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第七章 手術

心臓外科医・黒木誠、四十五歳。


彼には、開いた胸の奥から「その人の来歴」を読み取ってしまう才能があった。顔は笑える。言葉は飾れる。だが、心臓だけは嘘をつかない――。法が裁けぬ罪を、彼は手術台の上で、静かに裁いていく。生と死、家族、師弟、そして組織の闇へと沈んでいく、後味の悪い医療イヤミスです。手術・死・暴力などの描写を含みますので、苦手な方はご注意ください。どうか、最後の一行まで見届けていただけますと幸いです。

手術室に入る前、私は長い時間、手を洗った。爪の間を、ブラシで、皮膚が破れるほど擦った。何を洗い落とそうとしていたのか、自分でもわからなかった。


桐生は、すでに麻酔で眠っていた。全身麻酔。動脈ライン、中心静脈カテーテル、スワンガンツ、経食道エコー。老いた体に、無数の管がつながれていた。この心臓を、私は止め、直し、また動かす。あるいは――止めたまま、動かさない。


三十七年間、私が夢見てきた瞬間だった。だが、いま、私の胸にあるのは、憎しみではなかった。私を守るために、生涯、私に憎まれることを選んだ、老いた医者への――なんと呼べばいいのか、私は知らない言葉だった。

胸骨正中切開。電気鋸が、桐生の胸骨を裂いた。扉が開いた。心膜を切り、心臓を露出させる。ヘパリンを投与し、ACTを確認し、送血管を上行大動脈へ、脱血管を大静脈へ。人工心肺、開始。部分体外循環から、完全体外循環へ。桐生の心臓と肺の役割を、機械が引き継いだ。麻酔器の換気が止まる。


私は、桐生の露出した心臓を、見下ろした。石灰化した弁。硬くなった冠動脈。七十六年、この老人を生かし続けてきた、疲れ果てた袋。私は、それを、読もうとした。三十七年前、姉を死なせた男の心臓に、どんな罪が刻まれているのかを。


だが、私は、何も読めなかった。そこにあったのは、ただ、老いた、傷ついた、疲れた心臓だった。三十七年間、誰にも真実を告げられず、無能な医者として憎まれ続け、独りで生きてきた男の心臓。花も見舞いもない病室で、古い革の鞄をひとつ抱えて、死のうとしている男の心臓。私は、そこに、罪ではなく、ただ、深い、深い、疲労を読んだ。


大動脈遮断鉗子を、私は手に取った。この鉗子で大動脈を挟み、心筋保護液を注げば、桐生の心臓は止まる。あとは、私の指ひとつだ。ほんのわずかに、手を狂わせればいい。心筋保護を、不十分にすればいい。空気を、抜ききらなければいい。誰にも、わからない。手術に、絶対はないのだから。人は、手術台で死ぬのだから。姉のように。優しい人間から、先に。


私の手が、震えていた。三十年、一度も震えたことのない手が。


昨夜、桐生が言った真実が、私の頭の中で、何度も、こだましていた。あの子は、私が殺したんじゃない。長い年月をかけて、内側から毒を盛られ続けたような、傷み方だった。――そして私は、その毒を運んだ、幼い手のことを、思い出してしまっていた。私自身の、手のことを。


いま、私の目の前で眠っているこの老人は、その真実を、三十七年間、抱えて生きてきた。私を守るために。母を告発すれば、幼い私が、母を奪われ、あるいは「毒を運んだ子」として生涯苦しむことを、桐生は、わかっていた。だから、彼は、黙った。すべてを、自分の罪として、引き受けた。


私が、いま、殺そうとしているのは、そういう男だった。


「先生?」


器械出しの、相馬の声だった。彼女は、マスクの上から、私の目を、じっと見ていた。私を狩ろうとしていた、あの目で。だが、その目の奥に、いま、別の色があった。彼女もまた、この患者が誰であるかを、知っていたのだ。私を疑い始めてから、彼女は、私という人間の来歴を、徹底的に洗っていた。医局に残る古い履歴。学会名簿。そして、退職した先輩看護師のひとりが、偶然、三十七年前、姉が手術を受けた総合病院に勤めていた。相馬は、その人づてに、黒木という姓の少女が、桐生という外科医の手術台で死んだ、という古い記録に、辿り着いていた。彼女は、私が城之内を読んだように、私の過去を読んでいた。桐生辰之。この老人が、私の何なのかを、彼女は知っていた。そして、私が、この手術台の上で、何をしようとしているかも。――止めようとしていた。


私は、鉗子を、置いた。


そして、私は、手術を始めた。本物の手術を。三十七年ぶりに、私は、ただ患者を救うためだけに、メスを握った。


狭窄した大動脈弁を、慎重に切除した。石灰化した組織を、一片も残さぬように削り取り、真新しい人工弁を、丁寧に縫い付けていく。一針ごとに、糸を、正確な間隔で。冠動脈には、三本のバイパスをつないだ。左内胸動脈を、細心の注意で剥離し、いちばん大切な血管に吻合する。この動脈グラフトは、二十年、三十年と、開存し続ける。私は、七十六歳のこの老人に、あと二十年分の心臓を、贈ろうとしていた。彼が、その二十年を、生きるかどうかはわからないのに。


大伏在静脈を、下肢から採取し、残りの冠動脈に吻合した。一針、一針、私は祈るように縫った。手術室の全員が、私の集中を、固唾を飲んで見守っていた。彼らは、これがただの難症例だと思っていた。この手術台の上で、ひとりの男が、三十七年分の憎しみと、たったいま知った真実の間で、引き裂かれていることを、誰も知らなかった。


心臓の中の空気を、私は、時間をかけて、丁寧に、丁寧に抜いた。経食道エコーで、心臓の中を映し出し、一片の気泡も残っていないことを、何度も、何度も確認した。城之内のときに、私が「急いだ」あの手順を、いま、私は、命がけで、完璧にやり遂げようとしていた。この人を、殺さぬように。この人を、生かすために。


大動脈遮断を、解除した。冠血流が戻る。復温。そして、桐生の心臓は――止まっていた老いた心臓は――ためらいがちに、けれど確かに、拍動を、再開した。


トク、トク、と。


モニターの、規則正しい波形を見て、私は、泣いていた。マスクの下で。三十七年間、流せなかった涙だった。

人工心肺から、離脱した。プロタミンでヘパリンを中和し、止血を確認した。ドレーンを留置し、胸骨をワイヤーで閉じた。手術は、成功した。今度は、本当に。私は、桐生辰之の命を、救った。


私を、守ってくれた人の命を。


だが、その夜。ICUで、桐生辰之は、静かに息を引き取った。


手術は成功していた。心臓は、力強く動いていた。合併症は、なかった。血圧も、尿量も、すべての数値が、良好だった。それでも、彼は死んだ。原因は、わからなかった。強いて言えば、老いた体力が、大手術の侵襲に、耐えきれなかった、ということになる。だが、私には、そうは思えなかった。まるで、三十七年間、私に憎まれ続けるという、その一点だけを支えに生きてきた老人が、真実を語り終え、そして、その真実を語った相手に、命を救われて――もう、生きる理由を、失ったかのようだった。役目を終えて、ようやく荷を下ろしたかのように。


彼の遺品を整理したのは、私だった。他に、誰もいなかったからだ。あの、古びた革の鞄の中には、色褪せた一枚の写真が入っていた。手術着姿の、若い頃の桐生と、その隣で、はにかんで笑う、小さな女の子。姉だった。手術の、前の日に、撮ったものだろうか。裏に、万年筆で、こう書かれていた。「香織ちゃん。かならず、なおします。桐生」と。


私は、その写真を、握りしめて、声を殺して、泣いた。三十七年間、私が憎み続けた男は、姉を殺した悪魔ではなかった。姉を、救おうとして、救えなかった、ひとりの、悲しい医者だった。そして、その悲しみを、独りで、墓場まで、持っていこうとしていた。私のために。


私は、彼を救ったのか。殺したのか。いまも、わからない。ただ、確かなことは、私が、いちばん憎むべき相手を、生涯、間違え続けてきた、ということだ。心臓を読む名人が。私は、いちばん近くにいた怪物を見抜けず、いちばん優しかった人間を、悪魔だと思い込んで、憎み続けた。私の「読み」など、その程度のものだった。その程度の目で、私は、二人の人間を、殺したのだ。


本作はフィクションです。登場する人物・団体・病院・地名・出来事はすべて架空であり、実在のいかなる個人・組織・医療機関とも関係ありません。


作中の手術および医療に関する描写は、物語を成立させるための演出であって、正確性を保証するものではなく、現実の医療行為とは異なります。医療上の判断は、必ず専門家にご相談ください。また本作は、ある作品への「憧れ」を主題に据えた一次創作であり、特定の作品やキャラクターを再現・引用したものではありません。


毎日、22時に投稿予定です。(全10章)

それでは、次の章で、またお会いできますように。

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