第四章 数字は嘘をつかない
心臓外科医・黒木誠、四十五歳。
彼には、開いた胸の奥から「その人の来歴」を読み取ってしまう才能があった。顔は笑える。言葉は飾れる。だが、心臓だけは嘘をつかない――。法が裁けぬ罪を、彼は手術台の上で、静かに裁いていく。生と死、家族、師弟、そして組織の闇へと沈んでいく、後味の悪い医療イヤミスです。手術・死・暴力などの描写を含みますので、苦手な方はご注意ください。どうか、最後の一行まで見届けていただけますと幸いです。
「先生」と、ある日の夕方、新村が医局で私に声をかけた。声が、いつもより硬かった。「変なことを訊いてもいいですか」
「なんだ」
「先生の執刀された症例の、術中死亡と術後早期死亡が――この一年で、七例あります」
「多いか」
「多いです。先生の手術件数と難易度を考えても、多い。しかも」新村は、手にしたタブレットに目を落とした。「亡くなった患者さんに、共通点があるように思えて」
私は、心臓の鼓動が、わずかに速くなるのを感じた。他人の心臓なら私はそれを読むが、自分の心臓を読むことはできない。私は表情を動かさなかった。「共通点とは」
「みなさん、事件の――というか、その」新村は言い淀んだ。「亡くなったあと、少し調べると、過去に、何か暗い噂のある方ばかりで。城之内さんは、昔の共同経営者の事故死で財産を得ていて。篠田さんは、ご主人の死に、当時、警察が一度事情を聞いていて」
「偶然だろう」と、私は言った。「私が引き受けるのは、他院が断った重症例だ。もともと予後の悪い患者が多い。年齢も高い。そういう人生を長く生きた人間には、叩けば埃の出る過去のひとつやふたつ、あって当たり前だ」
新村は、しばらく黙っていた。それから、思い切ったように顔を上げた。
「先生は、あの漫画を、読まれましたか」
心臓が、跳ねた。
「無免許の、外科医の話です。ぼく、子どもの頃から、あの人に憧れていて。医者を目指したのも、あの漫画がきっかけで。あの人は、悪いやつを、手術台の上で……いえ」新村は首を振った。「すみません。馬鹿げたことを。忘れてください」
私は、この青年が、私と同じ場所から来たことを知った。同じ待合室、同じ古い漫画、同じ憧れ。そして彼は、いま、私という完成形を目の前にして、恐ろしい仮説に手を触れかけている。私を告発しようとしているのではない。私を、理解しようとしているのだ。それがいっそう、私を怯えさせた。
「新村」と、私は静かに言った。「医者の仕事は、裁くことじゃない。治すことだ。数字が気になるなら、症例検討会に出せばいい。堂々と」
言いながら、私は自分の欺瞞に、吐き気がした。治すことだと? 私は、何人を治さなかった。
その会話を、相馬が、少し離れた席で聞いていた。彼女は書類に目を落としたまま、顔を上げなかった。だが、私にはわかった。あの女は、聞いていた。そして、彼女は新村とちがって、私を理解しようとはしていなかった。彼女は、私を、狩ろうとしていた。
その会話のあと、私は、医局の窓から、夜の街を見下ろした。無数の窓に、無数の明かりが灯っていた。あのひとつひとつに、人間がいる。心臓を持った人間が。そのなかに、どれほどの罪が、隠されているだろう。妻を殴る夫。子を虐げる親。金のために人を陥れる者。法が裁かない罪は、この街に満ちている。私は、それを、切除しているつもりだった。腐った細胞を、ひとつずつ。だが、外科医は知っている。癌を取り切ろうとして、健康な組織まで切りすぎれば、患者は死ぬ。私は、どこまでが癌で、どこからが健康な組織か、本当に見分けられていたのか。
いや。もっと恐ろしい問いがある。私は、そもそも、癌でないものを、癌だと思い込んで、切っていたのではないか。
数日後、術後死亡症例検討会――M&Mカンファレンスが開かれた。院内の医療の質を保つために、死亡例を全員で検証する会だ。壇上に立たされたのは、篠田の症例だった。私は淡々と経過を説明した。難治性心停止。原因不明。あらゆる蘇生を試みた。スライドには、非の打ちどころのない手術記録が映し出された。私が、書き換えた記録が。誰も、私を責めなかった。心臓外科とは、そういうものだからだ。人は、死ぬ。腕のいい外科医の手のなかでさえ、人は、死ぬ。それは、この世界の、動かしがたい前提だった。そして、その前提こそが、私の、いちばんの隠れ蓑だった。
だが、いちばん後ろの席で、相馬が手を挙げた。
「心筋保護液の、カリウム濃度の記録を、確認させていただけますか」
会場が、しんとした。
私は、彼女の目を見た。彼女も、私の目を見た。私が城之内の心臓を読んだように、彼女は、私の罪を読んでいた。
「記録は、すべて残っている」と、私は言った。声は、震えなかった。「いつでも、どうぞ」
嘘だった。記録は、私が書き換えていた。だが、書き換えたという事実そのものが、いつか誰かに読まれる日が来る。心臓が嘘をつけないように、人間もまた、完全には嘘をつききれない。
会が終わったあと、相馬が、私を、廊下で呼び止めた。人気のない、非常階段の踊り場だった。窓の外は、もう、暗かった。
「先生」と、彼女は言った。感情を消した、いつもの声で。「私、看護師になって、十二年になります。この手で、たくさんの患者さんを、送り出してきました。助かるはずの人が、死ぬのも見ました。死ぬはずの人が、生き延びるのも見ました。神様なんて、いない。そう思ってきました」
私は、黙って、聞いていた。
「でも」と、彼女は、私を見た。「最近、思うんです。この手術室には、神様のかわりに、神様のふりをしたがる人間が、いるんじゃないか、って。誰を生かして、誰を殺すか、自分で決めていい、と思い込んでいる人間が」
彼女の言葉は、まっすぐに、私の胸を、貫いた。だが、私は、表情を、動かさなかった。三十年、動かしてこなかった表情を。
「気をつけたほうがいい」と、私は言った。「そういう妄想は、優秀な看護師の、キャリアを、台無しにする」
それは、脅しだった。私は、自分が、そんな言葉を口にできる人間であることに、そのとき、初めて、明確に、気づいた。私は、正義の外科医でも、黒マントの英雄でもなかった。私は、自分の罪を暴こうとする者を、脅して黙らせる、ただの、卑劣な人殺しだった。
相馬は、しばらく、私を見つめ、それから、静かに、頭を下げて、去っていった。その背中を、私は、見送った。追いかけて、すべてを、告白してしまいたい衝動を、私は、必死で、抑えた。
私はそのことを、そのときはまだ、他人事のように思っていた。私の作り上げた嘘の城が、内側から、静かに、崩れ始めていることを。そして、その城を、いちばん最初に崩すのが、私自身の、良心という名の、いちばん厄介な内通者であることを。
本作はフィクションです。登場する人物・団体・病院・地名・出来事はすべて架空であり、実在のいかなる個人・組織・医療機関とも関係ありません。
作中の手術および医療に関する描写は、物語を成立させるための演出であって、正確性を保証するものではなく、現実の医療行為とは異なります。医療上の判断は、必ず専門家にご相談ください。また本作は、ある作品への「憧れ」を主題に据えた一次創作であり、特定の作品やキャラクターを再現・引用したものではありません。
毎日、22時に投稿予定です。(全10章)
それでは、次の章で、またお会いできますように。




