第五章 正しすぎる手術
心臓外科医・黒木誠、四十五歳。
彼には、開いた胸の奥から「その人の来歴」を読み取ってしまう才能があった。顔は笑える。言葉は飾れる。だが、心臓だけは嘘をつかない――。法が裁けぬ罪を、彼は手術台の上で、静かに裁いていく。
season2は暗殺者への道へと進み始めた黒木を描いていきます。
生と死、家族、師弟、そして組織の闇へと沈んでいく、後味の悪い医療イヤミスです。手術・死・暴力などの描写を含みますので、苦手な方はご注意ください。どうか、最後の一行まで見届けていただけますと幸いです。
書類は、翌朝、届いた。
厚い封筒だった。帝都大学附属病院から。太田が請求した、蒲生剛造の手術記録。カルテの写し。麻酔記録。体外循環のログ。病理標本の報告書。
早い、と太田は思った。早すぎる。
あれほど渋った相手が、一晩で、紙は、そっくり寄こした。ただし、映像だけは、なかった。
「術中記録映像については、個人情報保護の観点から、確認中」。一枚の、事務的な断り書きが、添えられていた。
紙は、いくらでも見せる。映像は、見せない。太田は、その意味を、しばらく考えた。
協力的すぎる、とも思った。請求から、一晩。これだけの書類を、これだけ綺麗に揃えるには、ふつう、何日もかかる。まるで、いつでも出せるように、あらかじめ、整えてあったかのようだ。見せてもいい紙は、もう、用意ができている。見せたくない映像だけを、伏せている。
差し出された完璧さは、たいてい、何かを隠すための、目くらましだ。太田は、二十六年の経験で、それを知っていた。
書類を、机に広げた。
まず、手術記録。執刀医の署名。黒木誠。達筆な、迷いのない字だった。
所見を、追っていく。大動脈弁置換術。標準的な術式。胸骨正中切開。人工心肺。大動脈遮断。心筋保護。石灰化した弁の切除。人工弁の縫着。離脱。プロタミン。止血。閉創。
どこにも、逸脱がない。時間も、標準内。出血量も、少ない。合併症の記載も、ない。
次に、麻酔記録。血圧、心拍、酸素。すべての波形が、教科書のように、なだらかだった。危ない場面は、一つもない。
体外循環のログ。送血、脱血、灌流圧。数字が、整然と並ぶ。乱れは、ない。
最後に、病理標本の報告書。切り取られた、蒲生の古い弁。石灰化。狭窄。手術の適応は――あった。ぎりぎり、あった。
そこで、太田の指が、止まった。
病理の所見と、術前のエコーの数値が、どこか、噛み合わない。
切り取られた弁は、記録が言うほど、ひどくはなかった。もっと軽い。急いで胸を開くほどでは、ない。
カルテの数字が、少しだけ、大きい。あるいは、標本のほうが、少しだけ、軽い。どちらかが、ずれている。
太田は、術前のエコー画像を、取り寄せて、見比べた。計測値は、たしかに、重症を示していた。だが、その計測の当て方は、いくらでも、恣意的にできる。角度を、ほんの少し、変えるだけで。数字は、いくらでも、重くできる。
実際、エコーの計測値は、標本の実測より二割ほど重く見積もられていた。手術の必要が、ぎりぎりある、ように見えるちょうどの重さに。
この検査を、読んだのは、誰か。数字を、確定させたのは、誰か。改ざん、とまでは言えない。だが、「そう読もうと思えば、そう読める」範囲の、いちばん重いところを、誰かが選んでいた。
その差は、わずかだった。個体差、と言われれば、それまでだ。証拠には、ならない。
太田は、それも、手帳に書き留めた。手術の“必要”を、あとから、こしらえた者がいる。線を、引いておいた。
紙のうえでは、この手術は、完璧だった。
調べれば調べるほど、どの数字も、「正しい手術」だと証言していた。太田が集めた物証は、すべて、シロを指していた。
だが、太田の鼻は、クロだと言っていた。
科学と直感が、これほど真っ向から食い違うのは、二十六年で、初めてだった。
完璧すぎる、と太田は思った。人は、ここまで、完璧にはなれない。この完璧さこそが、不自然だ。指紋を一つも残さない部屋は、掃除された部屋だ。
太田は、手術室にいた人間に、会おうとした。
まず、麻酔を担当した医師。電話は、事務方が受けた。「当日の詳細は、記録がすべてです」。それ以上は、取り次がなかった。
次に、器械出しの看護師。師長を通して、面会を申し込んだ。返事は、翌日に来た。
「本人が、体調を崩し、しばらく休職します」。
太田は、静かに、受話器を置いた。だが、指先だけが、震えていた。誰も、口を開かない。開かせない。
病院という建物が、静かに、貝のように、閉じていくのがわかった。名医の手術に、傷をつけたくない。組織は、そのために、一枚岩になる。悪意ではない。保身だ。保身は、悪意よりも、ずっと固く、ずっと動かしがたい。
紙は完璧で、人は黙る。残るのは、太田の直感だけだ。そして直感は、法廷では、一円の価値もない。
昼過ぎ、学部長が、また太田の部屋に来た。前より、顔色が悪かった。
「太田先生。……もう、いいでしょう」
「まだ、映像を、見ていません」
「その映像のことで、上が揉めている」学部長は、声を潜めた。「病院が渋っている。個人情報だ、遺族の同意が、と。……正直に言う。私のところにも電話が来た。知らない番号からだ。穏便に、とだけ言って、切れた」
知らない番号。名乗らない声。
太田は、その向こうにいる、顔のない手を思った。紙の完璧さも、映像の出し渋りも、その手が書いている物語の、一部ではないのか。
その手は、黒木だけでなく、太田自身をも、いつのまにか動かしているのかもしれない。追わされているのか、追っているのか。ふと、その境目が、わからなくなった。
誰かが、もう、結末を決めている。事故。自然死。不運な、めでたくない、けれど、収まりのいい死。あとは、それに合う証拠だけを、残していけばいい。合わない証拠は、「確認中」のまま、消えていく。
二十六年前と、同じだ。あのときも、みんなが、収まりのいい物語を選んだ。そして、女が一人、死んだ。
太田は、学部長の顔を見た。この男も、悪人ではない。ただ、疲れている。守るべき家族と、住宅ローンと、あと数年の定年を、抱えている。その全部を天秤にかければ、他人の死の真実など、あまりに軽い。
みんな、そうやって、少しずつ、目を伏せる。一人ひとりの、ささやかな保身が、集まって、大きな嘘になる。誰も、嘘をついていない。それなのに、真実だけが、静かに、埋められていく。
制度は、そうやって、都合のいい物語を書く。書いたそばから、それが、事実になる。
「考えさせてください」と、太田は、また言った。学部長は、ほっとしたような、それでいて後ろめたそうな顔で、部屋を出ていった。
その日の夕方。太田が院を出ると、門の前に、一人の男が立っていた。
よれたコート。安い鞄。無精髭。若くはないが、老いてもいない。目だけが、妙にぎらついていた。
「太田先生。少し、お時間を」男は、名刺を差し出した。「羽賀といいます。もの書きです」
週刊誌の名が刷ってあった。三流の、暴きもの専門の誌名だ。
「蒲生剛造の死に、興味は、ありませんか」羽賀は言った。「表向きは、病死。名医の手術のあとの、不運な急変。……でも先生。あなた、まだ、検案書に判を押してませんね」
太田は、答えなかった。
「なぜ、押さないんです」羽賀は、一歩、踏み込んだ。「押せば、終わる。誰も困らない。なのに、押さない。その“押さない理由”が、俺の飯の種なんですよ」
太田は、この男を値踏みした。ジャーナリスト、と呼ぶには、薄汚れていた。金と特ダネのために、他人の死を掘り返す種類の男だ。
だが――その目の奥に、太田は、見覚えのあるものを見た。誰にも相手にされない話を、一人で追いかける者の目。かつての自分に、少し似ていた。
「まだ、話すことはない」と太田は言った。「だが、一つだけ、訊く」
「なんです」
「もし、これが、ただの病死でなかったとしたら。あんたは、それを書けるのか。相手が、どれほど大きくても」
「――それとも、あんたも、書ける相手を選ぶ口か」
太田の、その一言に、羽賀は、一瞬、目を細めた。
羽賀は、にやりと笑った。前歯が、一本、欠けていた。
「書けるも何も。俺にはもう、失うものがないんでね」
彼は、コートのポケットから、皺くちゃの記事の切り抜きを出した。自分で書いた記事だという。三年前。ある製薬会社の、隠された副作用死。羽賀は、それを、一人で追い、書いた。だが、雑誌は、広告主に配慮して、記事を握り潰した。羽賀は、職を失った。
「証拠は、あった。裁判にも、できたはずだ。でも、潰された。金と、力に。……あのとき、学んだんです。真実ってやつは、証明できても、勝てない。勝つのは、いつも、でかい声のほうだ」
羽賀は、切り抜きを大事そうにしまった。
「だから俺は、もう、証明にはこだわらない。書いて、世間に、問う。それだけです。裁判に負けても、世間が“怪しい”と思えば、それで、俺の勝ちだ」
太田は、この男が自分とは逆の生き物だと思った。太田は、証拠がすべての世界に生きている。羽賀は、証拠などいらない世界に生きている。だが、二人とも、同じものを見ていた。誰も見ようとしない、死の、その裏側を。
「先生こそ、どうなんです」羽賀は、最後に言った。「あんたには、まだ、失うものが、あるでしょう。地位も、名誉も。……それでも、判を、押さずにいる。なぜです」
太田は、答えずに、背を向けた。だが、その問いは、背中に、刺さったまま残った。
太田自身、答えられなかった。判を押さない理由が、正義感だけなのか、二十六年前の自分への言い訳なのか。自分でも、もう、わからなくなっていた。
その夜、太田はまた、教室に一人だった。
机の上の、完璧な書類。そのどれもが、シロと言う。
紙は、嘘をつく。人が書いたものは、いくらでも嘘をつく。整えられる。都合よく。この完璧さこそが、人の手が入った証だ。
あの解剖台の肉体は、取り繕えない。だが、蒲生の死体は、もう、語り終えた。切るべきところは、すべて切った。
残っているのは、一つだけ。あの日の、手術室の、生の映像。編集されていない、そのままの、あの男の手の動き。答えは、そこにしか、ない。
太田は、もう一度、黒木の過去の死亡例リストを、開いた。成功、急変。成功、急変。同じ二文字が、何度も、繰り返されていた。もし、蒲生の映像に、たった一つでも、説明のつかない手の動きがあれば。このリスト全体が、別の意味を、持ちはじめる。
だが、映像を渡さなければ、それは永遠に、ただの「成功例」のままだ。だから、渡さない。太田には、その論理が、痛いほど、見えた。
太田は、電話を取った。今度は、学部長でも大学の上層部でもなく――正式な開示請求の窓口に、かけた。
「蒲生剛造の、大動脈弁置換術の、術中記録映像。完全な、無編集のものを、請求します。個人情報、確認中、という理由での留保は、認めません。法的根拠は、死因究明のための、正式な解剖です。……ええ。全部です。一秒も、飛ばさずに」
相手が、渋るのが、伝わってきた。一介の解剖医の立場だけでは、他院の記録までは、強制できない。それは、太田も、承知していた。
「応じなければ」と、太田は、静かに続けた。「佐伯を通して、令状を取る。今度は、任意では、終わらせない」
受話器の向こうが、長く沈黙した。
紙は、嘘をつく。死体は、もう黙った。
だが、映像は――あの日あの手術室で、実際に何が起きたかだけを映している。編集さえ、されていなければ。
太田は、そう信じていた。信じるしか、なかった。
それが、あの羽賀という男のいう“でかい声”に、たった一人で抗う方法だった。
正しすぎる手術には、正しすぎる嘘が、似合う。
(第五話 了)
本作はフィクションです。登場する人物・団体・病院・地名・出来事はすべて架空であり、実在のいかなる個人・組織・医療機関とも関係ありません。
一、医療・外科手術・法医学・司法手続き(調査法解剖、死体検案書、関係法令等)に関する描写は、いずれも物語を成立させるための演出です。医学的・法的な正確性を保証するものではなく、現実の手技・手順・制度を忠実に再現したものでもありません。また、作中のいかなる行為についても、その再現・実行を意図し、あるいは推奨するものではありません。
二、本作は、殺人・児童虐待・自殺・毒殺などの重い主題を含みます。これらは物語の主題を描くための表現であり、そうした行為を肯定・助長する意図は一切ありません。
三、専門的・制度的な事項については、必ず各分野の専門家および公的機関の最新の情報をご確認ください。本作の記述をもって、現実の判断の根拠とすることはお控えください。
――この物語は、事実ではなく、物語です。
毎日、22時に投稿予定です。(全10章)
それでは、次の章で、またお会いできますように。
隠岐群青




