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第七章 二人の“嘘をつかない”

黒木誠は、思っていたより静かな男だった。


太田は、帝都大学附属病院の小さな面会室で、その男と向き合っていた。名目は、解剖所見の確認。蒲生剛造の死因について、執刀医から話を聞く。それだけのはずだった。


だが、部屋に入った瞬間から、太田にはわかっていた。これは、確認ではない。狩りだ。互いの。


太田が、この面会を申し込んだのではない。黒木のほうから、話をしたい、と言ってきたのだ。手術について、遺族に代わって説明させてほしい、と。表向きは、誠実な名医の申し出だった。


だが、追われている人間が、追う者を自分から呼ぶ。その不自然さに、太田はむしろ身構えた。相手は、こちらの手の内を探りに来ている。ならば、こちらも探る。太田は、そう決めてこの部屋に来た。


斜めに走る、古い傷痕。片側だけ白くなった髪。そして、目。

ニュースで見た、あの目だった。患者を見る医者の目ではない。もっと別の――獲物を、あるいは標本を見る目。太田が、解剖台の上で死体に向ける目に、よく似ていた。


二人は、しばらく無言で向き合った。互いに、相手の顔を読もうとして。そして、互いに、それが簡単には読めない相手だと悟った。太田は、生者の嘘を、いくらでも見抜いてきた。黒木は、その嘘を、いくらでも繕ってきた。読む者と、繕う者。その二人が、初めて同じ卓に着いていた。


「わざわざ、ご足労を」黒木は、穏やかに言った。「蒲生さんのことは、私も残念でなりません。あれほど、経過が良かったのに」

「順調だった、と」

「ええ。手術は、完璧でした。退院のときも、ご自分の足で歩いておられた」黒木は、少しの淀みもなく答えた。「術後二週間での、突然死。……ときに、あります。老いた心臓は、何かの拍子に止まる。医学が、まだすべてを説明できるわけではない」


教科書どおりの答えだった。非の打ちどころが、ない。太田が書類で見た通り。人が口で言う通り。

太田は、その完璧さを、じっと味わった。人は、本当のことを話すとき、こんなになめらかには話さない。どこかで、詰まる。言い淀む。用意された答えだけが、こんなに、つるつると滑っていく。


「弁の状態は、どうでした」太田は訊いた。「術前のエコーでは、かなりの重症だったとか」

「ええ。石灰化が進んでいました。手術は、必要でした」

「妙ですね」太田は、書類をめくった。「私が切り取られた弁を、病理で見たかぎり、そこまでの重症とは。むしろ、数年は待てたように思えました」


黒木の手が、一瞬、止まった。ほんの一瞬。


「……エコーと実物とで、印象が食い違うことは、あります」黒木は言った。「私は、画像を信じて執刀しました。それが、外科医の仕事です」

「画像を、信じた」

「ええ。画像は、嘘をつきませんから」


その一言に、太田は引っかかりを覚えた。だが、まだ糸を手繰らなかった。もう少し、この男に喋らせたかった。


「一つ、伺いたい」と太田は言った。「蒲生さんのご遺族から、聞きました。先生は、退院のとき、妙な注意をされたそうですね」

「妙な、といいますと」

「風呂です。孫と、一緒に入らないように、と。しばらく、一人で入れ、と。……なぜ、風呂を名指しされたんですか」


黒木の表情は、動かなかった。だが、その静けさが、かえって、太田には答えのように思えた。


「入浴は、心臓に負担がかかります」黒木は言った。「温熱。血圧の変動。術後の患者には、一般に注意を促します。それだけのことです」

「なるほど。誰にでも、ですね」

「ええ、どなたにでも」

嘘ではない、と太田は思った。だが、本当でもない。この男は、本当のことの、いちばん外側だけをなぞっている。核心の周りを、真実の皮で、丁寧に包んでいる。

――入浴による血圧の上昇。もし、それが何かの綻びを早めるとしたら。太田の頭の隅で、まだ形にならない仮説が、一瞬、灯って消えた。手術で入れた、あの弁のどこかに。


沈黙が、落ちた。

太田は、決めて踏み込んだ。


「先生は、なぜ、心臓外科医になったんですか」

脈絡のない問いだった。だが、黒木は初めて、かすかに笑った。

「心臓は、嘘をつかないからです」


太田の背筋が、冷えた。


「顔は、笑える。言葉は、飾れる。経歴も、肩書きも、いくらでも繕える」黒木は、静かに続けた。「だが、開いた胸の奥の、あの袋だけは。その人が生きてきたとおりの姿を、しています。傷んだ心臓には、傷んだ理由がある。私は、それを読むのが、好きなんです」


太田は、しばらく、その男を見つめた。それから、言った。


「奇遇ですね。私も、同じです」

「同じ?」

「死体も、嘘をつきません」太田は言った。「生きているうちは、人は、いくらでもごまかせる。善人の顔も、被害者の顔も、作れる。だが、死んで、私の前に横たわったとき。人は、初めて、本当のことだけを語りだす。私は、それを聞くのが、仕事です」


黒木の目の奥で、何かが揺れた。畏れとも、歓びとも、つかないものだった。


「……よく、似ていますね。あなたと、私は」

「ええ。ただ、一つだけ違う」太田は、黒木の目をまっすぐに見た。「あなたは、生きている人を読む。私は、死んだ人を読む。……あなたが読んだ人が、いずれ、私のところへ来る。そういう順番です」


部屋の空気が、凍った。


「面白い、考え方だ」黒木は、静かに言った。「では、逆も言えますか。あなたが読み違えた死体は。あなたが見逃した殺人は。……どこへ、行くんです」


今度は、太田が動きを止める番だった。

二十六年前の、あの風呂場が、脳裏を掠めた。健康な心臓。湯に沈められた、女。見て見ぬふりをした、若い自分。この男は、どこまで知っているのか。あるいは、ただの、まぐれ当たりの一撃か。


「……見逃した死体は」太田は、声を絞り出した。「一生、こちらを見ています。夢の中でも。だから私は、二度と、見逃さない。どんな相手でも」

「どんな相手でも」黒木は、繰り返した。そして、初めて、その笑みに、寂しさのようなものが滲んだ。「羨ましい。あなたには、まだ“二度と”があるんですね」


剣は、一度も抜かれなかった。だが、二人は、確かに斬り結んでいた。言葉の下で。互いの、いちばん柔らかい古傷を、探り合っていた。


「映像を、ご覧になりたいそうですね」やがて、黒木が言った。「手術の、術中記録を」

「病院は、渋っていますが」

「私からも、開示するよう伝えておきます」黒木は、微笑んだ。「どうぞ、何度でも。一秒も飛ばさず、ご覧ください。私の手術には、隠すことなど何も、ありませんから」


太田は、その言葉を受け止めた。

あまりに、寛大だった。追われている人間が、追う者に、証拠を自分から差し出す。まるで、見てみろ、と言わんばかりに。見つけられるものなら、見つけてみろ、と。

その余裕は、二つのうちのどちらかだ。本当に、何も映っていないのか。あるいは――映っていても、絶対に見つからない自信が、あるのか。


いや。太田は、ふと、三つ目の可能性に思い当たった。この男は、もしかしたら、見つけてほしいのではないか。差し出す仕草の底に、そんな奇妙な渇きのようなものが、見えた気がした。捕まえてくれ、と囁いているような。

どちらにしても、太田の背筋を、冷たいものが這い上がった。


「では、拝見します」と太田は立ち上がった。「一秒も、飛ばさずに」

「ええ、どうぞ」黒木も、立ち上がった。そして、ドアの前で、太田を呼び止めた。「太田先生。……もし、何か見つけたら。いちばん最初に、私に教えてくれませんか。私自身、知りたいんです。あの手術で、本当は何が起きたのかを」


奇妙な頼みだった。太田は、答えなかった。だが、その言葉は、廊下に出てからも、耳の奥に残った。まるで、自分の犯した罪を、他人の口から確かめたがっている、罪人のようだった。

面会室を出て、太田は、長い廊下を歩いた。


窓の外は、雨だった。二週間前、蒲生が死んだ夜も、雨だった。


確信は、あった。あれは、殺しだ。あの男は、蒲生を、あの手術台の上で殺した。太田の二十六年の勘の、すべてが、そう告げていた。


だが――証拠は、ない。ひとつも、ない。


紙は、シロ。死体は、シロ。証言も、シロ。残るは、あの映像だけ。そして、その映像を、あの男は自分から差し出すという。つまり、そこにも、何も写っていないのだろう。少なくとも、素人の目には。

勘は、法廷では、一円にもならない。太田は、それを、誰よりも知っていた。

それでも、と太田は思った。それでも、私は見る。あの映像を。一秒も、飛ばさずに。あの男が、そこに何を縫い込んだのかを。


あの、寂しそうな笑みの意味を。


*  *  *


あの男は、危険だ。


太田正敏が去ったあと、私は、しばらく動けなかった。


これまで、私を追った者は、みな、証拠を探していた。記録の、矛盾を。数字の、綻びを。相馬も、そうだった。だが、あの老いた法医学者は、違う。証拠より先に、私を読んだ。目を見ただけで、わかっていた。この男が、人を殺している、と。


恐ろしい男だ。そして――ありがたい男だ。


私は、窓の外の雨を見た。

私は、彼に、映像を差し出すと言った。あれは、油断でも慢心でもない。願いだ。見てほしかった。あの、正直な目で。私が、あの心臓に何をしたのかを。たった一人でいい。私の罪を、正しく読み取る者が、この世にいてほしかった。


最後に、私は口を滑らせた。何か見つけたら、いちばんに教えてくれ、と。言ってから、自分で驚いた。私は、本気でそう望んでいた。自分の罪を、他人の口から聞きたがっている。裁かれることに、飢えている。どこまでいっても、私は、あの待合室の少年のままだ。誰かに、これは罪だと、はっきり言ってほしい。母が、姉が死んだときも、ついに言ってくれなかった、その一言を。


姉が死んだとき、母は、ただ黙っていた。私が母の毒を運んだことも、母自身の罪も、何もかも、その沈黙のなかに沈めて。誰も、私に、おまえは罪を犯した、とは言わなかった。だから私は、それを確かめるために、人を殺し続けているのかもしれない。裁かれることでしか、自分の罪を、信じられないのだ。


だが、彼が、それを証明できないことも、私は知っている。私の一針は、映像には映らない。……固定用の鉗子と、私自身の指の陰に、ちょうど隠れる角度だった。カメラは、天井から術野を見下ろしている。だが、私の手の一瞬の動きまでは、拾えない。彼は、真実にたどり着きながら、それを証明できずに、苦しむだろう。私が、真実を知りながら、誰にも告げられずに、生きてきたように。


私たちは、よく似ている。だから、たぶん、いちばん深く傷つけ合う。


――お前は、どう思う。太田正敏。


自分を裁ける、たった一人の相手に出会うことは、救いだろうか。それとも、いちばん残酷な罰だろうか。



(第七話 了)


本作はフィクションです。登場する人物・団体・病院・地名・出来事はすべて架空であり、実在のいかなる個人・組織・医療機関とも関係ありません。


一、医療・外科手術・法医学・司法手続き(調査法解剖、死体検案書、関係法令等)に関する描写は、いずれも物語を成立させるための演出です。医学的・法的な正確性を保証するものではなく、現実の手技・手順・制度を忠実に再現したものでもありません。また、作中のいかなる行為についても、その再現・実行を意図し、あるいは推奨するものではありません。


二、本作は、殺人・児童虐待・自殺・毒殺などの重い主題を含みます。これらは物語の主題を描くための表現であり、そうした行為を肯定・助長する意図は一切ありません。


三、専門的・制度的な事項については、必ず各分野の専門家および公的機関の最新の情報をご確認ください。本作の記述をもって、現実の判断の根拠とすることはお控えください。


――この物語は、事実ではなく、物語です。


毎日、22時に投稿予定です。(全10章)

それでは、次の章で、またお会いできますように。


隠岐群青

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