第十章 新しい心臓(最終回)
心臓外科医・黒木誠、四十五歳。
彼には、開いた胸の奥から「その人の来歴」を読み取ってしまう才能があった。顔は笑える。言葉は飾れる。だが、心臓だけは嘘をつかない――。法が裁けぬ罪を、彼は手術台の上で、静かに裁いていく。生と死、家族、師弟、そして組織の闇へと沈んでいく、後味の悪い医療イヤミスです。手術・死・暴力などの描写を含みますので、苦手な方はご注意ください。どうか、最後の一行まで見届けていただけますと幸いです。
相馬美紀は、七時五十二分に、手術室の前室に入る。
指輪は、二年前に外すべきだった。
夫が出ていったあと、外そうとして、外れなかった。指が腫れていたわけではない。手が、動かなかっただけだ。
いま、外した。あっさり外れた。
「お預かりしますね」と、看護師が言った。
同業だと知っているから、少し丁寧だった。
文庫本は、袋のいちばん上に入っている。二百四十頁のうち、百七十まで来ている。
あと七十頁。
目が覚めたら、続きを読む。それだけのことである。
相馬は、十二年、この部屋で働いてきた。ここで人が眠り、ここで人が起きるのを、何百回も見てきた。起きなかった人も見た。
だから、疑っていない、というわけではない。
疑っていても、あと七十頁のほうが、大きいだけだ。
八時〇二分、入室。
八時〇八分、点滴。
八時十一分、モニター装着。
「入眠します」と、麻酔科医の声がした。
相馬は、天井の無影灯を見た。まだ点いていない。
――あの人が、来る。
それが、この二年で、いちばん確かなことだった。
* * *
手術室の、無影灯の下。
麻酔で眠りに落ちる直前、相馬は、担当の看護師に、小さな声で頼みごとをしたという。
左手の薬指の細い銀の指輪を外して、失くさないように預かってほしい、と。それから、私物の袋のいちばん上に読みかけの文庫本が入っているから、目が覚めたら手の届くところに置いておいてほしい、と。しおりの挟まったページから、続きを読みたいから、と。
彼女は、目が覚めることを疑っていなかった。手術のあと、また続きを読むつもりでいた。ありふれた明日を信じていた。その文庫本が何だったのか、私は訊かなかった。訊けなかった。
その話を、私は、麻酔科医から、手術の直前に聞いた。
聞かなければよかった。
人は、他人を「症例」として扱うことで、初めて胸を開ける。名前を、番号にして。人生を、既往歴にして。指輪の話も、文庫本の話も、その膜を破ってしまう。私は、そういうものから、三十年、目を逸らして生きてきた。
相馬が眠っている。麻酔で。
かつて私を狩ろうとし、私を救おうとし、そして、諦めなかった女が。
彼女の胸の中では、心臓が、休むことなく拍動を続けている。あの、正直な袋が。
かつて私は、心臓を下卑た袋と呼んだ。愛も勇気も宿らない、ただのポンプだと。
だが、いまの私には、もう、そう呼ぶことができない。
ひとりの人間が生きてきたすべてをそこに刻みつけて、それでも恨みごとひとつ言わずに動き続けるものを、私は、下卑たなどと呼べなくなっていた。
覆布の下から、彼女の指先が、少しだけ見えていた。指輪の外された跡が細く白く残っていた。
私はメスを手に取った。
いつもの使い慣れた一本だった。何千回握ってきたか、わからない。
それが、その朝にかぎって、妙に重かった。柄が手のひらに貼りつくようだった。私は乾いた唾を飲み込んだ。喉が鳴った。
指の先が、ほんのわずかに震えているのを私は見た。紹介状の上に桐生の名を見たあの日から、この手は、ときどき、こうなる。それが、たった一本のメスを若い男に手渡すことを、拒もうとしていた。
私はその震えを、意志の力で抑えつけた。
そして新村に差し出した。
「執刀してみるか」と私は言った。声が震えなかったかどうか、自信がない。
新村の目が輝いた。歓喜と、畏怖と、そして、何か、もっと暗いもので。
彼は驚かなかった。それが、私にはいちばん応えた。医長が執刀を専攻医に譲るのは、ないことではないが、多くもない。まして、この症例で。それなのに、この青年は「よろしいんですか」とも「自分がですか」とも言わなかった。用意されていた順番が来た、という顔をしていた。
彼はうやうやしくメスを受け取った。まるで、聖なる遺物を受け取るように。あるいは、王位を継ぐように。
この手術室にいる者は、みな、私を尊敬している。器械出しの看護師も、麻酔科医も、臨床工学技士も。難症例を引き受け、逃げず、若手を育てる医長として。
いま、私がしていることを、誰も疑っていない。若い医者に執刀を譲る、度量のある指導医。そう見えているはずだ。
実際、そう記録される。
「胸骨正中切開から、始めなさい」と、私は言った。「そして――君の指で、彼女の心臓を、読みなさい。そこに、何が刻まれているかを」
「はい、先生」と新村は言った。
その返事は明るかった。研修医のころ、私を追いかけてきたときと、同じ声だった。
私はそのとき、彼の目をじっと見た。
この青年は、私がいま何をしようとしているのかを、知っているのだろうか。この患者が、かつて私を告発しようとした女であることを。この手術が口封じであることを。
それを知った上で、彼は、メスを握ろうとしているのだろうか。
わからなかった。だが――ひとつだけ、確かなことがあった。
私は、この期に及んでも、自分の手で相馬を殺す勇気はなかった。桐生を救ったこの手で、彼女を殺すことは、できなかった。
そして同時に、彼女を救って、組織に逆らう勇気も、なかった。
* * *
押し入れの鞄を、私は一度だけ開けた。
桐生の死から、半年後の夜だった。
手帳は、思っていたより薄かった。四十年で、二百に届かない。この人は、証明できたものは書かなかったのだろう。
姉の頁を探した。日付から辿った。すぐに見つかった。
名前と、日付と、術式が書いてあった。書式は、他の頁と同じだった。
その下に、こうあった。
――検査所見と、術中所見の乖離、著明。
その次の行に、こうあった。
――家族関係、要確認。
そして、その次の行は、空白だった。
四十年、空白だった。
私は、その空白を、しばらく見ていた。
この人は、書こうとした。書こうとして、書かなかった。書けば、確認しなければならなくなる。確認すれば、動かなければならなくなる。
だから、行を空けたまま、閉じた。
三十七年、この空白を持ち歩いた。
そして、私を守ったのだと言った。守った、というのは、そういうことだった。
――私は、あの人を、いい人だと思ってきた。
いまも、そう思っている。
いい人が、行を一つ空けた。それだけで、母は裁かれず、私は間違った相手を憎み、二人が死んだ。
私は、手帳を閉じた。
閉じてから、自分がこの半年、何をしてきたかを思った。
私も、開かなかった。図書館で、隣の巻を。篠田の夫の、病名の欄を。
空けた行の数だけなら、私のほうが多い。
* * *
――そして、いま、私は、もう一行、空けようとしている。
だから私は、この手術を新村に委ねた。
――これは、教育だ。
あの日、私は自分にそう言い聞かせた。専攻医に執刀を任せるのは、指導医の務めである。任せなければ、若い医者はいつまでも育たない。私も、そうやって育てられた。
難しい症例ではない。僧帽弁の形成術は、この青年ならやれる。私が横についている。何かあれば代わればいい。
どこにも、間違ったところはない。
書いていて、自分でも感心する。人はここまで、都合よく物事を並べられる。
私が手を下すのではない。若い彼が、するのだ。私はただ見ているだけだ。私は汚れていない。
そう思い込もうとした。母が、私に毒を運ばせて自分の手は汚さなかったように。
この手は桐生を救った手だ。あの日、私は確かに人を生かした。その同じ手が、いま、若い男にメスを渡している。手は何も覚えていない。覚えているのは、いつも人間のほうだ。
白い包みがメスに変わっただけだ。三十九年かけて、私はあの台所から一歩も動いていなかった。
その朝、手術室に入る前、私は、一枚の書類を目にしていた。事務方が手違いで、別の書類のあいだに挟み込んでしまったものだった。
それは、まだ行われてもいないこの手術の、術後死亡症例検討会の記録の、下書きだった。
日付の欄と転帰の欄だけが、空白だった。
だが、執刀医の欄には、すでに新村の名が記されていた。私が、彼にメスを渡すと決めるよりも、前から。
そして、検討結果の欄にはこうあった。
「本症例における転帰は、回避困難であったと判断される。将来性のある、有望な若手である。特記事項なし」
転帰の欄は、空白のままだった。彼女が生きるか死ぬかは、まだ書かれていない。それなのに、それが避けられなかった、という結論だけが、先に書かれていた。
桐生の革の鞄は、私の家の押し入れに、いまも置いてある。開けたことは一度もない。あの手帳が、まだ中にある。四十年分の名前が。いつか、そこに私の名を書き足す者がいるだろうか。
私はその紙を、しばらく持っていた。それから元の場所に戻した。誰にも何も言わなかった。言う相手がいなかった。
紙は、薄く、軽かった。人ひとりの死が、この重さで先に決まっている。
結果はまだ出ていなかった。相馬はまだ生きていた。それでも、物語は、もう書き終えられていた。
誰が執刀し、患者がどうなり、それがどう記録されるか。私が迷おうと震えようと、この手術室で何を選ぼうと、結末はあらかじめ用意されていた。
私は、自分を、この悲劇の作者だと思っていた。姉のときの母のように、糸を引く者だと。
だが、ちがった。私もまた、とうに書かれた台本の上をなぞらされているだけの、ひとりの登場人物にすぎなかった。この、白い建物という作者に。
* * *
その前の朝、更衣室で、新村が着替えていた。台の上にタブレットが置いてあった。
画面が点いていた。二枚目が開いていた。
人数だけが並んでいた。年ごとに。二年分である。
合計の欄があった。
八百を超えていた。
いちばん下に、一行だけ、手で入力した文字があった。
――七を引いても、変わらない。
私は、その画面を消した。消してから、自分がなぜ消したのかを考えた。
この青年は、勘定を、とうに済ませていた。
私が三十年、始めないようにしてきた勘定を。
* * *
電気鋸が回りだす。かつて私は、その音を、鍵のかかった扉をこじ開ける音だと思っていた。人間がいちばん隠しておきたい、罪の部屋を暴く音だと。研修医がピザを切り分ける刃のようだと言ったとき、私は、そんなふうに聞こえたことは一度もないと思った。
だが――いまは、ちがって聞こえる。
あれは何ひとつ暴きはしない。ただ、生きた人間の体をこじ開けていくだけの、無意味な機械の音だった。骨を裂く、それだけの音だった。
私がようやく聞き取れるようになった、その音の本当の正体だった。
私はそれを見ている。私が育てた若い神が、いま、初めて自らのメスで人を裁こうとするのを。病棟でそっと手を汚すのではなく、この手術台の上で、堂々と。
私が、かつて母から白い包みを受け取ったように。桐生が姉の心臓を開いたように。相馬が私のログを読んだように。そして、いま、新村が、相馬の胸を開こうとしている。
連鎖は、途切れない。途切れさせる方法を、私は一つだけ知っていた。いま、声を出せばいい。中止、と一言。それだけで、この部屋の全員が手を止める。私には、その権限がある。三十年、そのために積み上げてきた権限が。
私はそれを使わなかった。
理由はいくらでも並べられる。組織。立場。相馬の告発が世に出れば、私の患者たちが行き場を失うこと。だが、本当のところは、もっと簡単だ。私は自分が可愛かった。それだけだった。
私を守った桐生を憎み、その桐生を看取った。私を裁こうとした相馬を、いま、手術台に乗せている。そして、私に憧れた新村は私を継ぎ、いつか、私をこの台に乗せるだろう。
現実は漫画ではなかった。無免許の医者が腐った世界をたったひとりで切除していく。あんなものは、どこにもない。
現実にあるのは、神のいない手術室と、嘘をつけない心臓と、その心臓に勝手な物語を読み込んで命を弄ぶ傲慢な人間たちだけだ。
あの黒マントの男は、自分の掟に従った。だが、彼の掟は、けっして、無実の人間を殺す方へは彼を連れていかなかった。
彼には私にはなかったものがあった。
それが何であったかを、私は、いまも、うまく言葉にできない。良心と呼ぶのはたやすい。だが、たぶん、それは、もっと単純なものだった。
彼は、自分が神ではないことを、知っていた。
私はそれを忘れていた。ちがう。忘れていたのではない。忘れたかったのだ。神でなければ、姉を救えなかった自分を、母の毒を運んだ自分を、赦せなかったから。
私たちは誰も、あの男にはなれなかった。
私たちはただ、彼に憧れた。それだけだった。憧れは、人を、どこまでも遠くへ連れていく。ときには、その憧れた相手とは、正反対の場所へ。
新村のメスが白い皮膚に触れる。相馬の、白い胸に。
かつて、術後の患者の手を、勤務時間を過ぎても握っていた、あの女の胸に。この人が最後に握った手が、事務的な手じゃなかったと思いたい、と言った、あの女の胸に。
最初の赤い一線が走る。
――止めろ、と私の中の誰かが言った。いまなら、まだ間に合う。手を伸ばして、その手首を掴めばいい。それだけでいい。
私の腕は動かなかった。
三十九年前、私は、桐生の白衣の袖を掴んだ。八歳の私にはそれができた。四十七歳の私にはできない。
人ひとりを救うのに、必要なのは、一歩だった。三十年、私はその一歩を、いつも、他人の胸の中でだけ踏み出してきた。自分の足では、一度も。
私は新村の、その手つきを見つめる。迷いのない、美しい手つきを。私が育てた手を。
そして、私は、彼の目の奥に、あの光を見る。私が城之内を「読んだ」ときの、あの光を。
相馬が、この手術室に運ばれてきた理由を、彼は、たぶん知っている。知った上でメスを握っている。
彼は私を超えていくだろう。より深く、より静かに、より多くを裁きながら。そして、いつか私をこの台に乗せる。老いて用済みになった、私を。
母から、私へ。私から、新村へ。
まるで、悪いものが少しずつ薄まりながら、けっして消えることなく、次の心臓へ、また次の心臓へと流れ込んでいくように。
これを私は誰に語っているのか。君に、だ。新村。
いや――ちがうかもしれない。
私は、これを、この手術のあいだじゅう、心の中で語り続けていた。眠っている相馬に。あるいは、三十九年前に死んだ姉に。あるいは、まだ、あの待合室で古い漫画を読んでいる、八歳の私自身に。神になれると、まだ信じている、あの少年に。
やめておけ、と、私は、その少年に言いたい。あれは、漫画だ。
だが、もう一つ、言っておくべきことがある。あの漫画は、間違ってはいなかった。間違えたのは読んだ私のほうだ。あの男は、腐った世界を切除したのではない。目の前の一人を、必ず助けようとしただけだ。
だが、少年は聞かないだろう。私が聞かなかったように。
あの子は、いつか大人になり、医者になり、白衣を着るだろう。そして、ある夜、待合室で読んだ言葉を思い出す。世界が腐っているなら、腐った部分を自分の手で切除する。それのどこが悪い、と。
どこが悪いのかを、いま私は知っている。知ってから、教える相手がいなくなった。
新村の手が胸を開いていく。
相馬の心臓が無影灯の下に現れる。休むことなく拍動を続ける、正直な心臓が。
かつての私なら、迷わず、下卑た袋、と呼んだだろう。そして、いまその袋を覗き込んでいる新村も、いつか、きっと、そう呼ぶ。何ひとつ暴けないと知る日まで、長い長い時間をかけて。
そこに刻まれた、彼女の生きてきたすべてを、いま、若い神が読もうとしている。
――さあ。
君の番だ。
(了)
術後死亡症例検討会(M&M)記録 ――抜粋
記録作成日 二〇**年*月*日
症例番号 二〇**-***
患者 相馬 ** 三十八歳 女性
術式 僧帽弁形成術
転帰 術後心不全により死亡
執刀医 新村 **(初執刀)
指導医 黒木 誠
遺族 来院なし
検討結果 術中および術後の管理に、特段の問題を認めない。執刀医は
初執刀ながら、術中の急変に対し、冷静かつ適切に対応した。
本症例における転帰は、回避困難であったと判断される。
将来性のある、有望な若手である。特記事項なし。
承認日 二〇**年*月*日
承認 心臓血管外科 医長 黒木 誠 ㊞
皆様のご感想をお待ちしております。
本作はフィクションです。登場する人物・団体・病院・地名・出来事はすべて架空であり、実在のいかなる個人・組織・医療機関とも関係ありません。
作中の手術および医療に関する描写は、物語を成立させるための演出であって、正確性を保証するものではなく、現実の医療行為とは異なります。医療上の判断は、必ず専門家にご相談ください。また本作は、ある作品への「憧れ」を主題に据えた一次創作であり、特定の作品やキャラクターを再現・引用したものではありません。
毎日、22時に投稿予定です。(全10章)
それでは、新しい小説で、またお会いできますように。




