第六章 母の手
心臓外科医・黒木誠、四十五歳。
彼には、開いた胸の奥から「その人の来歴」を読み取ってしまう才能があった。顔は笑える。言葉は飾れる。だが、心臓だけは嘘をつかない――。法が裁けぬ罪を、彼は手術台の上で、静かに裁いていく。生と死、家族、師弟、そして組織の闇へと沈んでいく、後味の悪い医療イヤミスです。手術・死・暴力などの描写を含みますので、苦手な方はご注意ください。どうか、最後の一行まで見届けていただけますと幸いです。
その夜、私は眠れなかった。三十七年ぶりに、私は、姉が死ぬ前の日々を、思い出そうとした。ずっと、思い出さないようにしてきた日々を。
姉は、月に何度も病院に通っていた。発作を起こし、胸を押さえ、唇を紫にした。だが――いま、冷静に、外科医の目で振り返ってみれば――その発作は、いつも、母がそばにいるときに起きていた。母がいないとき、たとえば私と二人で留守番をしているとき、姉は、驚くほど元気だった。庭を走り、私と縄跳びをし、笑い声をあげた。
母は、献身的な人だった。近所でも評判の、病気の娘に尽くす、健気な母親だった。姉の薬を、几帳面に管理していた。毎日、決まった時間に、決まった量を、母は姉に飲ませた。白い粉薬を、オブラートに包んで。
そして――そうだ。思い出した。ときどき、母は私に、その薬を運ばせた。「香織にこれを持っていって、誠。お姉ちゃん思いのいい子ね」と。私は、誇らしかった。姉を助けている気がした。あの漫画の医者のように、人の命を救っている気がした。八歳の私は、母から受け取った白い包みを、姉の口元へ運んだ。
私が。この手で。
母は、代理ミュンヒハウゼン症候群だったのだ。いまなら、その病名を私は知っている。自らの子を、ひそかに病気にし、あるいは病気を装わせ、献身的に看病する自分に酔う、あの、静かな怪物。母は、姉を、少しずつ弱らせていた。何かを盛って。心臓を痛めつけて。周囲の同情を集めながら。そして、その毒を運ぶ役目を、母は、幼い私にやらせていた。
思い出すほどに、辻褄が、恐ろしいほど、合っていった。姉が入院すると、母は、生き生きとした。毎日、病院に通い、看護師たちに礼を言われ、「大変ですね」「お母さん、無理をなさらないで」と労られた。母は、そのとき、いちばん、輝いていた。逆に、姉が元気になって退院が近づくと、母は、不機嫌になった。苛立ち、私を叱り、そして、また、姉の「薬」を、増やした。
姉の死後、母は、変わってしまった。抜け殻のようになった、と、周囲は同情した。だが、いまならわかる。あれは、悲しみではなかった。獲物を、失ったのだ。献身の対象を、失ったのだ。母は、その後、長く生きた。私が医者になるのを、誇らしげに見守りながら。そして、五年前、老衰で、穏やかに、息を引き取った。誰にも、疑われることなく。「病気の娘に尽くした、健気な母」として。私が、看取った。私が、この手で。母の、冷たくなっていく手を、握りながら、私は、泣いた。何も知らずに。
私は、姉を殺した怪物を、三十七年間、探し続けてきた。そいつは、私の、すぐ隣にいた。私を育て、私の頭を撫で、私に「香織を助けてあげてね」と微笑んだ、あの、温かい手の持ち主だった。そして私は、そいつを、探すどころか、看取り、悼み、そして――知らずに、そいつの、共犯者だった。
桐生は、それに気づいたのだ。手術台の上で、あまりに傷んだ心臓を見て。だが、彼は、それを証明できなかった。証明できたとしても、母を告発すれば、遺された幼い弟――つまり私は、母親を奪われ、あるいは「毒を運んだ子ども」として、生涯、十字架を背負うことになる。だから桐生は、黙った。すべてを、自分の技術の未熟さのせいにして。頭を下げて。三十七年間、無能な医者として、私に憎まれ続けることを、選んだ。
私を、守るために。
私は、洗面台に駆け寄り、嘔吐した。何も出なかった。胃液だけが、喉を焼いた。鏡の中に、白髪の混じった、四十五歳の男がいた。三十七年間、私は、姉を殺した犯人を憎み、そいつを裁くために生きてきた。腐った心臓を切除する、正義の外科医のつもりでいた。
だが、姉を殺したのは、母だった。そして、母の手足となって毒を運んだのは、私だった。
私が裁いてきた「犯人」たちは、なんだったのか。城之内。篠田。彼らは、本当に、罪を犯していたのか。それとも――私は、自分の中の、認めたくない罪を、他人の心臓に投影していただけなのではないか。姉を殺した自分を、母を、直視できないから、代わりに、赤の他人を「毒殺者」に仕立て上げ、手術台の上で処刑してきただけなのではないか。
翌朝、私は、篠田の事件のことを、あらためて調べた。震える指で。彼女の夫は、三年前、末期の膵臓癌で亡くなっていた。カルテを取り寄せて確認した。膵臓癌。妻の献身は、本物だった。警察が一度事情を聞いたのは、単に、多額の生命保険がかかっていたという、それだけの理由だった。彼女は、シロだった。
城之内も、調べ直した。四十年前の、共同経営者の転落死。その事件は、実は、五年前に、別の男の臨終の告白によって、真相が明らかになっていた。落ちた男は、自ら足を滑らせたのだった。城之内は、助けようとして、逆に船縁に胸を打っていた。だからこそ、彼の心膜は、傷ついていたのだ。あの癒着は、殺人の痕ではなかった。人を、助けようとした痕だった。私は、それを、正反対に読んだ。彼が財産を得たのは、単なる相続だった。小児病棟への寄付は、亡き友を悼む、彼なりの、供養だった。彼は、人を殺してなどいなかった。それどころか、人を、助けようとした男だった。
私が病室で「あなたは誰かを海に落とした」と告げたとき、彼の心拍が跳ねたのは、罪の証ではなかった。四十年間、目の前で親友を失った、その古い傷を、たったいま、見知らぬ外科医に、無神経に、抉られたからだった。彼は、翌朝、私の手術台の上で、殺された。親友を助けられなかった記憶に、最後まで、苦しみながら。
私は、二人の、無実の人間を、殺していた。いや――正確に言えば、私が殺したのは、二人ではない。私は、姉を殺すのを、手伝った。その罪から目を逸らすために、赤の他人に罪をなすりつけ、二人を殺した。三つの死が、私の手には、こびりついていた。そして、私は、そのどれひとつとして、贖うことが、できない。死者は、帰らない。心臓は、一度止まれば、私がどんなに祈っても、二度と、動きださない。
私は、外科医ではなかった。私は、あの黒マントの男でもなかった。私は、母だった。姉を殺した、あの、静かな怪物と、同じものだった。人を裁くふりをして、自分の空虚を満たすために、命を弄んでいただけの。
その日、桐生辰之の、手術の日だった。
本作はフィクションです。登場する人物・団体・病院・地名・出来事はすべて架空であり、実在のいかなる個人・組織・医療機関とも関係ありません。
作中の手術および医療に関する描写は、物語を成立させるための演出であって、正確性を保証するものではなく、現実の医療行為とは異なります。医療上の判断は、必ず専門家にご相談ください。また本作は、ある作品への「憧れ」を主題に据えた一次創作であり、特定の作品やキャラクターを再現・引用したものではありません。
毎日、22時に投稿予定です。(全10章)
それでは、次の章で、またお会いできますように。




