第十章 新しい心臓(最終回)
心臓外科医・黒木誠、四十五歳。
彼には、開いた胸の奥から「その人の来歴」を読み取ってしまう才能があった。顔は笑える。言葉は飾れる。だが、心臓だけは嘘をつかない――。法が裁けぬ罪を、彼は手術台の上で、静かに裁いていく。生と死、家族、師弟、そして組織の闇へと沈んでいく、後味の悪い医療イヤミスです。手術・死・暴力などの描写を含みますので、苦手な方はご注意ください。どうか、最後の一行まで見届けていただけますと幸いです。
手術室の、無影灯の下。
麻酔で眠りに落ちる直前、相馬は、担当の看護師に、小さな声で、頼みごとをしたという。左手の薬指の、細い銀の指輪を、外して、失くさないように預かってほしい、と。それから、私物の入った袋の、いちばん上に、読みかけの文庫本が入っているから、目が覚めたら、すぐ手の届くところに置いておいてほしい、と。しおりの挟まったページから、続きを、読みたいから、と。彼女は、目が覚めることを、疑っていなかった。手術のあと、また、続きを読むつもりでいた。ありふれた、明日を、信じていた。
その話を、私は、麻酔科医から、手術の直前に、聞いた。聞かなければ、よかった。
相馬が、眠っている。麻酔で。かつて、私を狩ろうとし、私を救おうとし、そして、私を諦めなかった女が。彼女の胸の中では、心臓が、休むことなく、拍動を続けている。あの、正直な袋が。――かつて私は、心臓を、下卑た袋と呼んだ。愛も勇気も宿らない、ただのポンプだと。だが、いまの私には、もう、そう呼ぶことができない。ひとりの人間が生きてきたすべてを、そこに刻みつけて、それでも、恨みごとひとつ言わずに動き続けるものを、私は、下卑たなどと、いつからか、呼べなくなっていた。
私は、メスを、手に取った。
いつもの、使い慣れた一本だった。何千回、握ってきたか、わからない。それが、その朝にかぎって、妙に、重かった。柄が、手のひらに、貼りつくようだった。私は、乾いた唾を、飲み込んだ。喉が、鳴った。指の先が、ほんのわずかに、震えているのを、私は、見た。桐生の心臓を前にして震えて以来、二度と震えるまいと誓ったこの手が、いま、たった一本のメスを、若い男に手渡すことを、拒もうとしていた。
私は、その震えを、意志の力で、抑えつけた。
そして、新村に、差し出した。
「執刀してみるか」と、私は言った。声が、震えなかったかどうか、自信がない。
新村の目が、輝いた。歓喜と、畏怖と、そして、何か、もっと暗いもので。彼は、うやうやしく、メスを受け取った。まるで、聖なる遺物を受け取るように。あるいは、王位を継ぐように。
「胸骨正中切開から、始めなさい」と、私は言った。「そして――君の指で、彼女の心臓を、読みなさい。そこに、何が刻まれているかを」
「はい、先生」と、新村は言った。
私は、そのとき、彼の目を、じっと見た。この青年は、私が、いま、何をしようとしているのかを、知っているのだろうか。この患者が、かつて私を告発しようとした女であることを。この手術が、口封じであることを。それを知った上で、彼は、メスを、握ろうとしているのだろうか。
わからなかった。だが――ひとつだけ、確かなことがあった。私は、この期に及んでも、自分の手で相馬を殺す勇気は、なかった。桐生を救ったこの手で、彼女を殺すことは、できなかった。そして同時に、彼女を救って、組織に逆らう勇気も、なかった。だから私は、いちばん卑劣な道を選んだ。この手術を、新村に、委ねる、という道を。私が手を下すのではない。若い彼が、するのだ。私は、ただ、見ているだけだ。私は、汚れていない。――そう、思い込もうとした。母が、私に毒を運ばせて、自分の手は汚さなかったように。
私は、母だった。最後まで、母だった。
いや――もしかしたら、母ですら、なかったのかもしれない。
その朝、手術室に入る前、私は、一枚の書類を、目にしていた。事務方が手違いで、別の書類のあいだに、挟み込んでしまったものだった。それは、まだ行われてもいないこの手術の、術後死亡症例検討会の記録の、下書きだった。日付の欄と、転帰の欄だけが、空白だった。だが、執刀医の欄には、すでに、新村の名が、記されていた。私が、彼にメスを渡すと、決めるよりも、前から。そして、検討結果の欄には、こう、あった。「将来性のある、有望な若手である。特記事項なし」と。
結果は、まだ、出ていなかった。相馬は、まだ、生きていた。それでも、物語は、もう、書き終えられていた。誰が執刀し、患者がどうなり、それがどう記録されるか。私が迷おうと、震えようと、この手術室で何を選ぼうと、結末は、あらかじめ、用意されていた。私は、自分を、この悲劇の作者だと思っていた。姉のときの母のように、糸を引く者だと。だが、ちがった。私もまた、とうに書かれた台本の上を、なぞらされているだけの、ひとりの、登場人物にすぎなかった。この、白い建物という作者に。
電気鋸が、回りだす。かつて私は、その音を、鍵のかかった扉をこじ開ける音だと思っていた。人間がいちばん隠しておきたい、罪の部屋を、暴く音だと。研修医が、ピザを切り分ける刃のようだと言ったとき、私は、そんなふうに聞こえたことは一度もない、と思った。だが――いまは、ちがって聞こえる。あれは、何ひとつ暴きはしない。ただ、生きた人間の体を、こじ開けていくだけの、無意味な、機械の音だった。骨を裂く、それだけの音だった。三十七年かけて、私が、ようやく聞き取れるようになった、その音の、本当の正体だった。
私は、それを、見ている。私が育てた、若い神が、いま、初めての裁きに、手を触れようとするのを。私が、かつて、母から白い包みを受け取ったように。桐生が、姉の心臓を開いたように。相馬が、私のログを読んだように。そして、いま、新村が、相馬の胸を開こうとしている。
連鎖は、途切れない。
私は、姉を殺した母を憎み、母になった。私を守った桐生を憎み、桐生を看取った。私を裁こうとした相馬を、いま、手術台に乗せている。そして、私に憧れた新村は、私を継ぎ、いつか、私を、この台に乗せるだろう。
あれは、漫画だった。無免許の医者が、腐った世界を、たったひとりで、切除していく。あんなものは、どこにもない。現実にあるのは、神のいない手術室と、嘘をつけない心臓と、その心臓に、勝手な物語を読み込んでは、命を弄ぶ、傲慢な人間たちだけだ。
あの黒マントの男は、自分の掟に従った。だが、彼の掟は、彼を、けっして、無実の人間を殺す方へは連れていかなかった。彼には、私にはなかったものがあった。それが何であったかを、私は、いまも、うまく言葉にできない。良心、と呼ぶのは、たやすい。だが、たぶん、それは、もっと単純なものだった。彼は、自分が神ではないことを、知っていた。私は、それを、忘れていた。ちがう。忘れていたのではない。忘れたかったのだ。神でなければ、姉を救えなかった自分を、母の毒を運んだ自分を、赦せなかったから。
私たちは、誰も、あの黒マントの男には、なれなかった。
私たちはただ、彼に憧れた。それだけだった。憧れは、人を、どこまでも遠くへ連れていく。ときには、その憧れた相手とは、正反対の場所へ。
新村のメスが、白い皮膚に、触れる。相馬の、白い胸に。かつて、術後の患者の手を、勤務時間を過ぎても握っていた、あの女の胸に。この人が最後に握った手が、事務的な手じゃなかったと思いたい、と言った、あの女の胸に。
最初の、赤い一線が、走る。
私は、新村の、その手つきを、見つめる。迷いのない、美しい手つきを。私が、育てた手を。そして、私は、彼の目の奥に、あの光を見る。私が城之内を「読んだ」ときの、あの光を。相馬が、この手術室に運ばれてきた理由を、彼は、たぶん、知っている。知った上で、メスを、握っている。彼は、私を、超えていくだろう。より深く、より静かに、より多くを、裁きながら。そして、いつか、私を、この台に乗せるだろう。老いて、用済みになった、私を。
母から、私へ。私から、新村へ。まるで、悪いものが、少しずつ薄まりながら、けれど、けっして消えることなく、次の心臓へ、また次の心臓へと、流れ込んでいくように。
これを、私は、誰に語っているのか。君に、だ。新村。
いや――ちがうかもしれない。私は、これを、この手術のあいだじゅう、ずっと、心の中で、語り続けていた。眠っている相馬に。あるいは、三十七年前に死んだ姉に。あるいは、まだ、あの待合室で古い漫画を読んでいる、八歳の、私自身に。神になれると、まだ、信じている、あの少年に。
やめておけ、と、私は、その少年に、言いたい。あれは、漫画だ。
だが、少年は、聞かないだろう。私が、聞かなかったように。
新村の手が、胸を、開いていく。相馬の心臓が、無影灯の下に、現れる。休むことなく拍動を続ける、正直な心臓が。かつての私なら、迷わず、下卑た袋、と呼んだだろう。そして、いま、その袋を覗き込んでいる新村も、いつか、きっと、そう呼ぶ。何ひとつ暴けないと知る日まで、長い長い時間をかけて。そこに刻まれた、彼女の生きてきたすべてを、いま、若い神が、読もうとしている。
――さあ。
君の番だ。
(了)
術後死亡症例検討会(M&M)記録 ――抜粋
記録作成日 二〇**年*月*日
症例番号 二〇**-***
患者 相馬 ** 三十八歳 女性
術式 僧帽弁形成術
転帰 術後心不全により死亡
執刀医 新村 **(初執刀)
指導医 黒木 誠
遺族 来院なし
検討結果 術中および術後の管理に、特段の問題を認めない。執刀医は
初執刀ながら、術中の急変に対し、冷静かつ適切に対応した。
本症例における転帰は、回避困難であったと判断される。
将来性のある、有望な若手である。特記事項なし。
承認日 二〇**年*月*日
承認 心臓血管外科 医長 黒木 誠 ㊞
要望が多ければ第二弾も考えています。
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本作はフィクションです。登場する人物・団体・病院・地名・出来事はすべて架空であり、実在のいかなる個人・組織・医療機関とも関係ありません。
作中の手術および医療に関する描写は、物語を成立させるための演出であって、正確性を保証するものではなく、現実の医療行為とは異なります。医療上の判断は、必ず専門家にご相談ください。また本作は、ある作品への「憧れ」を主題に据えた一次創作であり、特定の作品やキャラクターを再現・引用したものではありません。
毎日、22時に投稿予定です。(全10章)
それでは、新しい小説で、またお会いできますように。




