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第四章 湯の中

心臓外科医・黒木誠、四十五歳。


彼には、開いた胸の奥から「その人の来歴」を読み取ってしまう才能があった。顔は笑える。言葉は飾れる。だが、心臓だけは嘘をつかない――。法が裁けぬ罪を、彼は手術台の上で、静かに裁いていく。

season2は暗殺者への道へと進み始めた黒木を描いていきます。


生と死、家族、師弟、そして組織の闇へと沈んでいく、後味の悪い医療イヤミスです。手術・死・暴力などの描写を含みますので、苦手な方はご注意ください。どうか、最後の一行まで見届けていただけますと幸いです。

その報せは、夜半に届いた。


電話口の声は、いつもの依頼とどこかちがっていた。硬く、急いていた。


「蒲生剛造が、死にました。自宅の風呂で」


太田は受話器を握ったまま動かなかった。壁の時計が、二時を指していた。

風呂で。

その三文字が、二十六年前のあの風呂場へ太田を引き戻した。健康な心臓の、二児の母。湯に沈められた、二人の妻。見て見ぬふりをした、若い自分。


いけない、と太田は思った。まだ、何も見ていない。死体を見る前に、物語を作るな。それが、あの日の失敗の正体だ。決めつけたのではない。決めつけずに、楽なほうへ流されたのだ。


太田は上着を掴んで部屋を出た。向かいの椅子は、今夜も空いたままだった。

蒲生の邸宅の前は、報道の車で埋まっていた。二週間前に手術を報じた、あの同じ車が、今度は死を報じるために来ている。

門の内で太田を待っていたのは佐伯だった。あの偏屈な法医学者を、もう疑わなくなった刑事だ。


「先生。夜分に、すみません」

「事件性は」と太田は訊いた。

「ないでしょうね」佐伯は渋い顔をした。「持病持ちの年寄りが、手術のあと、風呂でぽっくり。不審な点は、どこにもない。遺族も、警察も、みんな、そう見てます」

「だが、あんたは、私を呼んだ」

「……先生の鼻が、気になって」佐伯は頭を掻いた。「今回だけは、外れてくれると助かるんですがね。相手が、相手だ」


太田は答えず、浴室へ向かった。

浴室は静かだった。湯は、とうに抜かれていた。だが、太田には見えた。ここで、何が起きたか。

老人が、肩まで湯に浸かる。あたたかい。心地よい。二週間ぶりの、家の風呂だ。手術を乗り越えた褒美のような、ひととき。

その、いちばん無防備な一瞬に、心臓が止まった。


――ように、見える。


太田は、まだ判断を保留した。物語を、先に作るな。二十六年前の自分に、そう言い聞かせながら。

息子の嫁が、青い顔で証言した。


「義父は、孫と風呂に入るのが、好きで。今夜も、一緒に……でも、のぼせるといけないからって、私が先に、あの子を上げたんです。そのすぐあとに、義父が」


太田はそれを手帳に書き留めた。孫は無事だった。湯から上がったあとだった。ほんの数分の差で。

偶然か。

脱衣所の隅に、子どもの小さなサンダルが揃えてあった。壁には画用紙が一枚、貼られていた。不格好な向日葵の絵。覚えたての字で、「じいじ、げんきになってね」。

太田は、その絵をしばらく見た。この子は、今夜、じいじを失った。二十六年前に太田が見逃した、あの二人目の妻にも幼い子がいた。死は、いつも、こういう小さな者を置き去りにする。


「執刀の先生が」と、嫁が続けた。「退院のとき、わざわざ。お孫さんは、しばらくお風呂で離しておいたほうがいい、って。のぼせると危ない、と。……心配性の、いい先生でした」


太田の、手帳を持つ手が止まった。

なぜ、その医師は、そんな注意をしたのか。よりによって、風呂を名指しで。まるで、風呂で何かが起きると知っていたかのように。


太田は、その一行に線を引いた。

事件性なし――警察はそう見ている。だが、死因がはっきりしないかぎり、調べる筋道はある。佐伯は署長の判断を仰ぎ、死因究明のための解剖の手続きを取った。死因・身元調査法に基づく調査法解剖であれば、遺族の承諾は要らない。蒲生家がどれだけ渋ろうと、この一体だけは太田の解剖台に乗る。表向きは、あくまで、不審な点のない死の、事務的な確認だった。


大学の、法医学教室の解剖室。

太田は、蒲生の胸を開いた。正中の、真新しい傷。胸骨は、ワイヤーできれいに閉じられていた。手術は、つい二週間前。名医の仕事だ。

心臓を露出させる。所見を、頭のなかで並べていく。

人工弁、装着。縫合、整然。弁尖の可動、良好。弁輪への縫着、乱れなし。石灰化した古い弁はきれいに取り除かれ、新しい弁が、寸分の狂いもなく収まっている。

太田は、指で、弁の周りを丹念に辿った。糸の一本、一本を。緩みは、ない。裂けも、ない。感染の兆候も、ない。縫合部から、血が漏れた形跡も、ない。


痕を残さない綻び、というものがあるのだろうか。もし、あるとすれば。それは、生きているあいだにしか存在しない綻びだ。太田は、その考えを、まだ形にならないまま頭の隅に留めた。


人工心肺の傷も、冠動脈も、心筋も、順に見た。どこにも、異状がない。


太田は、うなった。

教科書どおりだった。いや、教科書以上だった。これほど整った術野を、太田はめったに見ない。この手術で人が死ぬ理由が、どこにも見当たらない。

顕微鏡でも見た。組織を薄く切り、染めて、覗いた。それでも、綻びは出てこなかった。


死因は、急性心不全。心臓が、突然、ポンプとして働けなくなった。入浴中の温熱、脱水、循環への負担。持病もあった老人が、術後に風呂で急変した。医学的には、ありふれた、不運な死だ。誰も疑わない。

太田は、死体検案書の様式を思い浮かべた。死因の欄に、たった五文字。急性心不全。そう書けば、すべてが丸く収まる。遺族も、政治も、病院も。そして太田自身も、面倒から解放される。

楽な五文字は、すぐそこにあった。手を伸ばせば、届く場所に。二十六年前も、こうだった。


だが、太田は、メスを置かなかった。


できすぎている。

二週間前、この老人は、国内屈指の名医に心臓を直された。成功した。元気に歩いて、退院した。そして二週間後、その直したばかりの心臓が、家の風呂で、都合よく止まる。

手術は、成功している。それなのに――死んでいる。

太田は、その矛盾を声に出した。


「……できすぎだ」


換気の音だけが、答えた。

死体は、嘘をつかない。この心臓は、二つのことを同時に言っていた。完璧に手術された、と。突然、死んだ、と。ふつう、その二つは両立しない。だが、ここでは両立している。

完璧な手術と、突然の死。太田は、その組み合わせを、前にもどこかで聞いた気がした。腕のいい外科医の手のなかで、数値はすべて良好で、それでも、なぜか死ぬ患者。――嫌な符合だった。


誰かが、この二つを両立させたのだ。太田の直感が、そう告げた。

だが、証拠はどこにもなかった。弁は完璧。技術は完璧。血液の簡易検査にも、毒物は出ない。太田は、髪一本の綻びも見つけられなかった。

あるはずの綻びが、ない。それこそが、太田にはいちばん不気味だった。これほど何も見つからない手術など、二十六年間で一度もなかった。あまりの完璧さこそが、太田が初めて見る異常だった。


完璧すぎる手術は、それ自体が、一つの指紋ではないのか。

解剖を終えた太田を、圧力が待っていた。

学部長室に呼ばれた。太田の、大学での上役だ。窓を背に、学部長は言いにくそうに切り出した。


「太田先生。蒲生さんの件、どう書くつもりですか」

「所見のとおり、書きます」

「……上から、問い合わせが来ていてね」学部長は声を落とした。「政治のほうからも、病院のほうからも。穏便に、と」

「穏便に、というのは」

「事件性なし。急性心不全。それで、通してほしい、ということです」

「証拠は」と太田は訊いた。「私が、他殺だと書く証拠がないように、あなたは、自然死だと言い切る証拠を、持っているんですか」


学部長は答えなかった。しばらく太田の顔を見て、それから、疲れたように言った。


「先生。まさか、事件性あり、とは書きませんよね。相手は、大物議員だ。執刀は、天下の名医だ。マスコミは連日、二週間前の“美談”を繰り返している。ここで他殺の疑いなど書けば、政局が、病院が、みな揺れる。……自然死で、いいでしょう。誰も、幸せになりません」


そして、学部長は、少し声を落とした。


「……私だって、本音を言えば、先生の鼻を、信じたい。だが、私にも、守るものが、ある」


誰も、幸せになりません。

太田は、その言葉を、どこかで聞いた気がした。二十六年前、あの指導教官の言葉に似ていた。遺族の悲しみに寄り添え。憶測で、傷口を抉るな。

あのとき、太田は飲み込んだ。そして半年後、二人目の妻が死んだ。


「考えさせてください」とだけ、太田は言った。


その足で、太田は自分の机に戻り、引き出しから一綴りの書類を取り出した。

数日前に密かに取り寄せた、あの名医の――黒木という医師の、過去の症例記録だった。術後に亡くなった患者の、リスト。

思っていたより、長いリストだった。

資産家。会社役員。老いた実業家。並んだ名前を、太田は指で追った。そのどれもが、「手術は成功」で、「術後、急変」あるいは「原因不明の低心拍出」で片づけられていた。数値は、みな良好だった。それでも、死んでいた。

偶然に、しては。

太田は、その一人ひとりの経歴も、少しだけ調べていた。手帳に、走り書きが並んでいく。


「――邪魔な共同経営者を、事故に見せかけて葬った、という噂」

「――遺産のために、寝たきりの親を、早めた、という噂」

「――昔、賄賂の口封じに、人を一人、消したという噂」


表の顔は、みな立派だ。会社役員。老いた実業家。篤志家。だが、裏を返すと、どこかに、暗い噂の影が差す。まるで、誰かが選んで殺したかのように。


その規則性に、太田は寒気を覚え、そして――認めたくないが、ほんの微かな共感の芽のようなものを感じた。この男は、法が見逃した者を選んで始末しているのではないか。もし、そうなら――そう思いかけて、太田は慌てて打ち消した。私は、裁く側の人間だ。私刑を、暴く側の。だが、打ち消しても、芽は消えなかった。


噂は、証拠ではない。急変は、殺人ではない。太田は、自分にそう言い聞かせた。言い聞かせても、寒気は消えなかった。


もっとも、と太田は、ペンを止めた。


長く生きて、財を成した人間の周りに、暗い噂の一つや二つ、立たないほうが珍しい。それを探しに行けば、たいていは、見つかる。探しているのは、こちらだ。

二十六年前も、そうだった。あのとき太田は、確信して、無実の男を追い詰めた。あれも、事故だった。太田が、そう見たかっただけの。


私は、いま、同じことをしていないか。手術で死んだ、ただそれだけの人々の生涯を掘り返して、そこに、自分の探している形の影を、置いていないか。

その問いに、太田は、答えを持たなかった。ただ、手帳を閉じずに、次の一行を書き足した。


太田は、書類を静かに閉じた。閉じても、いま読んだ数字の並びが、瞼の裏に残っていた。

廊下で、佐伯が待っていた。


「先生。所見、どうします」

「まだ、決めていない」

「……正直に、言います」佐伯は声を落とした。「今回は、やめときましょう。相手が、悪すぎる。先生の鼻が当たってても、証拠がなきゃ、潰されるのは、こっちだ。先生の、これまでの功績も、ぜんぶ」

「あんたまで、そう言うのか」

「先生を、心配してるんです」佐伯は目を逸らした。「死んだ議員は、もう帰ってこない。生きてる先生を、失いたくない」


太田は、答えなかった。

佐伯は、太田の手にある手帳へ手を伸ばした。取り上げようとするように。だが、その手は、手帳を、そっと太田の手のほうへ押し戻した。止めながら、渡していた。その矛盾した仕草こそが、この不器用な刑事の本音だった。信じている。だが、失いたくない。その両方が、佐伯の中にあった。


佐伯の言うことは、正しかった。正しすぎた。二十六年前も、みんな、正しいことを言った。遺族に寄り添え。証拠もないのに騒ぐな。事を、荒立てるな。みんな、優しくて、正しかった。そして、女が一人、湯のなかで死んだ。

正しさは、ときどき、人を殺す。太田は、それを知っている。


その夜、太田はまた、教室に一人だった。

冷めた茶。窓の外の、雨。


太田は手帳を開き、線を引いたあの一行をもう一度読んだ。執刀医が、風呂を名指しで警告した、という一行を。

なぜ、風呂だとわかったのか。

のぼせる。温まる。心臓に、負担がかかる。――それだけなら、一般論だ。だが、あの医師は、孫まで名指しで、離せと言った。まるで、その場所で、その一瞬に、何かが起きると確信していたように。

答えは、一つしか思いつかなかった。

引き金の在り処を知っていたのは、引き金を据えた者だからだ。


だが――と、太田は思った。それを、どう証明する。弁は、完璧なのだ。技術は、教科書どおりなのだ。直感だけでは、誰も動かせない。

それを覆すには、手術そのものを見るしかない。あの日、あの手術室で、あの医師の手が何をしたのかを。


太田は、電話を取った。


「帝都大学附属病院の、手術記録を請求したい。蒲生剛造の、大動脈弁置換術。……ええ。カルテだけじゃ、足りない。術中の映像も。麻酔記録も、体外循環のログも。すべて、です」


受話器の向こうが、一瞬、沈黙した。それから、渋々、承知した。

死因を確定させるまでは、これは越権ではない。私の、解剖医としての仕事は、まだ終わっていない。太田は、その一線だけを盾にした。


死体は、嘘をつかない。だが、この死体は、もう語り終えた。

次に口を開かせるのは、あの日の、手術室だ。

誰も幸せにならない選択を、太田は、今夜も選ぼうとしていた。



もう、飲み込まない。二度と。



(第四話 了)


本作はフィクションです。登場する人物・団体・病院・地名・出来事はすべて架空であり、実在のいかなる個人・組織・医療機関とも関係ありません。


一、医療・外科手術・法医学・司法手続き(調査法解剖、死体検案書、関係法令等)に関する描写は、いずれも物語を成立させるための演出です。医学的・法的な正確性を保証するものではなく、現実の手技・手順・制度を忠実に再現したものでもありません。また、作中のいかなる行為についても、その再現・実行を意図し、あるいは推奨するものではありません。


二、本作は、殺人・児童虐待・自殺・毒殺などの重い主題を含みます。これらは物語の主題を描くための表現であり、そうした行為を肯定・助長する意図は一切ありません。


三、専門的・制度的な事項については、必ず各分野の専門家および公的機関の最新の情報をご確認ください。本作の記述をもって、現実の判断の根拠とすることはお控えください。


――この物語は、事実ではなく、物語です。


毎日、22時に投稿予定です。(全10章)

それでは、次の章で、またお会いできますように。


隠岐群青

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