第三章 一針の嘘
心臓外科医・黒木誠、四十五歳。
彼には、開いた胸の奥から「その人の来歴」を読み取ってしまう才能があった。顔は笑える。言葉は飾れる。だが、心臓だけは嘘をつかない――。法が裁けぬ罪を、彼は手術台の上で、静かに裁いていく。
season2は暗殺者への道へと進み始めた黒木を描いていきます。
生と死、家族、師弟、そして組織の闇へと沈んでいく、後味の悪い医療イヤミスです。手術・死・暴力などの描写を含みますので、苦手な方はご注意ください。どうか、最後の一行まで見届けていただけますと幸いです。
手術の朝は、いつも静かだ。
どれほど大きな手術でも、執刀医の朝は変わらない。私はいつもどおりの時間に目を覚まし、いつもどおりの珈琲を淹れ、無言で病院へ向かった。ちがっていたのは、病院の正面に、テレビ局の中継車が何台も停まっていたことだけだ。
蒲生剛造。その心臓手術を、朝のニュースがこぞって報じていた。「国内屈指の名医が執刀」。玄関のロビーには記者が詰めかけ、警備員がそれを押し留めていた。私は、通用口から入った。人目を避けるためではない。まして、写真に撮られるためでもない。私はいつも、そこから入る。神は、正面玄関を使わない。
手術室の空気は、張り詰めていた。看護師も、臨床工学技士も、いつもより口数が少ない。誰もが知っていた。この手術台の上にいるのが、ただの患者ではないことを。成功すれば、病院の名は上がる。失敗すれば――そのとき、誰の首が飛ぶかも。
手術室の隅に、見慣れない人間が二人、立っていた。理事会の関係者だ、と師長が耳打ちした。手術を見学に来た、という名目で。だが、その目は、手術を見ていなかった。私を、見ていた。ちゃんと“依頼”どおりに動くか。監視されているのだ、と私は思った。上から降ってきた命令の、その履行を。刃が、命じられたとおりに切るかどうかを、飼い主は見届けに来る。
――あの夜、院長室で見た、あの疑念が、また蘇る。蒲生を殺すこと以上に、これを私にやらせること自体が、誰かの目的なのではないか。監視の目は、そう囁いているようにも思えた。
この疑いは、今夜だけでは消えてくれない気がした。
そのうちの一人が、体重を移すたびに、片方の足を、わずかに引きずった。私は、その動きに見覚えがあった。あの雨の夕方、院長室のドアの、磨りガラスに滲んだ影。あれも、確か片足を引きずっていた。この男は、あのときも、私を見ていたのか。それとも――私に、見せていたのか。自分の存在を。
更衣室で、私は手を洗った。爪の間を、ブラシで、丹念に。何を洗い落とそうとしているのか、自分でもわからないまま。隣で、新村も手を洗っていた。
「いよいよですね」と、彼は言った。
「ああ」
「先生の“完璧な成功”を、見せてもらいます」
その言葉に、私は手を止めた。新村は前を向いたまま、微かに笑っていた。
「先生の手技は、いつも同じリズムです」彼は、爪の間を洗いながら続けた。「目をつぶっていても、次に何をなさるか、わかるくらい。……だから、わかるんです。いつもと、ちがう一手が、ひとつでも混じれば」
彼は知っている。私の言う「成功」が、ふつうの成功と、少しちがうことを。そして、それを見抜くだけの目を、持っていることも。
「ひとつ、訊いていいか」と、私は言った。「蒲生のカルテを、最初に見たのは、誰だ」
「さあ」新村は、水を止めた。「ぼくが受け取ったときには、もう、数字は、あのままでしたよ」
もう、あのままだった。誰かの手で、少しずつ重症側へ寄せられた、あの数字は。私は、それ以上訊かなかった。
完璧な手術とは、どういうものか、知っているか。傷ひとつなく、患者が元気に歩いて退院する――それは、素人の考える完璧だ。本物の完璧は、もっと静かだ。手術室にいた誰ひとり、そこで人が殺されたことに気づかない。それが、私の目指す完璧だった。
全身麻酔。動脈ライン、中心静脈カテーテル、経食道エコー。眠った蒲生の胸に、私はメスを入れた。胸骨正中切開。電気鋸が、骨を裂く。扉が、開く。
ヘパリンを投与し、活性化凝固時間を確かめ、上行大動脈に送血管を、右房に脱血管を挿す。人工心肺が回りはじめる。蒲生の心臓と肺の役割を、機械が引き継ぐ。大動脈を遮断し、心筋保護液を注ぐ。老いた心臓が、ためらいがちに拍動を止めた。
私は、大動脈を切り開き、その弁を露出させた。
――やはり、だ。
石灰化は、ある。硬い。だが、カルテの数字が言うほどではなかった。三つの弁尖は、思ったよりもしなやかさを残していた。この弁なら、あと数年放っておいても、この男は平気で生きただろう。手術など、要らなかったのだ。誰かが、要ると決めた。あの、あつらえた数字で。
だが私は、その問いを、また脇へ置いた。いまは、仕事をする時間だ。
病んだ弁尖を切除し、人工弁を、弁輪に縫い付けていく。一針、一針。糸をかけ、結び、また、かける。この工程を、私は何千回繰り返してきたか、わからない。私の指は、もう、私の意思とは無関係に、正しく動く。
そして――その、無数の正しい運針のなかに、たった一つだけ、私は、別のものを、忍ばせた。
その一針をかけようとした、まさにその瞬間。私の手が、ほんの刹那、止まった。じいじ、はやくげんきになってね。あの覚えたての字が、視界の隅を掠めたのだ。読むな、とあれほど自分に言い聞かせたのに。読めば、手が鈍る。
私は目を閉じ、その字を、頭の外へ追い出した。目を開けたとき、私の指は、もう、いつもの冷たい機械に戻っていた。
人工弁を弁輪に留める、無数の糸目。そのうちの、たった一針。私は、その結び目に、ごくわずかな“逃げ”を残した。緩めるのではない。ほどくのでもない。ただ、その一針だけが、ある限界の負荷を超えたとき――ふっと、役目を手放すように。
手術台の上では、わからない。術後のエコーにも、映らない。逆流など、起きていないからだ。糸目は、安静時には、きちんと仕事をしている。これから何日も、何週間も、健気に、正常に。院内のリハビリ程度の負荷では、その一針は微動だにしない。
ただ、一度。心臓が本気で血を押し出し、血圧と心拍数が束の間、跳ね上がった、その一瞬にだけ。たとえば、熱い湯に、肩まで身を沈めた、そのときにだけ。その一針は、耐えることを、束の間、やめる。
それが、どういう機序で人を死に至らしめるか。ここには、書かない。書けば、それは設計図になる。私はただ、こう言うにとどめる。私は、その心臓に、時限式の嘘を、一針だけ、縫い込んだ、と。
顔を上げると、向かいで、新村が私を見ていた。
私の手元を、見ていた。
彼は、何も言わなかった。ただ、その目が、あの一針の結び目を、確かに追っていた。見抜いたのか。それとも、私の錯覚か。新村は、静かに、次の糸を私に手渡した。何事もなかったように。共犯の、沈黙だった。
いや、学びの沈黙ですら、もうない。二年前、この男は、自分のメスで、一人の看護師を手術台から返さなかった。あれ以来、彼は、私に教わる側ではない。同じ場所に立って、私の手つきを、確かめているだけだ。
弁の縫着を終え、大動脈を閉じる。心腔内の空気を、時間をかけて、丁寧に抜いた。今回は、一片の気泡も残さない。空気塞栓で、脳をやられては困る。この男は、あくまで、家の風呂で死ななければならないのだ。
大動脈遮断を解除する。冠血流が戻り、復温。止まっていた老いた心臓が、震えながら拍動を再開した。力強い、いい拍動だった。経食道エコーで、新しい弁を確かめる。開放は、良好。逆流は――ない。糸目は、完璧に閉じている。いまは。この穏やかな、眠るような血流のなかでは、私の縫い込んだ嘘は、影も形も見せない。
「完璧です」と、麻酔科医が、モニターを見て言った。
人工心肺を、離脱する。プロタミンを投与し、ヘパリンで薄めた血を、もとの粘度に戻す。蒲生の心臓は、自らの力で、全身に血を送りはじめた。手術は、成功した。誰の目にも、非の打ちどころのない成功だった。
手術室に、小さな安堵が流れた。私は、いつものように無念そうな顔ではなく――今日は、誇らしげな顔を作った。名医の、顔を。
術後の経過は、絵に描いたようだった。数値は、すべて良好。傷の治りも、早い。老いても、蒲生の生命力は、大したものだった。皮肉なことに。
入院のあいだ、私は毎日、蒲生の回診に立った。彼は日ごとに元気になり、そのぶん、横柄さも戻っていった。看護師を顎で使い、見舞客に大声で政局を語り、病室を、ちいさな派閥の会合場所に変えた。私は、そのすべてを静かに見ていた。この男は、あと十日ほどで死ぬ。それを知っているのは、この世で、私ひとりだ。
ある夕方、病室に、小さな女の子がいた。五つか、六つか。ベッドの柵につかまって、蒲生に、折り紙を見せていた。あの、不格好な向日葵を描いた、孫だろう。
蒲生は、その子の前でだけ、別人のように笑っていた。政治家の仮面も、支配者の傲慢も、そこにはなかった。ただの、孫を可愛がる、老いた祖父の顔だった。
「じいじ、もう、げんきになった?」と、その子が訊いた。
「ああ。この先生が、じいじを、治してくれたんだ」蒲生は、私を指した。「な、先生?」
女の子は、私を見上げた。まっすぐな、濁りのない目で。
「せんせい。ありがとう。じいじを、なおしてくれて」
私は、何も、言えなかった。
なおして、などいない。私は、この子の“じいじ”の心臓に、髪一本の嘘を縫い込んだ。この子が、あと十日で泣くように。私の指が、そう決めたのだ。
「……どういたしまして」と、私は、ようやく言った。声が、掠れなかったかどうか、自信がない。
私は、逃げるように病室を出た。廊下で、深く息を吐いた。読むな。関わるな。名前も、顔も、覚えるな。これは、ただの“依頼”だ。ただの、仕事だ。そう、何度も繰り返した。
だが、あの子の「ありがとう」は、消えなかった。心臓に縫い込んだ嘘のように、私の耳の奥に居座って、離れなかった。
二週間後、退院の日。蒲生は、車椅子になど乗らず、自分の足で、廊下を歩いてみせた。
「先生。あんたは、命の恩人だ」蒲生は、私の手を両手で握った。「この礼は、必ずする。ん? 楽しみにしていてくれ」
「どうか、ご無理はなさらず」と、私は言った。「しばらくは、心臓を、いたわってあげてください」
「わかってる、わかってる。もう、若い者には、負けん。――先生も、そろそろ、うちの秘書と、飯でもどうだ。悪いようにはせん」
「……ひとつ、伺っても」と、私は言った。「あの日、お孫さんが、私に、お礼を言ってくれました。ずいぶん、懐いておられる」
「ああ、あれか」蒲生は、相好を崩した。「毎晩、風呂で、背中を流してくれるんだ。あの子と入る風呂が、わしの、いちばんの薬でね」
毎晩、風呂で。
私の胸の奥で、何かが、ひやりと、下がった。
私は微笑んだ。そして、いちばん親切な声で、言い添えた。
「――もう、湯船に浸かっても、大丈夫ですよ。ずっとシャワーだけで、窮屈だったでしょう。いい湯は、心臓の、いちばんの薬です」
嘘だ。この男にとって、いい湯は、薬ではない。引き金だ。
「ただ」と、私は続けた。自分でも、なぜそう言うのか、わからないまま。「最初のひと月ほどは、念のため、お一人で、お入りください。のぼせて倒れられでもしたら、いけない。……お孫さんは、少し、離しておいたほうが」
「なんだ、心配性だな、先生は」蒲生は、笑った。「まあ、いい。言うとおりに、しよう」
言うとおりに、するはずがない。この男は、他人の言うことなど、聞いたためしがないのだ。今夜も、あの子は、じいじの背中を流すだろう。私が縫い込んだ嘘が、いつ目を覚ますとも知らずに。
蒲生を乗せた車が、雨あがりの門を出ていくのを、私は、窓から見送った。
あとは、待つだけだ。
彼が家に帰り、服を脱ぎ、あたたかい湯に、肩まで身を沈める。その一瞬を。
心臓が、安らぎのなかで、ほんの少しだけ強く働く、その一瞬を。
私は、もう、何もしない。すべては、私の手を離れた。あとは、彼の心臓と、私が縫い込んだ小さな嘘とが、二人だけで話をつける。
手術は、成功した。
患者は、これから、死ぬ。
その二つは、私のなかで、少しも、矛盾しない。
ただ――遠ざかる車を見ながら、私は、柄にもなく、一度だけ祈った。どうか、あの向日葵の子が、今夜はじいじと風呂に入りませんように、と。
神を演じる男の、たったひとつの、卑怯な良心だった。
だが、その祈りが、私の手を止めることは、二度となかった。
あなたなら、この祈りを、偽善と呼ぶだろうか。
(第三話 了)
本作はフィクションです。登場する人物・団体・病院・地名・出来事はすべて架空であり、実在のいかなる個人・組織・医療機関とも関係ありません。
一、医療・外科手術・法医学・司法手続き(調査法解剖、死体検案書、関係法令等)に関する描写は、いずれも物語を成立させるための演出です。医学的・法的な正確性を保証するものではなく、現実の手技・手順・制度を忠実に再現したものでもありません。また、作中のいかなる行為についても、その再現・実行を意図し、あるいは推奨するものではありません。
二、本作は、殺人・児童虐待・自殺・毒殺などの重い主題を含みます。これらは物語の主題を描くための表現であり、そうした行為を肯定・助長する意図は一切ありません。
三、専門的・制度的な事項については、必ず各分野の専門家および公的機関の最新の情報をご確認ください。本作の記述をもって、現実の判断の根拠とすることはお控えください。
――この物語は、事実ではなく、物語です。
毎日、22時に投稿予定です。(全10章)
それでは、次の章で、またお会いできますように。
隠岐群青




