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第二章 神様のいない手術室

心臓外科医・黒木誠、四十五歳。


彼には、開いた胸の奥から「その人の来歴」を読み取ってしまう才能があった。顔は笑える。言葉は飾れる。だが、心臓だけは嘘をつかない――。法が裁けぬ罪を、彼は手術台の上で、静かに裁いていく。生と死、家族、師弟、そして組織の闇へと沈んでいく、後味の悪い医療イヤミスです。手術・死・暴力などの描写を含みますので、苦手な方はご注意ください。どうか、最後の一行まで見届けていただけますと幸いです。


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城之内の娘が置いていった菓子折りが、まだ医局の棚にある。

誰も手をつけない。私が受け取ったものだと、みんな知っているからだ。若い医者が一度、開けようとして、やめた。先生のですよね、と言って。私は、どうぞ、と言えなかった。

 

あれから三週間、私は、その箱の前を、日に何度も通る。通るたびに、あの女の、深く下げた頭を思い出す。父のために、最後まで、ありがとうございました。

こういうものを、どこへ置けばいいのか。私はいまだに知らない。

三十七年前、私の家にも同じような箱が届いた。姉の葬儀のあとだ。近所の人が次々に持ってきて、母はそのすべてに礼を言い、丁寧に頭を下げた。かわいそうに、と誰もが言った。あの人は、その言葉を一つ残らず受け取っていた。

私に姉がいたことを、いまの職場で知る者はいない。香織という名だった。私より四つ上。色が白く、笑うと右の頬にだけえくぼができた。両親が共働きで留守がちだった我が家で、幼い私を育てたのは半分は姉だったと言っていい。

私の記憶のいちばん古い層には、いつも姉の細い手がある。熱を出した私の額に置かれた手。折れた鉛筆を、根気よく削ってくれた手。遠い水の底で揺れる光のように、いまも、ゆらめいている。

姉は生まれつき心臓が悪かった。よく胸を押さえて座り込み、唇を薄い紫色に染めた。近所の総合病院に、月に何度も通っていた。私は、することもないまま姉についていっては、待合室の隅で、備え付けの古い漫画を、時間を忘れてめくっていた。

消毒液の匂い。ビニール張りの長椅子の、破れ目から覗く黄色いスポンジ。名前を呼ぶ看護師の声。あの待合室のすべてを、私はいまも、順番に思い出せる。姉が診察室に消えているあいだ、私は本の中にいた。そこだけが、病院ではない場所だった。

そこに、あの漫画があった。

全身傷だらけの、片方だけ白髪の外科医。黒いマントを羽織り、法外な金を要求し、世間からは悪徳医師と罵られる男。けれど彼のもとには、あらゆる医者に見放された患者が、最後の望みを託してやってくる。彼は誰の許可も求めなかった。医師免許すら拒んだ。ただ、自分の手を信じていた。

私はその男に恋をした。八歳だった。

姉の診察は、長かった。三十分のこともあれば、二時間のこともあった。私は、その間ずっと、その男の物語の中にいた。呼ばれて顔を上げると、そこは、いつも同じ待合室だった。

いま思えば、私はあの漫画のなかに、ひとつの秩序を見ていた。現実の世界は理不尽だった。優しい姉が病気で苦しみ、悪い人間がのうのうと生きていた。だが、あの漫画のなかでは、腐った権力者は手術台の上で己の罪と向き合い、無力な弱者は救われた。ひとりの医者が、たったひとりで、世界の帳尻を合わせようとしていた。神がやらないなら、俺がやる、と。

八歳の私にとって、それは福音だった。世界には、まだ、正しさというものがあり得るのだ、という。

母は、私が漫画を読んでいると、いつも優しく笑った。

 

「誠は、お医者さんになりたいの?」

 

私がうなずくと、母は私の頭を撫でた。

 

「そう。香織を助けてあげてね」

 

母の手は、温かかった。世界でいちばん優しい手だと、私は思っていた。

ときどき、母は私に、姉の薬を運ばせた。台所で、白い粉薬をオブラートに包み、それを私の手のひらに載せる。

 

「香織にこれを持っていって、誠。お姉ちゃん思いの、いい子ね」

 

私は、それを両手で持って、廊下を歩いた。落とさないように、走らずに。姉は笑って受け取った。ありがとう、誠。

あの数歩を、私は、いまでもはっきり覚えている。廊下の板の冷たさも、包みの軽さも。人の役に立った、と思えた、生まれて初めての瞬間だった。

姉は、飲んだあと、少し休むと言って横になることが多かった。私は、その枕元で、また漫画を開いた。姉の呼吸が、だんだん深くなっていくのを、隣で聞きながら。

その手が、何をしていたのかを、私はまだ知らなかった。

いま思い返せば、兆しはいくつもあった。姉の薬を、母はいつも自分の手で、台所で仕分けていた。看護師が説明する声を、母は熱心に、メモを取りながら聞いていた。近所の人が来ると、母は決まって、姉の話をした。かわいそうに、あの子は生まれつき体が弱くて、と。そう言うときの母の顔が、ほんの少しだけ、明るかったことを――私は覚えている。覚えていて、三十年、それを何でもない記憶の棚に、伏せて置いてきた。

姉が死んだあと、母は、しばらく人が変わったように痩せた。だが半年ほどで、また近所の人と立ち話をするようになった。そのころには、話の中の姉は、少しずつ、美しい思い出に整えられていた。

姉が十二歳の秋、大きな手術をすることになった。心臓の中を直す手術だと、母は言った。難しいけれど、この先生なら大丈夫だと。執刀するのは、桐生という外科医だった。若くして名を上げた人で、その道では高名だと、母は言った。

手術の前の晩、私は姉のベッドの脇で、あの漫画の話をした。無免許の医者が、どんな難病でも治してしまう話を。

姉は笑って、「その先生に、私も診てほしいな」と言った。それから、少し考えてから、こう続けた。

 

「でも、誠がお医者さんになってくれたら、それでいい」

 

病室の窓の外で、街灯がひとつ、点いた。姉の手は、私の手より冷たかった。それが姉の手にふれた最後だった。

 

翌日、姉は手術室に入り、二度と出てこなかった。

朝、ストレッチャーで運ばれていく姉に、私は手を振った。姉も、点滴のついた手を、少しだけ上げた。扉が閉まった。それから、待った。母が売店で買ってきたパンを、私は食べなかった。廊下の時計の、秒針の音だけが進んだ。九時間だった。あとになって、そう知った。子どもの体感では、季節が一つ変わるほどの長さだった。

手術室の扉が開いたとき、出てきたのは、桐生一人だった。マスクを下げたその顔を見た瞬間に、母が立ち上がり、そして、座り込んだ。

手術は失敗した、と後で聞いた。開けてみたら、心臓は検査で見えていたよりも、ずっと傷んでいた、と。誰も予想できなかった、不運な結果だった、と。

桐生は遺族に向かって深く頭を下げた。母はその場で泣き崩れた。父は無言だった。

私は――私は、桐生の白衣の袖を掴んで、なぜ助けなかったのかと叫んだ。あの漫画の医者なら助けたのに、と。

桐生は、私を見下ろして、ひどく疲れた顔で言った。

 

「あれは、漫画だよ」

 

その一言を、私は三十年以上、忘れたことがない。

いまなら、あの男の疲れの意味がわかる。あれは、言い訳ではなかった。夢を壊してでも、八歳の子どもに現実を渡すしかない、という顔だった。だが当時の私には、それは、姉を諦めた男の言葉にしか聞こえなかった。

姉の亡骸は、驚くほど、小さく見えた。

手術のために剃られた胸に、閉じられたばかりの、赤い縫合の痕があった。桐生が必死で閉じた痕だった。

私はその縫い目を覚えている。丁寧な、几帳面な、祈るような縫い目だった。等間隔に並んだ糸が、白い皮膚の上で、小さな梯子のように見えた。

いまの私になら、わかる。あれは、助けようとして助けられなかった外科医の、慟哭のような縫い目だった。だが、八歳の私には、それはただ、姉を殺した男が残した、醜い傷にしか見えなかった。

私はいまでも、手術の最後に皮膚を閉じるとき、あの梯子を思い出す。私の縫い目は、桐生のそれより速く、正確だ。だが、祈ってはいない。

――君は、どちらの縫い目に、自分の胸を預けたい。

姉の言葉を、私は遺言のように胸に刻んだ。姉のために、医者になろう、と。姉のような人を、二度と死なせない医者に。

だが、結果として、私がなったのは、どういう医者だったか。

姉のような無実の人間を、手術台の上で、二人も殺す医者だった。私は、姉の遺言を、これ以上ないほど裏切った。姉のためにと誓った、まさにその誓いによって。

あれは漫画だ。現実には、神様のいない手術室で、人はあっけなく死ぬ。腕のいい医者にかかっても死ぬ。金を積んでも死ぬ。善良でも死ぬ。姉のように、優しい人間から先に死ぬ。

だから私は決めた。もし現実に神がいないなら、私が神になろう、と。あの黒マントの男のように。誰の許可も求めず、自分の掟で、腐った世界に手を入れよう、と。

私は勉強した。狂ったように勉強した。高校の三年間、姉の写真は机に伏せて置いた。見れば手が止まるからだ。朝は五時に起き、夜は電気を消してから暗記した項目を頭の中で読み上げた。友人はできなかった。作る時間が惜しかったのではなく、作る意味がわからなかった。国立大学の医学部に入り、外科を選び、心臓を選んだ。人体でいちばん傲慢な臓器を、私は選んだ。

――先生、これ、承認お願いします。

医局の事務が書類を置いていった。手術の同意書だ。私は日付を確認し、署名して、判を押した。この動作を、一日に何度もやる。二十年やっている。

研修医のころ、初めて自分の手で心臓に触れた日のことを、覚えている。温かかった。人間の中で、いちばん働いている場所の温度だった。指の下で、それは勝手に動き、私を無視して、生きようとしていた。

あのとき私は思った。この臓器は、持ち主の許可を取らずに動いている。だから、正直なのだ、と。

指導医たちは、私を「冷たい」と評した。患者に感情移入しない、と。

ちがう。私は感情移入をしないのではない。私は患者を見ていないのだ。私が見ているのは、心臓だ。その袋に刻まれた、その人間の来歴だ。

帝都大学附属病院に移って、十年になる。私の手術成績は、病院でも群を抜いている。他の医者が匙を投げた症例を、私は引き受ける。そして、多くを救う。

今週も三件あった。八十四歳の弁膜症。五十代の解離。そして、生後八か月の子どもだ。

最後の一件が、いちばん長かった。心臓が、私の親指ほどしかない。血管は、糸のようだ。九時間かかって、その子は生きた。手術室を出たとき、両親が廊下で立っていた。母親は、何も言えずに、ただ頭を下げ続けていた。

あの子は、いま、家にいる。来月、外来に来る。

私が救った人間の数を、私は数えたことがない。数えれば、勘定になるからだ。勘定が始まれば、引き算も始まる。

病院の中で、私がどう見られているかは知っている。

愛想がない。無駄口を叩かない。患者に必要以上のことを言わない。若い医者には厳しい。だが、腕は確かだ。他がやらない症例をやる。逃げない。

外科部長は、私のことを「うちの守護神」と呼ぶ。冗談めかしているが、半分は本気だ。断られた患者が最後に来る場所として、この病院の名前が知られているのは、私がいるからだと、あの人は思っている。

その評価は、正しい。私は逃げない。腕も落ちていない。

誰も、私が何をしているかを知らない。知る必要が、どこにもないからだ。

だが、ときどき――ごくまれに――救わないことがある。読んでしまった相手を。心臓に、消せない罪を刻んだ相手を。

手術室では、器械出しの看護師の手つきひとつで、その人間の技量がわかる。

相馬という看護師がいた。三十六歳。痩せた、目つきの鋭い女だ。彼女は優秀だった。優秀すぎた。私がメスを出す前に、私が次に何を求めるかを、彼女は読んだ。私が人の心臓を読むように、彼女は、私の手を読んだ。

彼女は感情を表に出さない女だった。手術室では無駄口を叩かず、休憩室では誰とも群れなかった。だが、患者に対しては、奇妙なほど誠実だった。

術後、意識の戻らない患者の手を、勤務時間を過ぎても握っていることがあった。私は一度、なぜそんなことをするのかと訊いた。彼女は少し考えてから答えた。

 

「この人が、最後に握った手が、事務的な手じゃなかったって、思いたいから」

 

私は、その言葉の意味が、当時はわからなかった。いまなら、わかる。彼女は、命の重さを、私とはまったくちがう仕方で知っていたのだ。

城之内の手術のあと、器械台を片づける相馬の手が、一度だけ止まった。彼女は何も言わなかった。私も訊かなかった。訊けば、そこに何かがあると認めることになる。

私たちは、その日から、互いの沈黙を数えはじめた。

それから、私は、彼女の器械出しの日を、数えるようになった。同じ手術室で、同じ患者を、同じ時間だけ見ている人間が、一人いる。それが、どういうことなのかを、私は、その頃はまだ、はっきりとは考えなかった。

あの沈黙の中に、もう一人、若い男がいたことを、そのときの私はまだ数えていなかった。

君のことだよ、新村くん。

その新村が、私の手術記録を借りていったのは、その週のことだった。勉強のためです、と彼は言った。私は貸した。断る理由がなかったからだ。

(第二章 了)


本作はフィクションです。登場する人物・団体・病院・地名・出来事はすべて架空であり、実在のいかなる個人・組織・医療機関とも関係ありません。


作中の手術および医療に関する描写は、物語を成立させるための演出であって、正確性を保証するものではなく、現実の医療行為とは異なります。医療上の判断は、必ず専門家にご相談ください。また本作は、ある作品への「憧れ」を主題に据えた一次創作であり、特定の作品やキャラクターを再現・引用したものではありません。


毎日、22時に投稿予定です。(全10章)

それでは、次の章で、またお会いできますように。

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