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第二章 死体は嘘をつかない

心臓外科医・黒木誠、四十五歳。


彼には、開いた胸の奥から「その人の来歴」を読み取ってしまう才能があった。顔は笑える。言葉は飾れる。だが、心臓だけは嘘をつかない――。法が裁けぬ罪を、彼は手術台の上で、静かに裁いていく。

season2は暗殺者への道へと進み始めた黒木を描いていきます。


生と死、家族、師弟、そして組織の闇へと沈んでいく、後味の悪い医療イヤミスです。手術・死・暴力などの描写を含みますので、苦手な方はご注意ください。どうか、最後の一行まで見届けていただけますと幸いです。

死体は、正直だ。


太田正敏は、二十六年間、そう信じて生きてきた。

解剖台の上で、人は、生前まとっていたすべての嘘を脱ぎ捨てる。肩書きも、笑顔も、言い訳も、そこにはない。あるのは、その人間が生きてきた歳月をそのまま刻んだ、正直な肉体だけだ。酒に灼かれた肝臓。煙草で黒ずんだ肺。長年の労働で歪んだ骨。死体は語る。生きていたあいだ、決して語らなかったことを。


「死体は、嘘をつかない」というのが、太田の口癖だった。「嘘をつくのは、いつだって、それを読む、生きた人間のほうだ」


太田正敏は、この街の大学で法医学教室を預かっている。警察や検察から委託される解剖を、この地域で長く引き受けてきた。事件性が疑われる遺体も、死因のはっきりしない遺体も、たいていは、太田の教室へ回ってくる。年に何百体という遺体を解剖し、その死の真実を、警察に、遺族に、社会に代弁してきた。愛想のいい男ではない。学生に煙たがられ、警察に煙たがられ、遺族にはしばしば恨まれた。早く弔わせてほしい、そっとしておいてほしいという人々の願いを、彼は何度も踏みにじってきた。死体が「これは、ただの死ではない」と告げているかぎり、太田はけっして目を逸らさなかったからだ。


黒木という心臓外科医が、開いた胸の奥に人の来歴を読んだように――もっとも、太田はその男の名を、まだ知らない――太田は、冷たくなった肉体の隅々から、その人間の最期の真実を読んだ。二人はまだ、出会っていない。だが、同じ一つの信念を、正反対の側から抱えていた。心臓は嘘をつかない、と。死体は嘘をつかない、と。


その朝も、太田は、白い解剖室に立っていた。窓のない、換気の音だけが低く響く部屋。目の前には、一体の遺体があった。八十二歳の男。自宅の居間で、ひとり倒れて死んでいた。同居していた息子夫婦は、心臓発作だと言った。持病もあった。警察も、事件性はないと見ていた。あとは、死体検案書に「病死」と書いて遺族に返す。それだけの、はずだった。


立ち会いの刑事、佐伯が、腕時計を気にしながら言った。


「先生、これ、急ぎで頼めますか。ご遺族が、通夜の段取りを待ってて」


太田は、答えなかった。彼は、老人の閉じた瞼を、そっと、めくっていた。


「先生、あの……」佐伯が、焦れたように言いかけた。


太田は、片手だけを上げて、それを制した。目は、老人の顔から離さないまま。佐伯は、口をつぐんだ。


そこに、あった。眼瞼結膜の、点状出血。溢血点。息を塞がれた者に現れる痕だ。心臓発作では、こうはならない。


太田の指が、頸部を辿る。表皮に、傷はない。だが皮下に、ごく淡い圧迫の痕。柔らかいもので――枕か、座布団かで、強く顔を押さえつけられたときの痕だ。

所見を、頭のなかで並べていく。眼瞼結膜、溢血点。頸部、皮下出血。指の爪。太田は、老人の指先を、灯りにかざした。


爪のあいだに、繊維が一片。自分の顔を覆うものを、最期に掻きむしった痕か。生きようとした、抵抗の証だ。


だが――その繊維は、この家のどの布とも合わなかった。目の細かい、見慣れない一片。強いて言えば、病院で使うガーゼか、術衣の生地に、どこか似ていた。だが、ただの思いつきだ。太田は、その一片を小さな袋に採り、番号を振った。理由のわからないものを、太田は決して捨てない。いつか、意味を持つことがあるからだ。


肉体は、そういうものまで、記録している。


「先生?」と、佐伯が訊いた。

「病死じゃない」と、太田は静かに言った。「この人は、殺されている。おそらく、寝込みを、枕か、座布団かで」


解剖室が、しんとした。換気の音だけが、低く鳴っていた。

「……根拠は」と、佐伯が声をひそめた。「表には、傷ひとつ、ないんですよ。ご遺族は、心臓だと。しかも、あの家は、地元の名士で……」

「名士だろうが、なんだろうが、関係ない」と、太田は、佐伯の言葉を遮った。「死体は、相手の肩書きで証言を変えたりしない。表に出ていないだけだ。この人の身体は、はっきりと、そう言っている。私は、それを代弁するだけだ」


佐伯は、しばらく、太田の顔を見ていた。それから、諦めたように手帳を開いた。この法医学者が、いったん「そう言っている」と口にしたものを覆せた試しがないことを、彼は知っていた。


のちに、同居の息子が、遺産と介護の負担を苦に、父親を手にかけたことを自供した。眠る父の顔に、座布団を押しつけたのだ。もし太田が、佐伯に急かされるまま「病死」と書いていたら。老人の死は、誰にも知られず、線香の煙とともに消えていた。真実は、死体のなかに静かにあったのに。誰も読もうとしなければ、それは、永遠に闇へ葬られる。


自供が取れた日、佐伯は、太田の部屋を訪ねてきた。


「……今回も、すみませんでした。先生を、急かして」


深々と頭を下げた。太田は、顕微鏡から目も上げず、短く言った。


「私に、謝るな。謝るなら、あの、爺さんの死体に、謝れ」


佐伯は、苦笑して帰っていった。この偏屈な法医学者を、彼はもう、疑わなくなっていた。

なぜ、太田が、それほどまでに死体の声に耳を澄ますのか。

同僚たちは、彼を、変わり者だと言った。妥協を知らない、扱いにくい男だと。


太田の暮らしは、簡素だった。アパートの食卓には、椅子が二脚あったが、向かいの一脚には、もう何年も誰も座っていない。若い頃の結婚は、とうに終わっている。

休日も遺体と向き合い、深夜まで顕微鏡を覗き、食卓でも死因の話ばかりする男に、連れ添える者はいなかった。彼の世界には、生きた人間より、死んだ人間のほうがずっと多い。生者は嘘をつくが、死者はつかない。心を許せる相手は、もう、物言わぬ肉体だけになっていた。


孤独な生き方だった。だが太田は、それを罰だと思っていた。自分には、あたたかい生を送る資格がない、と。


なぜなら――それには、理由があった。決して人には話さない、二十六年前の理由が。


駆け出しの頃だった。ある女性の遺体が運ばれてきた。三十代の、二児の母。風呂場で心臓発作を起こして死んだ、とされていた。夫は憔悴しきって、そう証言した。子煩悩な父親で、妻思いの夫で、誰もが、気の毒に、と口を揃えた。

だが、若い太田は、違和感を覚えていた。心臓に、異常がない。三十代の女性が突然それで死ぬには、あまりに健やかな心臓だった。肺には、溺水の所見。健康な人間が、湯船でなぜ溺れる。

太田は、指導教官に告げた。おかしい、と。もっと調べるべきだ、と。


「太田くん。遺族は、早く弔いたがっている。夫は、あんなに悲しんでいる。確かな証拠が、あるのか。ないなら、余計なことは言わないことだ」

「でも――」


若い太田は、その先を飲み込んだ。指導教官の疲れた顔と、悲しむ夫への同情の空気。その二つに逆らうだけの度胸が、当時の彼にはなかった。


いま、法医学者として、あの日の自分を解剖するなら、所見は、こう並ぶ。一つ、健康な心臓。二つ、説明のつかない溺水。三つ、確証はなく、直感だけがあった。そして四つ――太田は、その直感を、飲み込んだ。


結論。死因、見て見ぬふり。執刀したのは、若き日の、太田正敏。


証拠は、なかった。あったのは、頼りない直感だけ。太田は、判を押した。真実よりも、その場の、収まりのいい物語を選んで。


半年後。同じ男の、二番目の妻が、風呂場で死んだ。


掘り起こされた最初の妻の身体からは、あの溢血点が見つかった。男は保険金のために、二人の妻を、眠らせるように湯に沈めていた。二番目の妻には、まだ幼い子どもがいた。


嘘をついたのは、死体ではなかった。太田だった。死者は、最初から真実を語っていた。聞かなかったのは、生きている、太田のほうだった。


太田は、机の抽斗から、色褪せた一枚の写真を取り出した。二番目の妻の、遺影の複写。裁判記録を整理していた事務官に頼み込み、密かに一枚だけ、もらい受けたものだった。名前も思い出せないのに、その顔だけは忘れられない。しばらく見つめ、また、そっと抽斗に戻した。


――ずっとあとになって、太田は知ることになる。あの男の裁判に、静かに金を出していた後ろ盾の名が、いまや、ある大病院の理事会に連なっていることを。だが、それは、まだ先の話だ。


この二十六年前の失敗が、太田を、いまの太田にした。二度と、直感を飲み込まない。たとえ証拠がなくても。たとえ相手が、どれほど力を持った人間でも。


だが――この誓いには、裏がある。


二度と見逃さないと決めたその日から、太田は、逆の過ちも犯すようになった。一度、確信を持って「これは他殺だ」と言い張り、そして間違えた。無実の夫が殺人者として扱われ、その家族は、ばらばらに壊れた。あとで、それが、ただの事故死だったとわかった。


直感は、聞き逃せば人を殺し、信じすぎれば人を殺す。太田は、それを誰よりも知っている。知っていて、なお、手放せない。それが、彼の業だった。

毎年、命日には、太田は一人で、あの二番目の妻の墓に参る。名も知らぬ女の墓に。花を供え、手を合わせ、何も言わずに帰る。もう二十六年、続けている。


その夜、太田は、教室に一人残って、遅い夕食の弁当をつついていた。つけっぱなしのテレビが、ニュースを流していた。太田は、ほとんど聞いていなかった。

だが、あるひとことで、彼の箸が、止まった。


「――民政党の実力者、蒲生剛造氏が、心臓の手術を受けるため、近く入院することがわかりました。執刀するのは、心臓外科の権威として知られる、帝都大学附属病院の――」


太田は、画面を、見た。

映っていたのは、記者会見の映像だった。白髪頭の、傲慢そうな老政治家。その隣で、記者たちの質問に穏やかに答える、一人の医師。斜めに走る古い傷痕。片側の白髪。冷たく、静かな目。画面の下に、その名が、テロップで流れた。心臓血管外科・医長。名医。救命率、全国屈指。


カメラが向くと、老政治家は、好々爺然とした笑みを浮かべてみせた。その笑顔を、太田は、何百体もの死体の傍らで見てきた、加害者たちの――被害者の遺族に向ける、あの“それらしい”作り笑顔と、重ねずにはいられなかった。人は、いくらでも、そういう顔を作れる。だが、身体は、つくれない。


何でもない、ニュースだった。老いた政治家が、心臓の手術を受ける。国内でも指折りの名医が、それを執刀する。むしろ、めでたい話ですらあった。それだけの、ニュースだった。


それなのに、太田は、なぜか、その画面から、目を離せなかった。

あの医師の、目のせいだ、と太田は思った。あの目は、患者を見る医者の目ではなかった。もっと別のものを――たとえば獲物を、あるいは標本を、見るような目だった。太田が、解剖台の上の死体を見るときの、あの目に、どこか似ていた。生きた人間の胸の奥に、いったい、この男は、何を見ているのだろう。


箸を持つ手が、止まった。気づくと、太田は、リモコンを強く握りしめていた。

二十六年間、決して無視しないと誓ってきた、あの腹の底の声が――かすかに、けれど確かに、囁いていた。


この男の周りで、いつか、誰かが、死ぬ。


――そして、そのとき、自分は、間に合うのか。それとも、また、見逃すのか。あるいは、逆に、ありもしない罪を、見てしまうのか。

太田は、テレビを消した。暗い画面に、疲れた初老の自分の顔が映っていた。馬鹿げている、と彼は思った。手術を受けるだけの政治家と、腕のいい医者。それだけの話だ。直感というやつは、ときどき、何でもないものに牙を剥く。

だが――太田は、冷めた茶をすすり、そして、決めた。


明日、あの医師の、過去の症例記録を取り寄せてみよう。術後に亡くなった患者の記録を、片端から。ただの、老いた法医学者の、いつもの悪い癖として。

死体は、嘘をつかない。だが、それを読めるのは、人が死んでからだ。――今度こそは、死ぬ前に、間に合わせる。


太田は、そう決めていた。まだ、何も始まっていないうちに。



(第二話 了)


本作はフィクションです。登場する人物・団体・病院・地名・出来事はすべて架空であり、実在のいかなる個人・組織・医療機関とも関係ありません。


一、医療・外科手術・法医学・司法手続き(調査法解剖、死体検案書、関係法令等)に関する描写は、いずれも物語を成立させるための演出です。医学的・法的な正確性を保証するものではなく、現実の手技・手順・制度を忠実に再現したものでもありません。また、作中のいかなる行為についても、その再現・実行を意図し、あるいは推奨するものではありません。


二、本作は、殺人・児童虐待・自殺・毒殺などの重い主題を含みます。これらは物語の主題を描くための表現であり、そうした行為を肯定・助長する意図は一切ありません。


三、専門的・制度的な事項については、必ず各分野の専門家および公的機関の最新の情報をご確認ください。本作の記述をもって、現実の判断の根拠とすることはお控えください。


――この物語は、事実ではなく、物語です。


毎日、22時に投稿予定です。(全10章)

それでは、次の章で、またお会いできますように。


隠岐群青

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