第六章 裁いたのは誰か
心臓外科医・黒木誠、四十五歳。
彼には、開いた胸の奥から「その人の来歴」を読み取ってしまう才能があった。顔は笑える。言葉は飾れる。だが、心臓だけは嘘をつかない――。法が裁けぬ罪を、彼は手術台の上で、静かに裁いていく。
season2は暗殺者への道へと進み始めた黒木を描いていきます。
生と死、家族、師弟、そして組織の闇へと沈んでいく、後味の悪い医療イヤミスです。手術・死・暴力などの描写を含みますので、苦手な方はご注意ください。どうか、最後の一行まで見届けていただけますと幸いです。
追われる、というのが、どういうことか、知っているか。
背中に、目を感じることだ。
振り返っても、そこには誰もいない。だが、確かに、誰かが見ている。自分の足跡を、一つずつ辿ってくる者がいる。その気配は、消えない。眠っていても、食事をしていても、メスを握っていても。ずっと、背中に貼りついている。
私は、その感覚を、二年ぶりに思い出していた。
教えてくれたのは、新村だった。
「先生」ある日の夕方、彼は、医局で私に囁いた。「妙な男が、動いています」
「妙な男」
「法医学者です。太田、といったか。蒲生さんの手術記録を、請求してきました。カルテだけじゃない。麻酔記録も、体外循環のログも。……術中の映像まで」
私は、手にしていたカルテを閉じた。
「病院は、渋っています」新村は続けた。「個人情報だ、と。でも、あの男、令状をちらつかせているようで。時間の問題かと」
「新村」と私は言った。「おまえは、どう思う。あの映像に、何か映っていると思うか」
新村は、少しだけ微笑んだ。
「さあ。ぼくには、何も。……ただ、先生の手技は、いつも完璧です。映像を、何度巻き戻しても、きっと、何も見つからない。ぼくが、そう思うくらいですから」
その言い方は、慰めのようで、脅しのようでもあった。おまえの仕事に、瑕はない。だから、案じるな。だが同時に――万一、何か映っていたとしても、それを見抜けるのは、おまえと私だけだ。そう、言っているようにも聞こえた。
映像を、見るつもりか。あの、手術の。
私は、自分の心臓が、ほんの少し速く打つのを感じた。だが、それは、恐怖ではなかった。もっと別のものだった。
高揚していた。私は、追われることに、高揚していた。
同時に、私は、別の視線も感じていた。
この数日、病院の廊下で、あの男を、何度か見かけた。理事会の関係者だという、あの、片足を引きずる男。手術の日、手術室の隅から、私を見ていた男だ。いまは、私が太田に嗅ぎ回られていないか、それを見張っている。氷室の目として。
一度、廊下ですれ違った。男は、私に軽く頭を下げた。
「……お疲れ様です、先生」
それだけだった。だが、その一言に、氷室の見えない手の重みが、こもっていた。忘れるな。おまえは、見られている、と。
つまり、私は、二つの視線に挟まれている。前から、太田。後ろから、氷室。追う者と、飼う者。私という一本の刃は、その二つの視線のあいだで、宙づりになっていた。
どちらに転んでも、無傷では済まない。それでも、私の心は、妙に澄んでいた。長いこと、忘れていた感覚だった。何かが、動きだす。止まっていた時間が、また、流れはじめる。その予感が、私を、どこか生き返らせていた。
最後に、この感覚を味わったのは、二年前だ。
相馬という、看護師がいた。私の手術記録を、密かに読み返し始めた女。私が何をしているかに気づいた、ただ一人の人間だ。彼女は、証拠を集め、私を告発しようとした。
あの女も、こうやって、私の背中に貼りついていた。
そして――死んだ。私の、手術室で。
彼女がどうなったかを、私は知っている。知らないふりが、できる立場ですらない。あの日、執刀したのは新村で、指導医の欄には私の名があった。検討会の記録の、承認の判まで、この手で押した。
私が知らないのは、そこから先だ。誰が、彼女をあの台に乗せたのか。
三十八歳の、外科的な緊急性の乏しい弁膜症が、なぜ、最も難易度の高い症例として私に割り当てられたのか。あの検査値を、誰が、誰の指示で、少しずつ重症の側へ寄せたのか。
その夜、私は、久しぶりに、三階の更衣室へ降りた。
消灯後の病棟は、静かだった。看護師の更衣室の、いちばん端。相馬のロッカーは、まだ、そこにあった。名札の差し込みだけが抜かれ、空白になっている。だが、扉には、彼女が貼っていた小さなシールの粘着痕が、うっすらと残っていた。二年、誰も剥がさなかった痕だ。
把手に手をかけると、鍵は、かかっていなかった。開けた。中は、空だった。きれいに、何も残っていない。私物の一つも。読みかけの文庫本も、預けられた指輪も、どこへ行ったのか。
翌日、私は、人事の古い名簿を、口実をつけて繰った。相馬の欄には、退職の日付だけが、几帳面に入っていた。その二か月後に、彼女はこの病院で死んでいる。だが、名簿は、退職の一行で終わっていた。まるで、辞めたあとの二か月は、どこにも存在しなかったかのように。
誰かが、彼女の来歴を、書類の上で、きれいに畳んだのだ。
私は、名簿を閉じた。あの日の手術室のことを、私は、細部まで思い出せる。無影灯の位置も、新村の手つきも、モニターが平らになった時刻も。思い出せないのは、その前の彼女だ。二年、私と同じ部屋で働いていた女の、笑った顔が、もう出てこない。思い出さないように、してきたからだ。それも、私の、卑怯さの一つだった。
太田という男は、相馬の、次に来た者だ。二人目の、猟師。
ただし、相馬とは、扱いが違う。太田は、大学法医学教室の教授という公的な肩書と、佐伯という監視者を持っている。相馬のように、症例に仕立てて手術台へ乗せるには、あまりに目立ちすぎる。だから、まだ、生きている。皮肉なことに、彼を守っているのは、彼が公の人間だという、その一点だけだった。
今度は、どういう形で来るのだろう。手術台か、それとも、別のどこかか。そして、そのとき、私は、また見ないふりをするのか。相馬のときのように。
太田が私を追う理由は、わかっている。蒲生の死だ。
あの、老いた政治家。私は、彼を、裁くに値する男だと自分に言い聞かせてきた。
依頼を受けたあと、私は、蒲生の過去を、さらに掘った。四十年前の、崩れたビル。握り潰された報告書。その裏に隠された、もっと多くの死。
出てくる、出てくる。蒲生剛造という男の足元からは、いくらでも死者が出てきた。彼が踏みつけてきた、名もない人々が。
崩れたビルの下敷きになった、七人。その遺族への、口止め。関わった役人の、不審な転落死。証言者の、突然の失踪。四十年のあいだに、蒲生の周りでは、ずいぶん多くの人が、都合よく死んでいた。
ほら。やはり。この男は、裁かれるべきだった。私は、正しいことをしたのだ。
――だが。
私は、ふと、手を止めた。
なぜ、これほど都合よく、証拠が出てくるのか。四十年、誰も掘り起こさなかったものが、私が依頼を受けた途端に、次々と手元へ集まってくる。あの、差出人のない封筒。几帳面に折られた、切り抜き。あの折り目は、新村の癖と、どこか似ていた。いや――似せて、あったのか。まるで、誰かが、あらかじめ掘って揃えて、私が見つけやすいように並べておいたかのように。
私が、蒲生を「裁くに値する」と思い込むように。気持ちよく、手を汚すように。
私は、裁く者では、ないのかもしれない。氷室が――あの顔のない依頼主が、私に裁いた気分を味わわせているだけ、なのかもしれない。餌を撒かれ、それに食らいつく。私は、よく躾けられた猟犬だ。獲物を自分で選んだつもりで、その実、飼い主の指さす方向にしか、牙を剥けない。
いや。もっと悪い。私は、飼い主が「悪者だ」と言えば、それを、疑いもせず信じたがる。信じれば、殺すことが、正義になるからだ。私の手を汚しているのは、蒲生の罪ではない。私自身の、正義への渇きだ。
私は、裁く者だ。そう思い込んでいるほうが楽だと、前に言った。だが、君は、もう気づいているのだろう。私が、ただ、そう思い込みたいだけの、哀れな犬だということに。
もう一つ、私を離さない疑いが、ある。
なぜ、氷室は、この殺しを、私にやらせたのか。
蒲生を消すだけなら、もっと確実で、目立たない手が、いくらでもあった。それを、あえて、私の手術で。衆人環視の、手術台で。まるで、蒲生の死そのものより、私にこれをやらせること自体に、意味があるかのように。
私を、より深く汚すため、か。二度と逆らえないように。あるいは――いつか、私自身を切り捨てるための口実を、積み上げているのか。腕のいい人殺しも、危うくなれば、始末される。次の、誰かの手で。
わからない。わからないことが、多すぎる。
これまでの私なら、ここで、目を逸らしていた。考えるのをやめ、与えられた仕事だけを、こなしていた。そのほうが、楽だからだ。知らずにいれば、私は、ただの腕のいい医者でいられる。
だが、今度は、逸らさない。
なぜ、今度だけ、逸らせないのか。私にも、うまく説明できない。
ただ、あの子の声が、消えないのだ。せんせい。ありがとう。じいじを、なおしてくれて。手術のあと、病室で、私にそう言った、蒲生の孫。あの、まっすぐな目。私が、その"じいじ"を殺したことを知らずに、私に礼を言った子。
私は、これまで、何人も殺してきた。だが、殺した相手に、礼を言われたのは、初めてだった。その一言が、私の中の、目を逸らすための都合のいい膜を、破ってしまった。もう、見ないふりが、できない。自分が、何をしているのかを。誰の手のひらの上で、踊っているのかを。
私は、初めて、自分から答えに近づきたいと思った。誰が、私を動かしているのか。その顔のない手を、この目で見てやりたい。
そして、そのためには、まず、あの男に会わなければならない。私を追っている、二人目の猟師に。太田正敏に。
奇妙なことだった。私を破滅させるかもしれない男に、私は、会いたがっている。
捕食者が、初めて、自分と同じ目をした獲物に興味を抱いていた。いや――どちらが捕食者で、どちらが獲物なのか。それすら、もうわからなかった。
簡単なことだ、とも思った。
相馬のときと、同じにすればいい。あの男が、映像にたどり着く前に。氷室に、一言、伝えればいい。太田正敏という男が、目障りだ、と。もっとも、相馬のようには、いかないだろう。太田は、目立ちすぎる。それでも、氷室なら、事故の一つくらい作れる。私は、また、見ないふりをして生き延びる。
私は、いつのまにか、拳を握りしめていた。
私は、その考えを、じっと見つめた。
そして、それを選ばない自分に、気づいた。
太田を、消したくなかった。あの男にだけは、私の手術を、最後まで見てほしかった。私が、何をしたのかを。たった一人でいい。この世界に、私の罪を、正しく読み取る者がいてほしかった。
それが、私の、いちばん深いところにある望みだと、初めて認めた。裁かれること。誰かに、ごまかしようもなく、裁かれること。それは、母にも、桐生にも、この白い建物にも、ずっと許してもらえなかった、たった一つのことだった。
私は、太田正敏という男を、個人的に調べさせた。病院を通せば、話は氷室に筒抜けになる。だから、そうはしなかった。
この街の大学で、法医学教室を預かる男。偏屈で、妥協を知らない、と評判の、老いた法医学者。二十六年前に一度、大きな失敗をして、以来、直感を決して手放さなくなった男。かつて、見て見ぬふりをして、一人の女を死なせた。その罪を、二十六年、背負い続けている。
私と、少し似ている。過去に囚われ、その過去に、人生を作り替えられた男だ。私が、姉の死に囚われたように。
彼は、死体を読む。私は、心臓を読む。彼は、死んでから読む。私は、生きているうちに読む。正反対の場所に立って、私たちは、同じものを見ようとしている。人の胸の奥に、隠された、本当の来歴を。
もし、私たちが、別の人生を歩んでいたら。友になれたのかもしれない。あるいは、私は、彼のような人間に、裁かれる側であるべきだったのかもしれない。
だが、いま私たちは、狩る者と狩られる者として向き合う。
会ってみよう、と私は思った。その法医学者に。手術の説明をしたい、と口実をつくれば、拒みはしないだろう。彼は、私の口から、何かを引き出したがっているはずだ。私も、彼から引き出したい。氷室にたどり着くための、糸口を。
私を裁こうとする者と、私が裁いてきたもの。その二つが、初めて、同じ部屋で向き合う。
――さあ。
君なら、どうする。逃げるか。それとも、私のように、自分を殺しに来る相手に、会いに行くか。
もっとも、この問いは、君にではなく、私自身に向けたものなのかもしれない。
(第六話 了)
本作はフィクションです。登場する人物・団体・病院・地名・出来事はすべて架空であり、実在のいかなる個人・組織・医療機関とも関係ありません。
一、医療・外科手術・法医学・司法手続き(調査法解剖、死体検案書、関係法令等)に関する描写は、いずれも物語を成立させるための演出です。医学的・法的な正確性を保証するものではなく、現実の手技・手順・制度を忠実に再現したものでもありません。また、作中のいかなる行為についても、その再現・実行を意図し、あるいは推奨するものではありません。
二、本作は、殺人・児童虐待・自殺・毒殺などの重い主題を含みます。これらは物語の主題を描くための表現であり、そうした行為を肯定・助長する意図は一切ありません。
三、専門的・制度的な事項については、必ず各分野の専門家および公的機関の最新の情報をご確認ください。本作の記述をもって、現実の判断の根拠とすることはお控えください。
――この物語は、事実ではなく、物語です。
毎日、22時に投稿予定です。(全10章)
それでは、次の章で、またお会いできますように。
隠岐群青




