第五章 桐生という名の患者
心臓外科医・黒木誠、四十五歳。
彼には、開いた胸の奥から「その人の来歴」を読み取ってしまう才能があった。顔は笑える。言葉は飾れる。だが、心臓だけは嘘をつかない――。法が裁けぬ罪を、彼は手術台の上で、静かに裁いていく。生と死、家族、師弟、そして組織の闇へと沈んでいく、後味の悪い医療イヤミスです。手術・死・暴力などの描写を含みますので、苦手な方はご注意ください。どうか、最後の一行まで見届けていただけますと幸いです。
運命というものを、私は信じない。心臓を読む人間に、運命を信じる資格はない。すべては原因と結果だ。因があり、果がある。人が病むのにも、人が死ぬのにも、理由がある。神の思し召しなどではない。ただの、生理学だ。分子の、化学反応の、積み重ねだ。私は、そう信じることで、姉の理不尽な死を、なんとか、飲み下してきた。神がいないなら、理不尽もない。あるのは、原因と、結果だけだ。そう思わなければ、私は、生きてこられなかった。
だが、あの患者の入院を知ったとき、私はさすがに、神という言葉を思い出した。いないはずの神が、私を嗤っているような気がした。もし、神がいるとしたら――それは、慈悲深い神ではない。人を救う神でもない。人間が、自分を神だと思い上がるのを、じっと待ち構えていて、その傲慢を、最も残酷なやり方で、罰する神だ。人間が、いちばん誇っているもの――私の場合は、心臓を読むという、あの才能――を、逆手に取って、破滅させる神だ。
その神が、いま、私のもとに、ひとりの老いた患者を、送り込んできた。三十七年前の、あの日から、まっすぐに続く、一本の糸の先に。
桐生辰之。七十六歳。重症大動脈弁狭窄症、および冠動脈三枝病変。他院で手術不能と判断され、帝都大学附属病院に紹介されてきた。そして、最も難易度の高い症例として、私に割り当てられた。
桐生辰之。あの、桐生だった。
三十七年前、私の姉を手術台の上で死なせた、あの外科医。私を見下ろして、「あれは漫画だよ」と言った、あの男。すでに現役を退き、老いさらばえ、いまや自らの心臓を、かつて自分が死なせた少女の弟に、委ねようとしている。
私は、笑いだしそうになった。同時に、涙が出そうになった。三十七年間、私が磨き続けてきた刃は、この日のためにあったのではないか、と思った。私はこの男を裁くために、外科医になったのではなかったか。世界中の腐った心臓を切ってきたのは、いつかこの心臓に辿り着くためだったのではないか。
私は、彼のカルテと、画像を、繰り返し見た。大動脈弁は、石灰化で、ほとんど開かなくなっていた。冠動脈も、三本とも、限界だった。他院が手術不能と判断したのも、無理はない。この年齢、この心機能、この全身状態。手術のリスクは、きわめて高い。だが――だからこそ、なのだ。この患者は、手術台の上で死んでも、誰も不審に思わない。むしろ、死ぬのが当然と思われている。私が、指を、ほんの少し、狂わせるだけでいい。
三十七年間、研ぎ続けてきた刃が、いま、鞘走ろうとしていた。私は、震える手で、彼の術前画像を、何度も、何度も、見た。
術前の説明のため、私は桐生の病室を訪れた。彼は、痩せて小さくなっていた。記憶の中の、あの威厳のある大男の面影は、もうどこにもなかった。酸素チューブを鼻に入れ、ベッドに半身を起こした老人が、そこにいた。窓辺には、見舞いの花もなく、ただ、古びた革の鞄がひとつ、置かれていた。彼が、独りで生きてきたことが、その部屋の空気から、わかった。
「あなたが、黒木先生か」と、桐生は言った。かすれた声だった。「評判は、聞いています。今どき珍しい、腕の立つ外科医だと」
「黒木誠です」と、私は名乗った。「――黒木香織の、弟です」
桐生の、濁った目が、ゆっくりと見開かれた。
長い沈黙があった。窓の外で、救急車のサイレンが、遠く鳴っていた。
「そうか」と、やがて桐生は言った。彼は、驚かなかった。恐れもしなかった。ただ、深く、疲れたように息を吐いた。「そうか。あの子の。……大きくなったな」
「ええ。あなたが姉を死なせてから、三十七年、経ちました」
「三十七年」桐生は、天井を見上げた。「長かったか、短かったか。私には、もうわからん」
「明日、あなたの心臓を、私が手術します」と、私は言った。城之内に言ったのと、同じ言葉を。「あなたの命は、私の指先にある。よく眠ってください、桐生さん」
私は病室を出ようとした。ドアに手をかけたとき、背後で、桐生の声がした。
「黒木くん。ひとつだけ、言っておかねばならんことがある」
私は、振り返らなかった。
「香織ちゃんはな」と、桐生は言った。「私が、殺したんじゃない」
私は、動けなかった。
「あの子の心臓は、手術台で開けてみて、初めてわかったんだ。検査で見えていたよりも、ずっと、ずっと傷んでいた。まるで、長い年月をかけて、少しずつ、内側から毒を盛られ続けたような――そんな傷み方だった」
毒を、盛られたような。
その言葉が、私の脳の、いちばん奥の、ずっと鍵をかけて開けずにいた部屋の扉を、こじ開けた。電気鋸の音がした。ピザを切り分ける、あの円い刃の音が。
「黒木くん」と、桐生は、なおも言った。私の背に向かって。「明日、私を殺すつもりだろう」
私は、ドアの取っ手を握ったまま、動けなかった。
「いい。それでいい。私は、もう十分に生きた。だが――ひとつだけ、聞いてくれ。私は、三十七年間、待っていた。いつか、香織ちゃんの弟が、私を訪ねてくる日を。真実を、話せる日を。憎まれるのは、かまわん。だが、間違った理由で憎まれたまま死ぬのは、外科医として、耐えられん。明日、私の心臓を止める前に――どうか、真実を、聞いてくれ」
私は、返事をせずに、病室を出た。廊下は、静まり返っていた。私の心臓が、私の耳の中で、大きく鳴っていた。他人の心臓なら、私はいくらでも読める。だが、そのとき初めて、私は、自分の心臓が、何かを、必死に訴えているのを、感じた。読むな、と。その部屋だけは、開けるな、と。
本作はフィクションです。登場する人物・団体・病院・地名・出来事はすべて架空であり、実在のいかなる個人・組織・医療機関とも関係ありません。
作中の手術および医療に関する描写は、物語を成立させるための演出であって、正確性を保証するものではなく、現実の医療行為とは異なります。医療上の判断は、必ず専門家にご相談ください。また本作は、ある作品への「憧れ」を主題に据えた一次創作であり、特定の作品やキャラクターを再現・引用したものではありません。
毎日、22時に投稿予定です。(全10章)
それでは、次の章で、またお会いできますように。




