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第四章 数字は嘘をつかない

心臓外科医・黒木誠、四十五歳。


彼には、開いた胸の奥から「その人の来歴」を読み取ってしまう才能があった。顔は笑える。言葉は飾れる。だが、心臓だけは嘘をつかない――。法が裁けぬ罪を、彼は手術台の上で、静かに裁いていく。生と死、家族、師弟、そして組織の闇へと沈んでいく、後味の悪い医療イヤミスです。手術・死・暴力などの描写を含みますので、苦手な方はご注意ください。どうか、最後の一行まで見届けていただけますと幸いです。


「先生」と、ある日の夕方、新村が医局で私に声をかけた。声がいつもより硬かった。「変なことを、訊いてもいいですか」

「なんだ」

「先生の執刀された症例の、術中死亡と術後早期死亡が――この一年で、七例あります」

「多いか」

「多いです。先生の手術件数と難易度を考えても、多い。しかも」新村は、手にしたタブレットに目を落とした。「亡くなった患者さんに、共通点があるように思えて」

 

彼はタブレットの画面を私に向けた。七人の名前が、死亡日と術式とともに並んでいた。手作りの表だった。誰にも頼まれていない仕事を、この青年は夜中に一人でやったのだろう。書式が几帳面に整っていた。

画面の下に、タブが二つあった。

一つは、いま開いている表である。もう一つには、こう書いてあった。

――もう一方。

私は、それを開かなかった。開けとも言わなかった。

列が七つあった。氏名、年齢、術式、死亡日、死亡までの時間、直接死因、そして最後の列に「備考」とある。備考の欄には、それぞれ短く一行ずつ書き込みがある。感情の入った言葉は一つもない。事実だけが並んでいた。

この表を作るのに、この青年は何時間かけたのか。そして、その何時間のあいだ、何を感じていたのか。表からは、何も伝わってこなかった。

私は、自分の心臓が、わずかに速くなるのを感じた。

医局の壁の時計が、六時を指していた。窓の外はもう青い。誰かが電子レンジを回している音が、遠くで鳴っていた。何でもない夕方だった。

他人の心臓なら、私はそれを読む。だが、自分の心臓を読むことはできない。私は表情を動かさなかった。

 

「共通点とは」

「みなさん、事件の――というか、その」新村は言い淀んだ。「亡くなったあと、少し調べると、過去に、何か暗い噂のある方ばかりで。城之内さんは、昔の共同経営者の事故死で財産を得ていて。篠田さんは、ご主人の死に、当時、警察が一度、事情を聞いていて」

「よく調べたな」

「……すみません」

「謝ることじゃない。それは、医者として、正しい態度だ」

 

私はそう言った。心の底から、そう思っていた。同時に、この青年の首に、自分の手がかかっていく気配も、感じていた。

 

「偶然だろう」と私は続けた。「私が引き受けるのは、他院が断った重症例だ。もともと予後の悪い患者が多い。年齢も高い。そういう人生を長く生きた人間には、叩けば埃の出る過去のひとつやふたつ、あって当たり前だ」

 

新村はしばらく黙っていた。それから、思い切ったように顔を上げた。

 

「先生は、あの漫画を、読まれましたか」

 

心臓が、跳ねた。

 

「無免許の、外科医の話です。ぼく、子どもの頃から、あの人に憧れていて。医者を目指したのも、あの漫画がきっかけで。あの人は、悪いやつを、手術台の上で……いえ」新村は首を振った。「すみません。馬鹿げたことを。忘れてください」

 

私は、この青年が、私と同じ場所から来たことを知った。同じ待合室、同じ古い漫画、同じ憧れ。

そして彼は、いま、私という完成形を目の前にして、恐ろしい仮説に手を触れかけている。

私を告発しようとしているのではない。私を理解しようとしているのだ。

それが、いっそう、私を怯えさせた。憎まれるのは、慣れている。理解されるのは、慣れていない。

 

「新村」と私は静かに言った。「医者の仕事は、裁くことじゃない。治すことだ。数字が気になるなら、症例検討会に出せばいい。堂々と」

 

言いながら、私は自分の欺瞞に吐き気がした。治すことだと? 私は、何人を治さなかった。

新村は、少しだけ笑って、頷いた。ほっとした顔だった。憧れの人に、否定してもらえたからだ。

その笑顔が、私には、いちばんこたえた。

医局を出ていく前に、彼は一度だけ振り返った。

 

「先生。もし、ですけど」

「なんだ」

「もし、その人が、本当に人を殺していたとしたら。……医者は、それを知って、どうすればいいんでしょうか」

 

どうすればいい。私は、その問いに、三十年答え続けてきた。答えのすべてが、間違っていた。

 

「治すんだ」と私は言った。「それ以外に、何もない」

 

新村は頷いて、出ていった。私の答えを、正しいものとして持ち帰るために。

その会話を、相馬が、少し離れた席で聞いていた。

彼女は書類に目を落としたまま、顔を上げなかった。ペンも、動いていなかった。三十秒ほど、同じ行の上で、止まっていた。

私にはわかった。あの女は、聞いていた。

そして彼女は、新村とちがって、私を理解しようとはしていなかった。彼女は、私を、狩ろうとしていた。

自分を憎む者と、自分をわかろうとする者と。どちらが恐ろしいか。私は後者だと思っている。

 

その夜、私は、医局の窓から、街を見下ろした。

無数の窓に、無数の明かりが灯っていた。あのひとつひとつに、人間がいる。心臓を持った人間が。そのなかに、どれほどの罪が隠されているだろう。妻を殴る夫。子を虐げる親。金のために人を陥れる者。法が裁かない罪は、この街に満ちている。

私はそれを切除しているつもりだった。腐った細胞を、ひとつずつ。

だが、外科医は知っている。癌を取り切ろうとして、健康な組織まで切りすぎれば、患者は死ぬ。私は、どこまでが癌で、どこからが健康な組織か、本当に見分けられていたのか。

いや。もっと恐ろしい問いがある。

私は、そもそも、癌でないものを癌だと思い込んで、切っていたのではないか。

窓ガラスに、自分の顔が映っていた。街の明かりが、その顔を透かしていた。私は、しばらく、その男を見ていた。誰だ、と思った。三十年見てきた顔が、その夜だけ、知らない男に見えた。

その週、救急から一件、私に回ってきた。

二十四歳の男だった。バイクで転倒し、胸を強く打った。大動脈が裂けかけていた。運ばれてきたときには、血圧がほとんど測れなかった。

私は手術室に入り、四時間で戻した。若い体は、よく持ち直す。翌朝には、もう目を開けていた。

母親が来たのは、その日の夕方だ。四十代の、小さな人だった。私を見つけると、廊下で崩れるように膝をついた。私は慌てて立たせた。看護師が二人がかりで支えた。

その人は、しばらく声にならなかった。それから、こう言った。あの子は、一人息子なんです。

こういうことが、月に何度かある。私が三十年やってきたのは、こういう仕事だ。

 

数日後、術後死亡症例検討会が開かれた。院内では、M&M、と略して呼ばれている。

院内の医療の質を保つために、死亡例を全員で検証する会だ。壇上に立たされたのは、篠田の症例だった。

私は淡々と経過を説明した。難治性心停止。原因不明。あらゆる蘇生を試みた。スライドには、非の打ちどころのない手術記録が映し出された。私が書き換えた記録が。

 

「離脱の判断は、妥当だったと思います」と、外科部長が言った。「黒木先生の対応に、問題はない」

 

誰も、私を責めなかった。心臓外科とは、そういうものだからだ。人は、死ぬ。腕のいい外科医の手のなかでさえ、人は、死ぬ。それは、この世界の、動かしがたい前提だった。

そして、その前提こそが、私の、いちばんの隠れ蓑だった。

私は、この職業の善意に、寄生していた。誰も外科医を疑いたがらないという、その善意に。

この会は、本来、次に死ぬ患者を減らすためにある。私は、その場所を、自分の身を隠すために使った。それが、私の犯した罪のうちで、いちばん、人に言いにくいものかもしれない。

スライドを作ったのは、前の晩だ。医局の自分の机で、私は、記録の中の二分を動かした。カーソルを合わせ、数字を打ち直し、保存する。それだけの作業だった。人を一人殺すより、ずっと簡単だった。

保存した瞬間、私は、自分が外科医ではなくなったことを知った。外科医は、記録を書く。人殺しは、記録を直す。

*  *  *

 

検討会の一週間前から、相馬美紀は下書きをしている。

月曜。夜勤明け。アパートに帰って、四時間眠って、起きて、ノートを開く。

書くのは質問である。一行で済むものにする。長い質問は、途中で遮られる。

 ――先生。あの手術の、離脱までの時間について、伺えますか。

書いて、消す。時間、という言葉が引っかかる。時間の話は、いくらでも説明がつく。

火曜。日勤。器械出しに二件入る。二件とも黒木医長ではない。

帰りに、書き直す。

 ――記録の時刻と、私の記憶に、ずれがあります。

書いて、消す。私の記憶、では話にならない。記憶は記録に負ける。

水曜。休み。図書館へ行く。手術室の記録の保存年限を調べる。

医師の記録。麻酔科の記録。臨床工学技士のログ。看護師の器械の出納。

四つある。四つとも、少しずつ違う時刻で書かれる。

四つのうち、三つは自分の手が届く。届かないのは一つだけだ。

木曜。夜勤。二時三十分、三〇六号室のコール。四時、記録。六時、申し送り。

何も起きない。

金曜。三度目の書き直しをする。

 ――先生。あの症例について、一点だけ、確認させてください。

これでいい、と思う。一点だけ、と言えば、一点で終わる。終わらせるつもりはない。

土曜。書いた紙を、三つに折って、ポケットに入れる。

日曜。取り出して、読む。読んで、また折る。折り目が二本になる。

月曜の朝、ポケットに入れて、病院へ行く。

検討会は、十七時からである。

相馬は、いちばん後ろの席に座る。

十七時四十分、報告が終わる。座長が、ご質問は、と言う。

誰も、手を挙げない。

相馬は、ポケットの中の紙に、指で触れる。触れて、それから、手を挙げる。

紙は、出さない。

出さないまま、一行だけを言う。一週間かけて選んだ一行である。

 

*  *  *

 

だが、いちばん後ろの席で、相馬が手を挙げた。

 

「一点、確認させてください」

 

部屋の空気が、動いた。看護師が、この会で発言することは、ほとんどない。

 

「離脱の記録と、体外循環のログの時刻に、二分ほどの、ずれがあります。どちらかが、あとから書き直されたのではないでしょうか」

 

彼女は、手元の紙を読み上げたのではなかった。何も見ずに、まっすぐ前を向いて言った。数字を、覚えていたのだ。

会場が、しんとした。

私は彼女の目を見た。彼女も私の目を見た。

私が城之内の心臓を読んだように、彼女は、私の罪を読んでいた。この女は、術野を見ていたのではない。時計を見ていたのだ。あの三時間のあいだ、ずっと。

 

「記録は、すべて残っている」と、私は言った。声は震えなかった。「いつでも、どうぞ」

 

私は部屋の隅に目をやった。新村がいた。彼は相馬を見ていなかった。相馬の指摘した箇所を、自分の手元の資料で確かめていた。ページをめくる指が、止まっていた。

この場で、いま何が起きているか。それを理解している人間は、この部屋に三人いた。私と、相馬と、あの青年だ。相馬は顔を上げて私を見ていた。新村は、紙を見ていた。人が誰かを告発している場面で、紙のほうを見ていられる人間を、私はそれまで知らなかった。

 

「転記の際の、ずれでしょう」と、外科部長が言った。面倒そうに。「よくあることだ。次の症例に移りましょう」

 

誰も、それ以上、追わなかった。

嘘だった。記録は私が書き換えていた。二分。たった二分だ。あの二分のあいだ、私は何をしていたか。手を止めて、彼女の心臓が動きださないのを、確かめていた。だが、書き換えたという事実そのものが、いつか、誰かに読まれる日が来る。

心臓が嘘をつけないように、人間もまた、完全には嘘をつききれない。数字は、嘘をつかない。嘘をつくのは、それを書き込む、私の手だ。

会が終わったあと、相馬が、私を廊下で呼び止めた。

人気のない、非常階段の踊り場だった。窓の外はもう暗かった。非常灯の緑が、彼女の白衣の裾を、薄く染めていた。

 

「先生」と彼女は言った。感情を消した、いつもの声で。「私、看護師になって、十二年になります。この手で、たくさんの患者さんを送り出してきました。助かるはずの人が、死ぬのも見ました。死ぬはずの人が、生き延びるのも見ました。神様なんて、いない。そう思ってきました」

 

彼女の声には、恨みも、怒りもなかった。長い夜勤明けのような、平らな声だった。それが、かえって、私を落ち着かなくさせた。

私は黙って聞いていた。

 

「でも」と彼女は私を見た。「最近、思うんです。この手術室には、神様のかわりに、神様のふりをしたがる人間が、いるんじゃないか、って。誰を生かして、誰を殺すか、自分で決めていい、と思い込んでいる人間が」

 

彼女の言葉は、まっすぐに、私の胸を貫いた。だが、私は表情を動かさなかった。三十年、動かしてこなかった表情を。

 

「篠田さんに、ご家族はいませんでした」相馬は続けた。「城之内さんには、娘さんがいました。誰も来ない人と、泣く人がいる人。……先生の手術は、どちらの患者さんにも、同じですか」

 

私は答えなかった。答えられなかった。

彼女は、私が自分でも見ないようにしていた場所に、指を入れてきた。裁きやすい相手を選びはじめていた、あの勘定に。

 

「気をつけたほうがいい」と私は言った。「そういう妄想は、優秀な看護師の、キャリアを台無しにする」

 

自分の声が、自分のものではないようだった。

それは脅しだった。私は、自分がそんな言葉を口にできる人間であることに、そのとき初めて、明確に気づいた。

言ってから、私は自分の言葉を検分した。脅した、と言われれば、そうだ。だが、他にどうすればよかった。

この女は、証拠のない疑いで、一人の外科医を潰そうとしている。潰れれば、私が引き受けている患者たちはどうなる。今週だけで五人いる。他の医者は、あの症例をやらない。

一人の正義感のために、五人が死ぬ。それを止めるのは、卑劣なことか。

――私は、そう考えた。そう考えられる自分を、私は当時、冷静な人間だと思っていた。

相馬は、しばらく私を見つめ、それから、静かに頭を下げて去っていった。

白衣の裾が、階段の角で消えた。上りの足音が、二階分ほど続いて、扉の音がした。それきりだった。

その背中を、私は見送った。

追いかけて、すべてを告白してしまいたい衝動を、私は必死で抑えた。踊り場の手すりを、両手で握った。冷たかった。しばらく、そうしていた。

あのとき、彼女を呼び止めていたら。何かが、変わっただろうか。

――私は、そうは思わない。あの日も、その先の日も、私は同じ選択をしただろう。

人は、自分の作った物語からは、そう簡単に、降りられない。

 

その夜、私は自宅の風呂に長く浸かっていた。湯の中で、指先だけが、いつまでも冷たかった。

目を閉じると、相馬の平らな声が聞こえた。誰も来ない人と、泣く人がいる人。先生の手術は、どちらの患者さんにも、同じですか。

同じではなかった。それだけが、はっきりしていた。

湯から上がって、鏡の前で髪を拭いた。明日は八時から一件、午後から二件。頭の中で予定を並べた。並べているあいだは、何も考えなくていい。

その週、四件。うち二件は、他院が断った症例だった。

母親が、廊下で膝をついた。あの子は、一人息子なんです、と言った。

一人息子。この人は、数えている。私は、数えない。

城は、外からはなかなか落ちない。中から開く者がいて、初めて落ちる。そのことを、そのときの私はまだ他人事のように思っていた。私の中には、その門番がずっと前から住んでいた。八歳の私だ。姉の縫い目を見て、泣いた子どもだ。

その門番が目を覚ましたのは、翌週の木曜だった。一通の紹介状が届いた日だ。

(第四章 了)

 


本作はフィクションです。登場する人物・団体・病院・地名・出来事はすべて架空であり、実在のいかなる個人・組織・医療機関とも関係ありません。


作中の手術および医療に関する描写は、物語を成立させるための演出であって、正確性を保証するものではなく、現実の医療行為とは異なります。医療上の判断は、必ず専門家にご相談ください。また本作は、ある作品への「憧れ」を主題に据えた一次創作であり、特定の作品やキャラクターを再現・引用したものではありません。


毎日、22時に投稿予定です。(全10章)

それでは、次の章で、またお会いできますように。

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