第五章 桐生という名の患者
心臓外科医・黒木誠、四十五歳。
彼には、開いた胸の奥から「その人の来歴」を読み取ってしまう才能があった。顔は笑える。言葉は飾れる。だが、心臓だけは嘘をつかない――。法が裁けぬ罪を、彼は手術台の上で、静かに裁いていく。生と死、家族、師弟、そして組織の闇へと沈んでいく、後味の悪い医療イヤミスです。手術・死・暴力などの描写を含みますので、苦手な方はご注意ください。どうか、最後の一行まで見届けていただけますと幸いです。
木曜の午後、外来と外来のあいだに、事務の女性が封筒を三つ持ってきた。紹介状だった。他院からの、よくある依頼だ。
二通目までは、いつもどおりに読んだ。八十代の弁膜症と、六十代の冠動脈疾患。どちらもうちで診るべき症例だった。
三通目を開いて、私は、その紙を裏返した。宛名を確かめるためだ。宛名は合っていた。
桐生辰之。七十六歳。重症大動脈弁狭窄症、および冠動脈三枝病変。手術不能と判断され、帝都大学附属病院へ紹介。
その名前を、私は声に出さずに二度読んだ。同姓同名という言葉が、頭の隅を通り過ぎた。だが、年齢が合う。前任地の病院名も合う。
隣の席で、若い医者がコーヒーを飲んでいた。廊下から誰かの笑い声が聞こえた。何でもない午後だった。
三十七年前に私の姉を死なせた男が、いま、私に自分の心臓を預けようとしている。
私は、その紙を机に置いた。指が震えていた。三十年、一度も震えたことのない指だった。震えているという事実のほうに、私は驚いていた。
――どうしました、と若い医者が訊いた。何でもない、と私は答えた。
誰が割り当てたのかは、書いていない。カンファレンスの席で外科部長が「黒木先生に」と言い、それで決まった。この病院では、断られた患者はたいてい私のところへ来る。それだけの、事務的な流れだ。事務的な流れが、三十七年分の距離を一日で詰めることがある。
その夜、家に帰ってから、私は姉の顔を思い出そうとした。うまくいかなかった。三十七年で、姉の顔は写真の中の顔に置き換わっている。えくぼの位置は覚えている。声も少しだけ。だが、笑った顔全体が、もう像を結ばない。
人を憎み続けるというのは、その相手のことばかり鮮明に覚えているということだ。憎む理由になった人の顔は、薄れていくのに。
運命という言葉を、私は信じたことがない。心臓を読む人間に、そんな資格はない。すべては原因と結果だ。人が病むのにも死ぬのにも、理由がある。ただの生理学だ。分子の、化学反応の、積み重ねだ。そう信じることで、私は姉の死を飲み下してきた。神がいないなら、理不尽もない。
それなのに、その夜だけは、いないはずの何かが私を見ている気がした。慈悲深い神ではない。人間が自分を神だと思い上がるのを待ち構えていて、その人間がいちばん誇っているもので破滅させる、そういう性質の悪い何かだ。
その週、私は四件の手術をした。四件とも、うまくいった。
一件は、七十九歳の女性の弁置換だった。娘さんが二人来ていて、術後の説明のとき、二人とも泣いた。よかった、よかった、と繰り返していた。私は、いつもの角度で頭を下げた。
こういう日常の上に、あの紹介状は落ちてきた。
その夜、私は医局に残り、桐生の画像を繰り返し見た。
大動脈弁は、石灰化でほとんど開かなくなっていた。冠動脈も、三本とも限界だった。心筋は薄く、かつての働き者の面影を残したまま、静かに諦めかけていた。
他院が手術不能と判断したのも無理はない。この年齢、この心機能、この全身状態。手術のリスクはきわめて高い。だからこそ、この患者は手術台の上で死んでも誰も不審に思わない。むしろ、死ぬのが当然と思われている。私が指をほんの少し狂わせるだけでいい。狂わせなくてもいい。ただ、いつもの丁寧さを少し引くだけで。
私は画面を拡大した。冠動脈の分岐を、一本ずつ辿った。ここに一本、ここにもう一本。指が勝手に手順を組み立てていく。三十年、そうやって覚えてきた手順だ。組み立てながら、私は、その手順のどこを崩せば人が死ぬかも、同時に考えていた。
二時間ほど、そうしていた。気づくと、日付が変わっていた。
私はモニターを消した。暗くなった画面に、私の顔が映った。笑っていた。自分でも、驚くほどきれいに笑っていた。
翌日の朝、私はチームを集め、術式を説明した。難易度の高い症例であること。想定される合併症。準備すべき補助循環。全員が、真剣に聞いていた。相馬もその中にいた。
説明を終えると、新村が手を挙げた。
「先生。この患者さん、術前の栄養状態が、年齢のわりに良すぎませんか。独居だと、こうはならない気がして」
誰も、そんなところを見ていなかった。私も見ていなかった。
「……食事の管理を、自分でしている人なんだろう」
「ああ、なるほど。医者だった人、とか」
彼は、それだけ言って、納得した顔で座った。当てずっぽうだ。だが、当たっていた。
この青年は、検査値の並びから、人の暮らしを読もうとする。私が、心臓から人の来歴を読もうとするように。似ている、と思った。似ていることの意味を、そのときの私は、まだ考えなかった。
「先生」と、説明のあとで相馬が言った。「この患者さん、ご家族の連絡先が、空欄です」
「そうか」
「同意書は、ご本人の署名だけになります」
彼女は、それだけ言って、私の顔を見た。誰も来ない人と、泣く人がいる人。踊り場で彼女が言った言葉が、私の耳の奥で、もう一度鳴った。
この患者は、誰も泣かない側の人間だった。
術前の説明のため、私は桐生の病室を訪れた。
彼は痩せて小さくなっていた。記憶の中の、あの威厳のある大男の面影は、もうどこにもない。酸素チューブを鼻に入れ、ベッドに半身を起こした老人が、そこにいた。
窓辺には、見舞いの花もなく、ただ、古びた革の鞄がひとつ置かれていた。角が擦り切れ、留め金の金属が黒ずんでいる。長く使われた鞄だった。彼が独りで生きてきたことが、その部屋の空気からわかった。
サイドテーブルには、水差しと、老眼鏡と、一冊の手帳があった。私はその手帳を見た。分厚く、膨らんでいた。
「あなたが、黒木先生か」と、桐生は言った。かすれた声だった。「評判は、聞いています。今どき珍しい、腕の立つ外科医だと」
その言い方に、皮肉はなかった。この老人は、外科医として四十年やってきた人間だ。誰の腕がいいかを正しく判断できる。そして、私を選んだ。
あとで知ったことだが、この人は、いくつかの病院で断られたあと、自分で調べてここへ来た。若い頃の同僚に連絡を取り、いまいちばん腕のいい心臓外科医は誰かと訊いたのだという。
三人の名前が挙がって、そのうちの一人が私だった。
「黒木誠です」と私は名乗った。「――黒木香織の、弟です」
桐生の、濁った目が、ゆっくりと見開かれた。
長い沈黙があった。窓の外で、救急車のサイレンが、遠く鳴っていた。酸素の流れる、小さな音だけが、部屋にあった。
「そうか」と、やがて桐生は言った。
彼は驚かなかった。恐れもしなかった。ただ、深く、疲れたように息を吐いた。
「そうか。あの子の。……大きくなったな」
その言い方に、私は、かっとなった。三十七年ぶりに会った人殺しが、遺族に向かって言う言葉ではない。だが、それは同時に、この男が三十七年間、姉を忘れていなかったという証でもあった。
「ええ。あなたが姉を死なせてから、三十七年、経ちました」
「三十七年」桐生は、天井を見上げた。「長かったか、短かったか。私には、もうわからん」
「よく覚えていましたね。あなたが手術で死なせた患者は、姉だけではないでしょう」
「覚えているよ」桐生は、静かに言った。「全部だ」
彼は、サイドテーブルの手帳に、目をやった。
「名前と、日付と、術式と。……何が足りなかったのかを、書いてある。四十年分だ。ときどき読み返す。読み返しても、誰も生き返らんがね」
私はその手帳から目を逸らした。見てはいけないものを見た気がした。
私も名前を覚えている。城之内。篠田。二人だけだ。だが私は、書き留めていない。書けば、記録になるからだ。桐生は書いた。忘れないために。私は書かなかった。忘れるために。
同じ死者を抱えていても、その抱え方で、人間はここまで違う。
「明日、あなたの心臓を、私が手術します」と、私は言った。城之内に言ったのと、同じ言葉を。「あなたの命は、私の指先にある。よく眠ってください、桐生さん」
私は病室を出ようとした。ドアに手をかけたとき、背後で、桐生の声がした。
「黒木くん。ひとつだけ、言っておかねばならんことがある」
私は振り返らなかった。
「香織ちゃんはな」と桐生は言った。「私が、殺したんじゃない」
私は動けなかった。
言い訳だ、と思った。三十七年かけて、この男が用意した言い訳だ。手術台で子どもを死なせた医者が、最後にすがる、いつもの台詞だ。
だが、桐生の声は、言い訳の声ではなかった。それは報告の声だった。長いあいだ提出できずにいた所見を、ようやく読み上げる者の声だった。
「あの子の心臓は、手術台で開けてみて、初めてわかったんだ。検査で見えていたよりも、ずっと、ずっと傷んでいた。まるで、長い年月をかけて、少しずつ、内側から毒を盛られ続けたような――そんな傷み方だった」
毒を、盛られたような。
その言葉が、私の脳の、いちばん奥の、ずっと鍵をかけて開けずにいた部屋の扉を、こじ開けた。
電気鋸の音がした。骨を裂く、あの音が。
なぜ、いま、その音が聞こえるのか。私にはわからなかった。わからないふりを、していたのかもしれない。
薬を仕分ける母の背中が見えた。台所の、あの、小さな背中が。かわいそうに、あの子は生まれつき体が弱くて、と話すときの、少しだけ明るい声が。
私は、その部屋の扉を、両手で押し戻した。閉めろ。開けるな。ここは、開けてはいけない。
私は、桐生の言葉を、医学的に否定しようとした。子どもの心臓は、検査で見えるより悪いことがある。当時の画像診断は、いまより粗い。単なる、術者の後知恵だ。三十七年前の見立てなど、何の証明にもならない。
そう並べているあいだ、私の指は、ドアの取っ手を握ったまま、離れなかった。
「黒木くん」と桐生は、なおも言った。私の背に向かって。「明日、私を殺すつもりだろう」
私は、ドアの取っ手を握ったまま、動けなかった。
「わかるとも」桐生は続けた。
「手術というのはな。相手を助けようと思って握るときと、そうでないときとで、指の置き方が変わる。あんたの目は、もう、術野を見ていた。私を見てはいなかった」
私は答えなかった。
「いい。それでいい」桐生は言った。「私は、もう十分に生きた。だが――ひとつだけ、聞いてくれ。私は、三十七年間、待っていた。いつか、香織ちゃんの弟が、私を訪ねてくる日を。真実を、話せる日を」
「真実」
「憎まれるのは、かまわん。医者は、憎まれる仕事だ。だが、間違った理由で憎まれたまま死ぬのは、外科医として、耐えられん」
声が、そこで、少し掠れた。
「明日、私の心臓を止める前に――どうか、真実を、聞いてくれ」
私は、返事をせずに、病室を出た。
廊下は、静まり返っていた。
消灯後の病棟は、遠くでナースコールが一度鳴り、それきり静かになった。非常灯の緑が、リノリウムの床を、細長く照らしていた。
私の心臓が、私の耳の中で、大きく鳴っていた。
他人の心臓なら、私はいくらでも読める。だがそのとき初めて、私は、自分の心臓が、何かを必死に訴えているのを感じた。
読むな、と。その部屋だけは、開けるな、と。
ナースステーションの前で、私は足を止めた。夜勤の看護師が、書類から顔を上げた。
「先生? どうか、されましたか」
「いや」と私は言った。「明日の患者を、見てきた」
自分の声が、遠かった。
――君にも、あるだろうか。開けてはいけないと知っている部屋が。私は、三十七年、その扉に背を向けて生きてきた。そして明日、私は、その扉の前に立たされる。麻酔で眠った男の胸を開きながら。
その夜は眠れなかった。城之内のあとも、篠田のあとも、私はよく眠れた。人を殺した夜には眠れて、まだ誰も殺していない夜に眠れない。そのことの意味を考えかけて、途中でやめた。
三時に起きて、水を飲んだ。四時に、明日の術式をもう一度確認した。五時に、洗濯機を回した。回す必要はなかった。
窓の外が白みはじめていた。あと三時間で、私は手を洗い、手袋をはめ、あの男の胸を開く。三十七年、待った日だ。それなのに、私の中にあるのは勝利の予感ではなかった。何だったのかは、いまも言葉にできない。強いて言えば、扉の前に立たされた子どもの、動けない感じに近かった。
病室を出るとき、あの老人が言ったことが、耳から離れなかった。
――明日、私の心臓を止める前に。どうか、真実を、聞いてくれ。
真実。この期に及んで、あの男は何を語るつもりなのか。
(第五章 了)
本作はフィクションです。登場する人物・団体・病院・地名・出来事はすべて架空であり、実在のいかなる個人・組織・医療機関とも関係ありません。
作中の手術および医療に関する描写は、物語を成立させるための演出であって、正確性を保証するものではなく、現実の医療行為とは異なります。医療上の判断は、必ず専門家にご相談ください。また本作は、ある作品への「憧れ」を主題に据えた一次創作であり、特定の作品やキャラクターを再現・引用したものではありません。
毎日、22時に投稿予定です。(全10章)
それでは、次の章で、またお会いできますように。




