にないことを知った。私は、桐生のように、独りで真実を抱えて生きる強さを、持っていなかった。私は、ただ、日常に、逃げ込んだ。手術着を着て、手を洗い、人の胸を開く、あの、変わらぬ日常に。
私は、変わった。もう、誰も裁かない。手術台の上で、私はただ、患者を救う。読んでしまった罪も、見なかったことにする。心臓に刻まれた過去を、私は、もう読まない。読まないように、目を閉じる。それが、私にできる、せめてもの贖罪だと思っている。贖罪。笑わせるな、と、姉の声が聞こえる気がする。二人殺しておいて、贖罪だと。
その二年間、私の手術成績は、病院で、いっそう際立った。皮肉なものだ。人を裁くのをやめ、ただ救うことだけに集中したとき、私の手は、かつてないほど、多くの命を、生かした。私は、名医と呼ばれた。学会で講演し、若い医者たちが、私の手術を見学に来た。誰も、私が、二人の患者を殺した男だとは、知らなかった。私は、白い仮面の裏側で、静かに、腐り続けていた。
新村は、立派な外科医になった。もう研修医ではない。私の第一助手として、多くの手術に入る。彼の手つきは、かつての相馬を思い出させるほど、鮮やかだ。彼は、いまも私に憧れている。私の技術を、貪欲に吸収していく。彼は、私が、何をしてきたかを、知らない。あの、症例への疑いを、彼は、いつしか口にしなくなった。憧れは、疑いを、上書きする。
いや――本当に、知らないのだろうか。
最近、私は、ときどき、彼の視線に、あの、鋭いものを感じる。私が城之内を読んだような、相馬が私を読んだような、あの視線を。彼は、もしかしたら、すべてを知った上で、それでも、私に憧れているのではないか。腐った世界を、自分の手で切除する、神になろうとした男に。
半年ほど前の、ある手術のことを、私は思い出す。患者は、六十代の男だった。長年、妻に暴力をふるってきた男だ――ということを、私は、その日、たまたま、外来の看護記録で、知っていた。もう、私は誰も裁かないと決めていた。だから私は、いつものように、ただ、彼を救うつもりだった。冠動脈のバイパスを、淡々と、つないでいった。
だが、術野を挟んで向かい合う新村が、ふと、手を止めた。そして、モニターの数値に目をやりながら、独りごとのように、言った。
「この患者さん、右の第七肋骨に、古い骨折の痕がありますね」
私は、顔を上げた。新村は、私を見ていなかった。心臓を、見ていた。
「自分で転んだ、では、つかない位置です」と、彼は言った。淡々と。「殴られ慣れた人間の、体つきじゃない。殴り慣れた人間の、手だ」
私は、何も言わなかった。言えなかった。この青年は、私が教えもしないのに、私と同じ読み方を、覚えていた。人の体に刻まれた履歴を読み、そこに、罪の物語を書き込む、あの読み方を。
「先生」と、新村は、それから、私の目を見た。マスクの上で、その目は、笑っているようにも見えた。「ぼくが助手だと、なんだか、手術中、事故が起きやすい気がしませんか。ぼくの、力不足でしょうか」
私は、答えなかった。その日、その患者は、無事に手術を終えた。私が、そうさせた。だが、新村の言葉は、その後もずっと、私の耳の底に、残った。彼は、扉の前に、立っていた。私が、かつて、開けてしまった、あの扉の前に。そして、こちら側を、覗き込んでいた。
いや。覗き込んでいた、というのは、正しくないかもしれない。
先月、新村が、ひとりで執刀を任された症例があった。若い外科医の、教育のための、比較的やさしい手術。だが、その患者は、術後、突然死した。原因は、わからなかった。カンファレンスでは、不運な合併症、とされた。私は、その患者のことを、あとで、少しだけ調べた。かつて、酒に酔って車を運転し、母子をはねて逃げた男だった。時効で、罪に問われることは、なかった男だった。
私は、新村に、何も、訊かなかった。訊けば、答えが、返ってくる気がしたからだ。彼が、私の教えなど待たずに、とうに、扉の向こう側へ、踏み込んでいた、という答えが。継承は、これから始まるのではなかった。私が気づかないうちに、それは、もう、始まっていた。そして、たぶん、私よりも、ずっと、迷いなく。
今日、私たちは、ひとつの手術に入る。
患者は、三十八歳の女。重症の僧帽弁疾患。だが、それは表向きの話だ。実を言えば、彼女の心臓に、外科的な緊急性は、それほどなかった。ここへ運ばれてきたのには、別の事情がある。彼女は、二年前に退職した、ある看護師だった。名を、相馬という。
彼女は、この二年、諦めていなかった。私が思っていたよりも、ずっと、強い女だった。別の病院に移り、そこで働きながら、独りで、証拠を集め直していた。臨床工学技士の残したログの、そのまた控え。麻酔記録の矛盾。私が殺した患者の、遺族への聞き取り。彼女は、消せない形で、それらを、束ねていた。そして、ある報道機関に、接触しようとしていた。
後で知ったことだが、この二年で、彼女は、多くのものを失っていた。私を追うことに取り憑かれた彼女に、家族は、愛想を尽かして去っていた。移った先の職場でも、過去を詮索しすぎる看護師として、遠巻きにされていた。彼女は、私を告発するという、たったひとつの目的のために、自分の生活を、静かに、燃やし尽くしていた。――私が、姉の復讐のために、自分の人生を燃やしたように。私たちは、よく似ていた。人を裁こうとする者と、人を裁いてしまった者は、同じ火で、身を焦がす。彼女は、私を狩る猟師のつもりでいて、いつのまにか、私と同じ、執着という名の檻の中に、囚われていた。
そのことが、どこからか、病院の上層部の耳に入った。私は、何もしていない。何も、頼んでいない。ただ、ある日、院長が、私に、静かに告げただけだ。「相馬くんが、心臓を悪くしてね。うちで、診ることになった。きみに、執刀を頼みたい」と。その目は、笑っていなかった。それが、命令であることを、私は、理解した。
彼女は、突然の胸痛を訴えて――本当に、そうだったのか、それとも、そう仕立てられたのか、私は知らない――この病院に、救急搬送されてきた。検査の結果、僧帽弁の手術が必要、ということになった。そして、最も難易度の高い症例として、私に割り当てられた。
城之内のときと、桐生のときと、同じように。手術台の上で死んでも、誰も、不審に思わない。むしろ、当然と思われる。そういう「症例」として、彼女は、私の前に、運ばれてきた。組織は、汚れ役に、私を選んだ。かつて、母が、毒の運び役に、私を選んだように。
運命というものを、私は、信じない。心臓を読む人間に、運命を信じる資格はない。すべては、因と果だ。誰かが、この果を、用意したのだ。私が、それを、拒めないことを知っている、誰かが。
手術室に入る前、私は、長い時間、手を洗った。爪の間を、ブラシで擦った。隣で、新村も、手を洗っていた。彼の白衣のポケットには、いまも、あの文庫本が入っている。黒マントの、無免許の外科医の。
「先生」と、新村が、水音の中で、静かに言った。「ぼく、先生に憧れて、ここまで来ました」
「知っている」と、私は言った。
「先生は、ぼくに、教えてくださいました。誰かがやらなければ、その患者は死ぬ、と。医者の仕事は、治すことだ、と」新村は、微笑んだ。まぶしいほど、澄んだ笑顔だった。「でも、ぼく、最近、わかったんです。本当は、そうじゃない。医者の仕事は――裁くこと、なんですね」
私は、彼の目を見た。彼も、私の目を見た。マスクの上の、その目の奥に、私は、三十七年前の、待合室の少年を見た。古い漫画を読み、神のいない世界で、自分が神になろうと誓った、あの、傷ついた少年を。私自身を。
私は、何も、言えなかった。
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(更新:毎日22時投稿予定)
隠岐群青




