第三章 第一の心臓
心臓外科医・黒木誠、四十五歳。
彼には、開いた胸の奥から「その人の来歴」を読み取ってしまう才能があった。顔は笑える。言葉は飾れる。だが、心臓だけは嘘をつかない――。法が裁けぬ罪を、彼は手術台の上で、静かに裁いていく。生と死、家族、師弟、そして組織の闇へと沈んでいく、後味の悪い医療イヤミスです。手術・死・暴力などの描写を含みますので、苦手な方はご注意ください。どうか、最後の一行まで見届けていただけますと幸いです。
城之内が死んで三週間後、彼が海に落とした相手のことを、私は調べた。
手術で人を裁く以上、確証がほしかったからではない。確証など、私は最初から必要としていなかった。ただ、答え合わせがしたかった。私の読みが正しかった、という答え合わせが。
図書館の地下は、紙とほこりの匂いがした。縮刷版の背表紙が、天井まで並んでいる。四十年前の夏の巻を抜き、机に広げた。指先が、すぐに黒くなった。
城之内が二十八歳だった年。彼が経営を始めたばかりの、小さな運送会社。その共同経営者だった男が、釣り船から転落して死んでいた。事故として処理されていた。保険金は城之内に入った。会社は城之内のものになった。そこから、彼の資産は雪だるまのように膨れ上がった。
ほら。やはり。
私は自分の指を信じてよかったと思った。あの心膜の癒着。あの肋骨の骨折。すべては、あの夜の海で刻まれたものだった。城之内は、しがみついてくる男を突き落とし、その拍子に胸を強く打った。四十年、彼はそれを隠して生きた。善人の仮面をかぶり、小児病棟に寄付をして。
だが、心臓は覚えていた。そして私が、それを読んだ。
閲覧室を出るとき、私は、その記事をもう一度読み返した。死んだ男の名の下に、遺族の言葉が一行だけ載っていた。信じられません、と。
四十年経って、その一行を読んでいるのは、この世で私一人だろう。私は、勝手に、その遺族の代理人になった気でいた。頼まれてもいないのに。
縮刷版を棚に戻すとき、司書と目が合った。閉館の時間だった。
「調べもの、お済みですか」
「ええ」
司書は、私の手元の巻の背を見て、その隣に手を伸ばしかけた。続きの年の巻だ。同じ事件を追うなら、そちらも要るでしょう、という顔だった。
「いえ。もう、結構です」
私はそう言った。済んだ。答え合わせは、済んだ。
外に出ると、日が落ちていた。私は、その足で病院に戻り、翌日の術式を確認した。人を一人裁いた翌月にも、私には手術がある。それがこの職業のいいところだった。考える時間を、与えてくれない。
私は自分を、汚れ仕事を引き受ける掃除人だと思っていた。法が裁けない者を、私が裁く。あの男が、腐った権力者を手術台の上で見据えたように。私は正義の側にいる、と信じて疑わなかった。
だが、ここで正直に書いておかねばならない。なぜ私は、確証もないのに他人を「犯人」だと確信できたのか。
心臓を読む、と私は言った。心膜の癒着、肋骨の骨折、心筋の傷み。それらは確かに体の中の事実だ。だが、そこから「この男は人を殺した」という物語を紡いだのは心臓ではない。私の頭だった。私の中の何かが、他人の体に罪の物語を読み込ませていた。あの頃の私は、その問いを決して自分に向けなかった。答えを恐れていたからだ。
私は、他人の胸を開くたびに、そこに自分が探しているものの形をした影を置いてきた。影の主が誰なのかを確かめないまま。私がどこの誰の罪を他人の胸の中に探し続けていたのかを、いまなら言える。
その頃、私はもうひとり、読んでしまった患者を抱えていた。
篠田という、五十四歳の女だった。僧帽弁閉鎖不全症。弁の形成術の適応だった。彼女の心臓には、長い年月をかけて負担をかけ続けた者に特有の、ある変化があった。慢性的なストレス。持続する頻脈の痕跡。
そして――これは私の直感だったが――彼女の目の奥にある、あの、獲物を見るような光。
篠田は、夫を亡くしていた。三年前、長い闘病の末に。彼女は献身的に夫を看取ったと、近所では評判だった。
だが私は、彼女が夫のことを話すときの、あの奇妙な高揚を見た。愛する者を失った人間の顔ではなかった。役目を終えた人間の、満足した顔だった。
この女は、夫を病気にしたのだ、と私は思った。じわじわと、何かを盛って。心臓を弱らせ、腎臓を痛めつけ、そして最後には、看病する自分に酔いながら、殺したのだ、と。
根拠らしきものは、あった。私は、亡くなった夫の診療情報を、伝手を頼って取り寄せていた。ある病院で改善した数値が、家に戻ると、また悪化する。入退院のたびに、その波が繰り返されている。担当医は、原因不明の増悪、と書いていた。
もっとも、私が頼んだのは、数値の推移だけだった。病名の欄は、開かなかった。開く必要が、なかったからだ。もう、物語のほうが、先にできていた。
波は、家にいるあいだにだけ、来ていた。
それだけだ。それだけのことに、私は、一つの物語を与えた。人が人を疑うのに、必要な材料は、驚くほど少ない。
術前回診で、彼女は私に、亡き夫の話を長々と語った。
「先生。うちの人はね、最後の一年は、もう、私がいないと、水も飲めなかったんですよ」
彼女は両手を膝の上で組んでいた。爪は、きれいに切りそろえられていた。
「夜中に三度、起きて。体の向きを変えて。おむつも、全部、私が。……お医者さんより、私のほうが、あの人の体をわかってました。ええ、本当に」
「ご立派なことです」と私は言った。
「先生も、大変でしょう。人の命を預かるお仕事は」
「ええ」
「私、わかるんです。あの人を看ていたときが、いちばん、生きてる気がしましたから」
「みなさん、そう言ってくださいます。よく頑張ったねって。……あの人が逝ったとき、私、火が消えたみたいで」
そう言いながら、彼女の口の端は、わずかに、上がっていた。
私はその顔を見ていた。彼女は夫の死を悲しんではいなかった。夫の死を通して得た、周囲からの同情と称賛を、いまも、味わい直していた。
そう、私には見えた。
* * *
いま、これを書いていて、私は、自分の指が震えるのを感じる。
なぜなら、その「役目を終えた満足」の顔を、私は、他のどこかで見たことがあったからだ。ずっと昔に。姉の葬儀で、憔悴しきったふりをしながら、参列者の同情を一身に浴びていた、ひとりの女の顔に。
だが、あの頃の私は、その符合に気づかなかった。気づくことを、拒んでいた。
証拠はなかった。だが、私に証拠は要らない。私は心臓を読む。心臓は嘘をつかない――そう、私は自分に言い聞かせた。
嘘をついていたのは、心臓ではなく、私自身だったのに。
篠田の手術は、午前八時半に始まった。
開胸。人工心肺。大動脈遮断。心臓を止め、その内側を直し、また動かす。手順のどこにも、変わったところはない。器械出しは、あの相馬だった。麻酔科には、田代という中堅の医師がついた。
心臓を止めているあいだ、外科医は時計を見ない。
見なくても、わかるからである。三十分と四十分は、体で違う。四十分を過ぎると、部屋の空気が変わる。誰も何も言わないのに、変わる。
止めている時間には限度がある。長く止めれば、そのぶん戻りが悪くなる。戻りが悪ければ、離脱できない。
限度が何分かは、患者ごとに違う。若い心臓は長く耐え、老いた心臓は短い。前に一度開けている心臓は、もっと短い。
私は、その限度を三十年、数字ではなく体で持ってきた。
持っているというのは、急がなくてよくなるという意味である。急ぐ外科医は、限度を知らない外科医だ。
相馬は、いつもより一歩、私の近くに立っていた。気のせいかもしれない。だが、彼女の視線は、術野ではなく、私の手首の角度を追っていた。城之内のときの、あの止まった手を、私はまだ覚えていた。
僧帽弁の形成そのものは、うまくいった。逆流は、ほぼ消えた。私の手は、いつもどおり正確だった。
問題はその後だ。
止めた心臓を、また動かす。その工程で、私は、いつもと違う判断を一つだけ挟んだ。何を、どう変えたのか。ここには書かない。書けば、それは処方箋になる。私はただ、こう記す。私は、自分の手のうちにある選択肢の中から、彼女にとっていちばん不利なものを選んだ。それだけだ。
――卑怯だと、私は思う。だから、書かない。
遮断を解除した。血流が戻る。ふつうなら、数十秒で、心臓は震えながら拍動を取り戻す。
篠田の心臓は、動きださなかった。
細かく震えるばかりで、リズムを刻まない。私はマッサージを始めた。両手で、その袋を包み、押す。押す。押す。電気ショック。もう一度。昇圧剤。もう一度。
手術室の空気が、変わった。誰かが、時計を見た。誰かが、器械を落とした。相馬が、無言で、それを拾った。
三時間、私は「闘った」。額の汗を、看護師が拭った。私の指は、本気で疲れていた。この手は、本気で、彼女を生き返らせようとしていた。おかしな話だ。殺そうと決めたのも、この手なのに。
午後二時十一分。私は手を止めた。
「……終わりにします」
自分の声が、思ったより、しっかりしているのが不快だった。
誰も、何も言わなかった。全員が、私の献身を見ていた。手術室の全員が、目を伏せた。
ひとりだけ、目を伏せなかった者がいた。
麻酔科の、田代だった。彼は、心停止のあとに出た検査値の並びを、じっと見ていた。それから、私を見た。
説明のつかない数字が、そこにあったのだと思う。彼の目が、それを言っていた。
「先生」と、田代は言いかけた。「この値、ちょっと……」
そこで、彼の言葉は止まった。手術室には、まだ看護師も技士もいた。誰かが、器械を洗う水の音を立てていた。
私は視線を逸らさなかった。
田代の目の中で、疑いと、面倒ごとを避けたいという気持ちが、天秤にかけられるのを、私は見ていた。長い数秒だった。私は、その天秤を、じっと眺めていた。傾くのを待つ狩人のように。
やがて田代は、目を伏せ、記録用紙に何かを書き込んだ。
「心筋保護からの離脱不良」。
その、当たり障りのない一行を。
彼は何も言わなかった。心臓外科の死は、いつものことだった。そして私は、この病院でいちばん多くの命を救う男だった。誰が、そんな男を疑いたがるだろう。
田代は、疑わないことを選んだ。
あとで、私は、彼が悪い医者だとは思わなかった。ただ、賢い医者だった。この組織で長く生きるには、見て見ぬふりのできる目が、いる。私はその目に守られていた。
更衣室で、田代と、もう一度だけ、目が合った。彼は、少しだけ笑って、言った。
「……先生も、たまには、休んでくださいよ」
いい人間だった。だから、彼は、何も見なかったことにしたのだ。優しさは、ときどき、共犯とよく似た顔をしている。
篠田の遺族は、来なかった。
子どもはなく、夫はすでにない。手続きに現れたのは、遠縁だという初老の男が一人きりで、彼は面倒そうに書類にサインをして帰っていった。
誰も泣かなかった。
霊安室で、私は一人、その顔を見た。化粧を落とされた五十四歳の顔は、ただ疲れて見えた。獲物を見るような光は、もうどこにもなかった。あるはずのものが消えているだけなのに、私は何かを取り逃したような気がした。
その日の午後、私はもう一件、手術に入った。
六十二歳の男だった。三本の冠動脈がすべて詰まりかけていて、他院では手が出せないと言われていた。左の一本は、血管の壁が石灰化して、石のように硬い。それでも、つないだ。四本つないだ。
術後、その男の心臓は、二十年ぶりにまともな血を受け取った。モニターの波形が、みるみる整っていくのを、私は見ていた。
* * *
三日後、病室を覗くと、その男は座って新聞を読んでいた。先生、息が楽です、と彼は言った。何十年ぶりだろう、こんなに楽なのは。
私は、朝に一人を裁き、午後に一人を助けた。同じ手で、同じ日に。
この二つは、私の中で矛盾しない。むしろ、同じことだと思っている。
夫を三年かけて弱らせた女が、この世からいなくなった。二十年苦しんできた男が、息が楽になったと言って笑った。差し引きで、この世は少しましになった。
誰かがやらなければ、どちらも起きなかった。前者は法が裁かないから。後者は他の医者が引き受けないから。
私は、その両方をやる。それだけのことだ。
私は、そのことに、少しだけ安堵した。安堵した自分に、気づいた。
城之内のときは、娘が泣いた。今度は、誰も泣かない。裁くのに都合のいい人間と、悪い人間がいる。私は、その差を、勘定に入れはじめていた。
それがどういうことか。あの頃の私は、まだ、わかっていなかった。人を裁く者が、裁きやすさで相手を選びはじめたら、それはもう、正義ではない。ただの、狩りだ。
* * *
その夜、私はめずらしく酒を飲んだ。台所の灯りだけをつけて、グラスに氷を入れた。溶ける音がした。
テレビでは、どこかの国の戦争が報じられていた。何百人が死んだ、という数字が、女性の声で読み上げられていく。数字は、涙を流さない。私は、篠田という一人の女を、その数字と同じように扱いはじめていた。
その夜も、私はよく眠れた。眠れたのだ、あの頃は。
その頃、私のそばに、ひとり若い医者がいた。
新村という研修医だ。二十七歳。
この青年について、最初に気づいたのは、時間の測り方だった。手術中、彼はときどき壁の時計を見る。緊張して時間を気にしているのだろうと、はじめは思った。ちがった。あとで手術記録を見ると、彼の書いた所要時間が、公式の記録より正確なのだ。何分何秒、と秒まで書いてある。誰も求めていないのに。
一度、なぜそこまで測るのかと訊いた。彼は少し考えてから、こう答えた。
「測っておくと、次に同じ場面が来たときに、あとどれくらいかがわかりますから」
あとどれくらいか。何の話をしているのか、そのときの私にはわからなかった。
彼は私に憧れていた。回診のあと、いつも私を追いかけてきて、質問を浴びせた。
「先生はどうして、他の先生が無理だと言う患者さんを引き受けるんですか」
「誰かがやらなければ、その患者は死ぬからだ」と、私は答えた。半分は本当だった。
「ぼく、先生みたいな外科医になりたいんです」と、新村は言った。目を輝かせて。「技術だけじゃなくて――なんていうか、覚悟のある医者に」
覚悟。私はその言葉を胸の内で転がした。
この青年は、覚悟という言葉を、まだ美しいものだと思っている。人を救う覚悟と、人を裁く覚悟は、外科医の中では、しばしば、同じ一本の刃の、表と裏なのだ。
もっとも、この青年が本当に理想に燃えているのかどうか、私にはよくわからなかった。憧れていると口では言う。目も輝かせる。だが、患者が亡くなったあとの彼を、私は何度か見ている。泣きもしないし、落ち込みもしない。ただ、記録を見返している。若い医者は、たいてい最初の一人でひどく参るものだ。この青年は、参らなかった。
新村の白衣のポケットには、いつも文庫本が入っていた。角が丸くなるほど読み込まれた、古い一冊だ。表紙は見えなかったが、私は知っていた。あの漫画だ。黒マントの、無免許の医者の。
彼もまた、あの男に憧れていた。私は、若い頃の自分を見るような気がして、彼を疎ましく思い、同時に、どうしようもなく愛おしく思った。
あるとき、新村が言った。
「先生。あの漫画の先生は、人を助けるために、法を破りますよね。……先生なら、どうしますか。法と、目の前の患者と、どっちを取ります」
私は答えなかった。答える資格が、私にはなかった。
私が破ったのは、患者を助けるための法ではない。患者を殺すための法だ。同じ黒マントの男に憧れて、私たちは、まるでちがう場所に立っている。彼は、まだ、それを知らない。
新村が、私の手術記録を見返し始めたのは、その少しあとだった。
きっかけは、たぶん、あの日の三時間だ。あれほど懸命に闘って、それでも救えなかった手術。若い彼は、そこから何かを学ぼうとして、記録を開いたのだろう。憧れた男の技術を、一手ずつ辿るために。
純粋な動機というのは、ときどき、いちばん危険な場所へ人を連れていく。
* * *
三日後、廊下ですれ違ったとき、彼はこう言った。
「先生。篠田さんの記録、拝見しました。……離脱のところ、少しだけ、時間がかかってますね」
私は、そうか、とだけ答えた。
この青年は、記録の中の数分を読んでいる。私が何をしたかではなく、時間の長さを見ている。それが、いちばん危ない読み方だということに、彼はまだ気づいていない。
その夜、私は、この二か月で自分がしなかったことを、二つ数えた。
図書館で、続きの年の巻を開かなかった。
篠田の夫の、病名の欄を開かなかった。
どちらも、開けば十秒で済んだ。
開かなかったのは、面倒だったからではない。物語のほうが、先にできていたからだ。
できあがった物語に、頁を足すと、崩れることがある。
その日、私は、朝に一人を裁き、午後に一人を助けた。同じ手で、同じ日に。
一と、一である。
――いや。数えるのは、やめだ。
(第三章 了)
本作はフィクションです。登場する人物・団体・病院・地名・出来事はすべて架空であり、実在のいかなる個人・組織・医療機関とも関係ありません。
作中の手術および医療に関する描写は、物語を成立させるための演出であって、正確性を保証するものではなく、現実の医療行為とは異なります。医療上の判断は、必ず専門家にご相談ください。また本作は、ある作品への「憧れ」を主題に据えた一次創作であり、特定の作品やキャラクターを再現・引用したものではありません。
毎日、22時に投稿予定です。(全10章)
それでは、次の章で、またお会いできますように。




