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第一章 依頼

心臓外科医・黒木誠、四十五歳。


彼には、開いた胸の奥から「その人の来歴」を読み取ってしまう才能があった。顔は笑える。言葉は飾れる。だが、心臓だけは嘘をつかない――。法が裁けぬ罪を、彼は手術台の上で、静かに裁いていく。

season2は暗殺者への道へと進み始めた黒木を描いていきます。


生と死、家族、師弟、そして組織の闇へと沈んでいく、後味の悪い医療イヤミスです。手術・死・暴力などの描写を含みますので、苦手な方はご注意ください。どうか、最後の一行まで見届けていただけますと幸いです。

人を殺すのに、いちばん安全な場所を知っているだろうか。


手術室だ。

そこでは、人が死ぬことがあらかじめ許されている。どれほど腕のいい外科医の手のなかでも人は死ぬ。それは動かしがたい前提で、だから手術台の上の死は、疑われない。悼まれこそすれ裁かれはしない。


私は黒木誠、帝都大学附属病院の心臓外科医長だ。かつて手術台の上で人を裁いていた男だと言えば、正気を疑われるだろうか。法が見逃した罪をこの手で切除するのだと信じて、私は幾人かの患者を死なせた。


その静けさが破られたのは、梅雨の、ある夕方だった。

院長室は薄暗かった。院長は私に茶を勧めなかった。この男が茶を勧めないのは、手を汚したくないときだ。


「黒木くん。頼みがある」

声が掠れていた。窓を、雨が斜めに叩いていた。

「蒲生剛造を、知っているな」

知らないはずがない。民政党の実力者。何十年も政界の中枢に居座る、老いた怪物だ。

「心臓を悪くされてね。大動脈弁狭窄症だ。手術が要る。うちで診ることになった。執刀は、きみに」


私は黙って待った。この男が本当に言いたいことは、まだ口にされていない。

「手術は」院長は私の目を見なかった。「――成功しなくても、いい」

雨の音が、急に大きく聞こえた。

「……それは」と私は言った。「あなたの、一存ですか」

院長は答えなかった。代わりに、机の上の一枚を、私のほうへ滑らせた。理事会の、内部文書だった。決裁欄に記された名を見て、私は言葉を失った。

その名を、ここには書かない。書けば、私の命が、いくつあっても足りないからだ。

「私も握られているんだよ」と院長は言った。「ちょうど、きみが、私に握られているようにね」


命令は雨水のように、上から下へ流れ落ちる。途中の誰も手を汚さず、いちばん下でメスを握る私だけが濡れる。

そのとき、院長の机で、スマートフォンが震えた。彼が伏せるより早く、私は発信者の四文字を見てしまった。あの、決裁欄と同じ名だった。院長は画面を裏返し、指で隠すように押さえた。


「頼む、黒木くん」院長の額に、汗が滲んでいた。「――また、二年前のようなことには、しないでくれ」


そして、独りごとのように、付け加えた。


「……私も、昔は、断れる側に、いたはずなんだがな。どこで、間違えたのか」


二年前。消えた、あの看護師のことを、この男は言っている。私を裁こうとして、そして、どこかへ消えた女のことを。


あのとき、私は、二人の無実の患者を殺していた。読み違えて。それを知ってなお、私が裁かれずにいるのは――この白い建物が、金を生む刃を手放したくないからだ。あれからの二年、私は誰も裁かず、ただ患者を救ってきた。皮肉なもので、裁くのをやめた手は、かつてないほど多くの命を生かした。もう、終わったのだと思っていた。この、雨の夕方までは。


そのとき、ドアの磨りガラスの向こうに、人影がひとつ、立った。ノックもせず、入りもせず、ただ、こちらの気配を窺うように。磨りガラスに滲むその影は、片方の足を、わずかに引きずっているようだった。院長は、その影に気づくと、いっそう声を潜めた。


「この話は、忘れてくれ。ぜんぶ、なかったことだ。……いいね」


私が振り返ったときには、影は、もう、消えていた。

断ることも、できたはずだ。従わねば、私の過去が暴かれる。だが私はもう、いつ暴かれてもおかしくない場所に立っている。脅しそのものは、恐ろしくなかった。

それなのに、私は断らなかった。


なぜか。


その夜、自宅の郵便受けに、差出人のない封筒が入っていた。中身は、黄ばんだ新聞の切り抜きが一枚きり。四十年前の日付。地方都市の、崩れたビル。手抜き工事。公表される前に握り潰された、危険性の報告書。そして、当時その許認可を担当していた、若い官僚の名前。蒲生剛造。


消印は、なかった。手渡しだ。私が調べる手間さえ、誰かが省いてくれていた。その切り抜きは、几帳面に、端と端をきっちり合わせて三つ折りにされていた。神経質なほど、正確に。


私はその切り抜きを、長いこと見つめた。それから机に向かい、辞退の理由を書き始めた。持病。多忙。適応外。三行書いて、私はペンを置いた。書きかけの紙を、破り捨てた。


ほら。私の中の、あの声が、また囁いていた。この男は、裁かれるべきだ、と。四十年前の死者の山が、私を、正当化してくれる、と。


子どものころ、姉の手術を待つ待合室で、私はある漫画に読みふけった。片方だけ白髪の、黒いマントの、無免許の医者。彼は誰の許しも請わず、自分の手だけを信じて、腐った世界を切り開いた。あれは漫画だよ、現実の手術室に神などいない――のちに、そう言われたことがある。


ならば、私がなる。あの黒マントの男が神を演じたように、私も、白衣を着た、ちいさな神に。


――あるいは。あるいは私は、神になどなっていないのかもしれない。裁く真似を、させられているだけの、よく躾けられた犬。撒かれた餌に、尻尾を振って、食いつくだけの。そう思うと、胸の底が、冷えた。だが、その冷たさからも、私は、いつものように目を逸らした。


母が、姉に、白い粉を飲ませたときも、こんなふうだったのだろうか。


あの人もまた、何かに正当化されていたのか。娘を弱らせ、看病する自分に酔いながら、それでも、自分を優しい母だと信じて。


私はいまだに、母の“理由”を知らない。知ろうとするたび、私は途中で目を逸らす。その底を覗けば、そこに、私と同じ顔が映っている気がするからだ。


私たちは、たぶん、同じ病を、血のなかに飼っている。正しさを、殺しの口実に変える病を。母から、私へ。そして――と、私は、廊下で見た新村の笑みを思い出した。

知らないまま、私は、母によく似た手つきで、人を殺していく。


術前カンファレンスで、麻酔科の医師が、蒲生のデータを一瞥して言った。


「弁の石灰化は強いですが、心機能は保たれている。左室の壁運動も悪くない。標準的な弁置換で、まず問題なく成功するでしょう。リスクは、低い部類です」

「教科書どおりの、いい症例ですね」と、若い医師が、目を輝かせた。「先生の執刀、勉強させてください」


低リスク。誰の目にも成功が見えている手術で、患者だけが死ぬ。それを、事故に見せる。――たやすいことではない。むしろ、簡単な手術ほど、綻びは目立つ。合併症の“言い訳”が効かないからだ。


なぜ、こんな分の悪い症例を選んだのか。人ひとり消すだけなら、もっと確実で目立たない手が、いくらでもある。それを、あえて、衆人環視の手術台に乗せ、私に執刀させる。まるで、蒲生を殺すこと以上に、私にこれをやらせること自体が、目的であるかのように。――だが、その先は、考えないことにした。考えれば、降りたくなる。


私は、頭の中で、蒲生の心臓を、もう組み立て始めていた。弁輪。三つの弁尖。血流を受け止める、接合の線。


どこに、どれだけの“逃げ”をつくれば、術中も術後の検査も、すべてが正常と映りながら、ただ後負荷が跳ね上がった一瞬にだけ破綻するか。

安静時には、代償機転が、それを覆い隠す。日常のなかでは、なにも起きない。ただ、一度、心臓が本気で働かされた、そのときにだけ。


その難しさに、メスを握る指先が、久しぶりに熱を持つのを、私は感じた。


蒲生剛造と会ったのは、その数日後だ。特別室は、病室というより、王の謁見室だった。分厚い絨毯。革張りの椅子。窓辺には、支援者から届いた蘭が、名札をつけて並んでいた。


「あんたが、噂の名医か。ん?」蒲生は、値踏みするように私を見た。「ずいぶん無愛想な顔だ。まあいい。腕さえ良けりゃ、顔はどうでも、な」


彼は私を「先生」と呼んだ。名前ではなく。この男は、他人の名を覚えない。覚える必要のない人生を、送ってきたのだ。


「うまくやってくれたら、あんたにも、悪いようにはせん。ん? 帝都大の理事長とは、古い付き合いでね。あの人に、口を利いてやる」


その言い方には、施しと脅しの、両方が滲んでいた。機嫌よく笑いながら、この男はきっと、逆らう者を何人も潰してきた。愛想のよさが、そのまま支配の道具になる種類の人間だ。


付き添いの秘書が、「お孫さんが、また、お見舞いにいらしたいと」と言いかけた。蒲生は、鬱陶しそうに、手を振った。


「あとにしろ。いまは、大事な話の最中だ」


家族より、取引。それが、この男の、揺るがぬ順序だった。

私は聴診器を、その胸に当てた。大動脈弁狭窄症に特有の、あらい収縮期雑音。硬く動かなくなった弁を、血液が無理やり押し通る音だ。指を頸動脈にあてる。立ち上がりは、遅く、鈍い。圧較差は、確かにある。


だが――カルテの数字が言うほど、この弁は重症だろうか。血流を押し通す音の底に、私は、まだ粘る心筋の余力を聴き取っていた。この心臓は、あと数年、手術などせずとも平気で動きそうに思えた。少なくとも、いま急いで胸を開かねばならないほどではない。


ならば、なぜ、この男は、いま、手術台に乗せられようとしているのか。誰が、この“必要”を、こしらえたのか。


私は、その問いを、口には出さなかった。


ベッド脇の小さな花瓶に、一輪だけ、種類のちがう花があった。子どもが手折ったような、不格好な向日葵。添えられた画用紙に、覚えたての字で、こうあった。「じいじ、はやくげんきになってね」。私の視線に気づくと、蒲生は決まり悪そうに、それを枕の陰へ隠した。


この怪物にも、そう呼ぶ孫がいる。その孫は、二週間もすれば、じいじの死を知らされるだろう。私が、こしらえた死を。向日葵の絵は、遺影の隣に飾られるのかもしれない。


私は、その画用紙から、目を逸らした。読むな、と自分に言い聞かせながら。人の心臓なら、いくらでも読める。だが、この不格好な向日葵だけは、読んではいけない。読めば、手が鈍る。


――だが、私は、もう、読んでしまっていた。じいじ、はやくげんきになってね。忘れられなくなるほど、はっきりと。読むなと命じておいて、私はいつも、読んでしまう。それが、私の、いちばん質の悪い嘘だ。自分にだけ、つく嘘。


病室を出ると、廊下で新村が待っていた。私の第一助手を務める、かつての研修医だ。彼は一冊のファイルを胸に抱いていた。蒲生のカルテ。私がまだ、開いてもいないはずの。


「先生」と新村は言った。「例の切り抜き、届きましたか」


私は、足を止めた。


「……なぜ、それを知っている」

「四十年前のあの事故、有名ですから」新村は微笑んだ。「先生なら、きっと、興味を持たれると思って」

「何が言いたい」

「べつに」新村は、ファイルの背を、几帳面に指でそろえた。端と端を、きっちり合わせるように。「ただ、ぼくは、先生の助手ですから。先生の“得意”を、いちばん近くで見てきました。それだけです」

「……」

「いい患者さんですね」彼はファイルを差し出した。「先生が――いちばん、力を発揮できそうな」

「先生は」新村は、私の目を、まっすぐ見た。「もう、決めているんですよね」


問いの形をしていたが、それは、確認だった。答えを、とうに知っている者の。

その笑みの奥に、私は、見覚えのあるものを見た。かつて鏡の中で、何度も見たものだ。継承は、もう始まっているのかもしれない。私が気づかないうちに。そう思うと、なぜか、口の中が乾いた。


――そういえば。あの匿名の切り抜きの、几帳面な三つ折り。いま、新村がファイルをそろえた手つきに、よく似ていた。


だが、私は、その符合を、すぐには信じなかった。この建物の人間は、みな、どこか几帳面すぎる。院長の秘書も、理事長の使いも、書類の角を、きっちり合わせる。折り方の癖など、この白い建物では、誰の証明にもならない。


その夜、私は蒲生のカルテを、もう一度、見返した。心エコーの数値。圧較差。弁口面積。すべてが、手術を“必要”としていた。すべてが、ほんの少しずつ、重症の側へ寄せられているように見えた。まるで、誰かが、この男をどうしても手術台に乗せたくて、あつらえた数字のように。


検査値に、あとから手を入れられる者は、そう多くない。技師か。読影医か。あるいは――そこまで数えて、カルテを繰る指が止まった。私は、それ以上、名前を数えなかった。答えに、近づきたくなかったからだ。


机の抽斗を開けると、布のなかで、使い慣れた器具が、鈍く光っていた。持針器。鑷子。そして、いつも最後に指で確かめる、一本の細い糸。人工弁の縫合部に、髪一本ほどの遊びを残す。ただ、それだけでいい。安らかな時間には、決して牙をむかず、心臓が本気で働かされた一瞬にだけ、その糸は目を覚ます。


私はまだ、知らなかった。この一件が、二年前に消えた看護師の影と、この白い建物のもっと暗い底とに繋がっていたことを。明日、私はもう一度、あの磨りガラスの人影の正体を探ってみるつもりだった。


わかっているのは、ひとつだけだ。


手術は、成功する。

患者は、死ぬ。

その二つは、私のなかで、少しも、矛盾しない。


あなたは、これを、罪と呼ぶだろうか。



(第一話 了)


本作はフィクションです。登場する人物・団体・病院・地名・出来事はすべて架空であり、実在のいかなる個人・組織・医療機関とも関係ありません。


一、医療・外科手術・法医学・司法手続き(調査法解剖、死体検案書、関係法令等)に関する描写は、いずれも物語を成立させるための演出です。医学的・法的な正確性を保証するものではなく、現実の手技・手順・制度を忠実に再現したものでもありません。また、作中のいかなる行為についても、その再現・実行を意図し、あるいは推奨するものではありません。


二、本作は、殺人・児童虐待・自殺・毒殺などの重い主題を含みます。これらは物語の主題を描くための表現であり、そうした行為を肯定・助長する意図は一切ありません。


三、専門的・制度的な事項については、必ず各分野の専門家および公的機関の最新の情報をご確認ください。本作の記述をもって、現実の判断の根拠とすることはお控えください。


――この物語は、事実ではなく、物語です。


毎日、22時に投稿予定です。(全10章)

それでは、次の章で、またお会いできますように。


隠岐群青

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