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第八章 告発

心臓外科医・黒木誠、四十五歳。


彼には、開いた胸の奥から「その人の来歴」を読み取ってしまう才能があった。顔は笑える。言葉は飾れる。だが、心臓だけは嘘をつかない――。法が裁けぬ罪を、彼は手術台の上で、静かに裁いていく。生と死、家族、師弟、そして組織の闇へと沈んでいく、後味の悪い医療イヤミスです。手術・死・暴力などの描写を含みますので、苦手な方はご注意ください。どうか、最後の一行まで見届けていただけますと幸いです。


桐生の死の翌週、相馬が、私の医局の椅子に、一通の封筒を置いた。

厚みのある封筒だった。封はされていない。中にはコピーが入っていた。

私が書き換えた記録と、臨床工学技士が別に保存していた体外循環の生ログ。その二つを並べた表。時刻の食い違いに、細い線が引かれていた。城之内の手術の、離脱時の操作記録。篠田の、心停止に至る経過の分析。麻酔記録の写し。看護記録の写し。

私が触れなかった場所に、記録は、残っていた。私は、自分の書いた紙だけを直せば足りると思っていた。手術室というのは、何人もの人間が、同じ時間を、別々の紙に書き留めていく場所なのに。

彼女は、半年以上かけて、私を追い詰めていた。

最後の一枚は、手書きだった。日付順に並べた、七人の名前。新村が作ったものと、よく似た表だった。二人は、別々に、同じ場所へ辿り着いていた。片方は私を理解しようとして、片方は私を狩ろうとして。

 

「あなたが、桐生先生を、救ったのを見ました」と、相馬は言った。「あの手術台の上で、あなたが、何かをやめたのを。だから、これを警察に出す前に、あなたに見せます」

 

私はコピーを見つめた。紙の端が、少しだけ、手垢で汚れていた。何度も、繰り返し確かめた者の手の跡だった。

 

「なぜ」と私は訊いた。「なぜ、告発しない」

「わかりません」と相馬は言った。指輪をした左手が、封筒の端を、押さえていた。「この半年で、家の中が、静かになりました。夫は、何も訊かなくなって。……たぶん、私も、あの手術室で、あなたと同じものを見てきたから。人が、あっけなく死ぬのを。理不尽に死ぬのを。それを何百回も見てきて――だから、あなたの気持ちが、少しだけ、わかってしまうから。それが怖い」

 

彼女は私の目をまっすぐに見た。

 

「私、ずっと、あなたを監視していました。あなたが人を殺しているんじゃないかって、疑って。証拠を集めて。告発してやろうって。正義のつもりで。……でも、桐生先生の手術で、あなたが鉗子を置いたのを見たとき、わからなくなったんです。あなたが、何と闘っているのか。あなたを断罪する私は、あなたと、どこがちがうのか」

 

私は、この女もまた、私と同じ淵を覗き込んでいることを知った。

半年、彼女は一人でこれを集めた。誰にも相談せず、誰にも褒められず、勤務のあいだも、明けの朝も。私が人の胸を開いていたあいだ、この人は、紙の束を開いていた。

人を裁こうとする者は、いつしか、自分が裁いている相手と、同じ顔になる。

――私は、彼女に、告発してほしかった。

あのとき、彼女がこの封筒を警察に持っていっていれば、その後に起きたことは、何ひとつ起きなかった。

彼女は、しばらく黙って、それから言った。

 

「自首してください、黒木先生。あなたが、まだ人を救える医者でいるうちに。あなたのしたことは、許されない。城之内さんも、篠田さんも、帰ってこない。でも――あなたが桐生先生を救ったことだけは、本当です。あなたの手は、まだ、人を生かせる手です。だから」

 

私はうなずいた。うなずいた、と思う。

そのとき、私は、本当に自首するつもりだった。すべてを終わらせるつもりだった。二人の無実の人間を殺した罪を、私は償わねばならなかった。

それが、桐生が私に残した、たったひとつの遺言のような気がした。まだ、人を救える医者でいるうちに、と。

だが、その夜、私は院長に呼ばれた。

相馬の告発は、すでに、病院上層部の耳に入っていた。彼女が誰に相談したのか、私は知らない。看護部長か、あるいは医療安全の窓口か。正しい手順を踏んだのだろう。正しい手順は、たいてい、上へ、上へと話を運ぶ。

私は覚悟した。すべてが終わる、と。二人の無実の患者を殺した罪で、私は裁かれる。

院長室は、静かだった。

院長は、私に茶を勧めた。私は手をつけなかった。彼は、それを咎めもせず、しばらく、湯呑みの湯気を眺めていた。そして、静かに言った。

 

「黒木くん。きみは、この病院にとって、かけがえのない人材だ」

 

私は彼の顔を見た。何を言われるのか、待った。

 

「相馬くんから、話は聞いた」

「……では」と私は口を開いた。処分を、覚悟していた。

「篠田さんも、城之内さんも、術中死亡例だ」院長は、私の言葉を遮った。「心臓外科では、避けられないことだ。検討会でも、問題なしとされた」

「院長」

「いまさら蒸し返せば、どうなる」彼は、茶をすすった。「遺族が動揺する。病院の信用に関わる。マスコミが、面白おかしく書き立てる。誰も、幸せにならない」

 

私は黙っていた。

 

「相馬くんには、私から話しておく」と、院長は続けた。

 

その言い方が、耳に残った。話す、ではなく、話しておく。処理する対象を指すときの言い方だった。「彼女も、優秀な看護師だ。将来のある人材だ。妙な正義感で、自分のキャリアを棒に振るのは、惜しい」

それが脅しであることに、私は、遅れて気づいた。

相馬を守ると言っているのではない。相馬を黙らせると言っているのだ。

私は、あの夜、踊り場で、同じことを言った。優秀な看護師の、キャリアを台無しにする、と。言葉まで、よく似ていた。私たちは、同じ教科書で育ったのだろう。

 

「もし」と院長は湯呑みを置いた。かちり、と、小さな音がした。「きみが、妙な良心の呵責にかられて、警察に何か話すようなことがあれば」

 

私は彼の目を見た。声はあくまで穏やかだった。

 

「困るのは、きみだけじゃない。この病院で手術を受けた、何千人もの患者が不安に陥る。きみの手術を待っている、いまの患者たちが、行き場を失う。遺族が、掘り返された古傷に苦しむ」

「……」

「きみひとりの自己満足のために、それだけの人間を巻き込むのかね。それは、本当に、正義かね」

 

私は言葉を失った。

彼の論理は、かつての私の論理と、同じ形をしていた。より大きな善のために、小さな罪には目をつぶる。誰かが、汚れ役を引き受ける。私が、他人を裁いたときの、あの論理と。

自分の言葉で殴られる、というのは、こういうことか。私は、三十年かけて、この論理を磨いてきた。磨いた刃が、いま、私の首に当てられていた。

院長は、私の沈黙を、しばらく味わうように見ていた。それから、思い出したように付け加えた。

 

「言っておくが」と彼は穏やかに。「こういうことは、きみが初めてではないよ」

 

私は顔を上げた。

 

「この病院は、長い。私が来る前から、ずっと、そこにある。その長い歳月のあいだには、いろいろなことがあった。表に出せないことも、あった。そのたびに、誰かが静かに、始末をつけてきた。きみのような、優秀な人間が」

 

彼は私をまっすぐに見た。

 

「きみは、自分が特別だと思っていたかもしれん。神にでもなったつもりで。だが、ちがう。きみは、この病院がこれまで何人も飼ってきた、ただの、よく切れる刃のひとつだ。刃は、古くなれば、替えればいい。だから――余計なことは、考えないことだ」

「院長は」と私は、思わず訊いていた。「なぜ、そんなに詳しいのですか」

 

院長は、少しのあいだ、答えなかった。それから、ふと、自分の手のひらに目を落とした。節くれだった、老いた手だった。もう、長いこと、メスを握っていないであろう手だった。

 

「私も、昔は、外科医でね」と、彼は静かに言った。「この椅子に座る人間は、たいてい、一度は手を汚しているものだよ。きみが思っているような意味で、あるいは、ちがう意味で」

 

彼はそれ以上は語らなかった。ただ、静かに微笑んだ。

その微笑みが何を意味するのか、私には、痛いほどわかった。彼は私を責める側の人間ではなかった。彼は、この部屋で、私をいちばんよく理解している人間だった。

かつて刃であった者だけが、いま、刃を守る椅子に座ることができる。そういう仕組みになっているのだ。この、白い建物は。

部屋を出るとき、私は、廊下に立つ人影と、すれ違った。理事会の関係者だ、と後で聞いた。会釈をされた。私も返した。それだけのことだった。その男は、片方の足を、わずかに引きずっていた。仕立てのいい背広で、髪をきれいに撫でつけていた。医者ではない歩き方だった。私は、そのときは、何とも思わなかった。

私は、その言葉の意味を、ゆっくりと理解した。

過去にも、いたのだ。私のような医者が。そして、これからも、いる。この白い建物が、次の刃を、また静かに研ぎ上げるだろう。

――だとすれば、と私は考えた。

だとすれば、私がやっていることは、この建物の機能の一部なのではないか。

どの組織にも、表に出せない仕事がある。誰かがやらなければ回らない。私は、たまたまその役を引き受けているだけだ。引き受けるだけの腕があったから。

この考えは、あの夜、私を落ち着かせた。落ち着かせてしまった。

病院は、私を裁かない。私を守るのだ。桐生が私を守ったのとは、まったく別の理由で。

私が金を生むからだ。難症例を引き受け、高難度手術の実績を積み上げ、病院の格を上げる、私という機械が惜しいからだ。

その年、私は学会で表彰された。高難度症例における成績が、全国でも群を抜いているという理由だった。

壇上で、私は短く礼を述べた。座長が、こう紹介した。この十年、この国の心臓外科がどこまでやれるかを身をもって示してきた人です、と。

拍手が長かった。

降りてきたところで、若い医者に声をかけられた。他大学の人だった。先生の論文を全部読んでいます、と彼は言った。目が輝いていた。あの日の新村と、同じ目だった。

私はその手を握った。頑張りなさい、とだけ言った。

その二週間前に、私は相馬美紀を黙らせている。踊り場で、脅して。

人殺しであっても、腕のいい人殺しは、この組織にとって、資産なのだ。

腐っていたのは、私だけではなかった。この白い建物のすべてが、腐っていた。理事も、院長も、そして、この腐敗を黙って受け入れる私自身も。

私は、その腐敗の、いちばん切れ味のいいメスにすぎなかった。

あの黒マントの男は、組織を持たなかった。免許も、肩書きも、後ろ盾も。だから、彼は自由だった。私は、そのどれも手放さずに、彼の真似をしようとした。手放さないまま振るう刃は、自分の刃ではない。誰かの刃だ。

私は、世界の腐った部分を切除する外科医になりたかった。だが、私は、腐敗を切除する者ではなかった。私は腐敗そのものだった。

そして、腐敗は、腐敗を決して罰しない。かばい合うのだ。互いを。どこまでも。

十日ほど、彼女は、変わらず勤めた。

一度だけ、手術室へ続く廊下ですれ違った。彼女はいつもどおり会釈をした。私も返した。その日の彼女は、いつもより丁寧に、器械を並べていた。


*  *  *

 

十日ある。

相馬美紀は、その十日を、いつもどおりに勤めた。

月曜。日勤。器械出し二件。記録。退勤。

火曜。夜勤。四十二床のうち、受け持ちは十四。二時のラウンド。四時のラウンド。

水曜。院長室に呼ばれる。十四時。

 

「相馬くん。きみは、いい看護師だ」と、院長は言った。

 

相馬は、それが本心だとわかった。だから、動けなかった。

脅されるなら、抵抗できる。褒められると、何を守ればいいのかが、わからなくなる。

院長は、一度も声を荒らげなかった。書類も出さなかった。処分の話もしなかった。

話したのは、病院の話である。この病院が、年に何人を助けているか。心臓外科がなくなれば、この地域で何人が死ぬか。数字は正確だった。

数字は、正確だった。

十四時二十六分、退室。

木曜。日勤。器械出し三件。手が、いつもより丁寧に動く。丁寧に動くのは、頭が別のことを考えているからである。

金曜。休み。何もしない。

土曜。夜勤。

日曜。明け。帰って、眠る。三時間で目が覚める。

月曜。相馬は、退職届の様式を、事務からもらってくる。

A4が一枚。上から三分の一が空欄で、下に、退職理由と書いてある。

誰にも書かされていない。書けとは、誰も言わなかった。

理由の欄に、相馬は「一身上の都合」と書いた。

一身上の都合。

その六文字を、相馬は、これまで何十枚も見てきた。同僚が辞めるたびに、回覧で回ってきた。

六文字の下に、何が入っているかを考えたことは、一度もなかった。

火曜。提出。

受け取った看護部長は、目を通して、判を押した。二分だった。

 

*  *  *

 

その週の終わりに、相馬は退職した。

理由は告げられなかった。送別会もなかった。ロッカーは、翌週には空になっていた。

夜勤の看護師が、噂をしていた。急な話でしたね、と。実家の都合だそうです、と。誰も、それ以上は言わなかった。この建物では、人が一人減ることは、シフト表が一行変わることでしかない。

彼女がどこへ行ったのか、私は知らない。

私は探さなかった。探せば、何かを知ってしまう。知れば、何かをしなければならなくなる。私は、そのどちらも、したくなかった。

これを卑怯と呼ぶ者もいるだろう。呼んでくれていい。私は、そのとき確かに、彼女がいなくなったことに、安堵した。安堵した自分に気づいて、そこで、考えるのをやめた。

彼女が置いていったコピーは、私の手でシュレッダーにかけた。

細く裂かれていく紙を見ながら、私は、姉の薬を包んでいた、あの白いオブラートを思い出した。

あれも、証拠を包み、飲み込ませ、消していく道具だった。

私は、あの頃から、何も変わっていなかった。証拠を消し、罪を包み、なかったことにする。

私は母の子だった。骨の髄まで。

心臓は嘘をつけない。だが、人間の作った記録は、いくらでも消せる。人間の記憶も、都合よく書き換えられる。

私は、三十七年間、自分の記憶を書き換えて生きてきた。母を聖女に。桐生を悪魔に。自分を、正義の医者に。

その精巧な嘘の上に、私という人間は建っていた。

そして、その土台が桐生の一言で崩れたあとも――私は、なお生き続けた。崩れた土台の上に、新しい嘘を、また塗り重ねながら。

私は裁かれなかった。

私は、いまも、帝都大学附属病院、心臓血管外科の医長だ。人を裁く資格など、とうになかった男が、いまも白衣を着て、人の胸を開いている。

昨日も、一人、助けた。八十一歳の女性だった。娘さんが涙を流して礼を言った。私はいつもの角度で頭を下げた。

先週は六件。今週も五件入っている。そのうち三件は、他院が断った症例だ。私が引き受けなければ、その三人は、たぶん一年もたない。

この手は、今日も、よく動く。

相馬が去って二か月後、廊下で新村とすれ違った。彼は一冊のファイルを抱えていた。

 

「先生。相馬さんが集めていた資料、事務のほうに残っていました」

 

私は足を止めた。

 

「処分しておきましたので」

 

新村は、そう言って、頭を下げて去っていった。

私は、その背中を見ていた。誰にも頼まれていないことを、この青年は、また一つやった。

その週、五件。五人とも、生きて帰った。

五人のうち、三人は名前を覚えている。二人は、覚えていない。

覚えていない二人のことを、私は、いま思い出そうとした。

出てこなかった。


(第八章 了)

 


ここまでお読みいただき、ありがとうございます。

次話もお楽しみにしていただけると嬉しいです。

感想やご指摘をいただけると、今後の励みになります。


(更新:毎日22時投稿予定)

隠岐群青

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