第八章 コマ送りの真実
心臓外科医・黒木誠、四十五歳。
彼には、開いた胸の奥から「その人の来歴」を読み取ってしまう才能があった。顔は笑える。言葉は飾れる。だが、心臓だけは嘘をつかない――。法が裁けぬ罪を、彼は手術台の上で、静かに裁いていく。
season2は暗殺者への道へと進み始めた黒木を描いていきます。
生と死、家族、師弟、そして組織の闇へと沈んでいく、後味の悪い医療イヤミスです。手術・死・暴力などの描写を含みますので、苦手な方はご注意ください。どうか、最後の一行まで見届けていただけますと幸いです。
映像は、五日後に届いた。
あの男が約束を守ったのか、あるいは令状の話が効いたのか。どちらでもいい。太田の手元に、いま、あの日の手術室のすべてがあった。無編集の、二時間半。一秒も、飛ばされていない。
太田は、教室のいちばん奥の部屋にこもった。誰にも邪魔されないように。
この一本のために、太田は多くを賭けていた。学部長の制止を押し切り、政治的な圧力を無視し、佐伯に頭を下げて令状の手配まで頼み込んだ。もし、この映像に何も映っていなければ、太田は、ただの老いた偏屈者として笑い者になる。二十六年の勘も、ただの耄碌として片づけられる。
それでも、太田は見なければならなかった。見ないことのほうが、もっと恐ろしかった。
モニターに、手術室が映し出された。天井からの、俯瞰の映像。無影灯の下、青い布に囲まれて、蒲生剛造の開かれた胸があった。まだ、生きて脈打っている、その心臓が。
そして、その傍らに、あの男の手があった。黒木誠の、手が。
太田は、再生ボタンを押した。
手術が、始まる。
胸骨正中切開。人工心肺。大動脈遮断。心筋保護。太田は、医学書を傍らに開き、教科書の記述と画面の中の手の動きを、一手ずつ照合していった。
完璧だった。
黒木の手は、無駄がなく、迷いがなく、美しかった。まるで、指がそれ自体で考えているようだった。何千回と繰り返して、身体に刻み込まれた動き。太田のような素人が見ても、その技術の高さはわかった。
弁の切除。人工弁の縫着。一針、一針。糸をかけ、結び、また、かける。単調な、けれど、寸分の狂いもない反復。
太田は、弁を縫うその工程を、特に注意して見た。もし何か細工をするとしたら、この無数の運針のどこかだ。
だが、どの一針も、同じに見えた。同じリズム。同じ角度。同じ強さ。どこにも、逸脱がない。
最後まで見た。離脱。プロタミン。止血。閉創。手術は、成功していた。画面の中でも、紙の上と同じように。
太田は、巻き戻した。もう一度、見た。
幾晩も、太田は同じ場面を繰り返し見た。特に、弁を縫うあの工程を。半分の速さで。コマ送りで。一つの運針を、何十枚もの静止画に分解して。
何も、なかった。
黒木の手は、どこまでも正しかった。正しすぎるほど、正しかった。
太田の目が充血した。眠れなかった。目を閉じると、瞼の裏で、あの手がまだ動いていた。糸をかけ、結び、また、かける。
食事も忘れた。教室の隅のその部屋は、いつしか、印刷した静止画で埋まっていった。壁も、床も、机も。同じ手の、同じ運針の、無数の断片で。
ふと、太田は怖くなった。
自分は、いま、真実を追っているのか。それとも――ありもしないものを見ようとしているのか。
あの誓いを立てて何年か経ったころ、太田は一度、逆の過ちを犯している。確信して他殺だと言い張り、無実の男を追い詰めた。あれも、事故だった。太田が、そう見たかっただけの。
いま、自分は、また同じことをしているのではないか。この完璧な手術に、ありもしない罪を見ようとして。壁を埋めた静止画は、真実の記録か。それとも、老いた法医学者の妄執の証拠か。
ふと、太田は、ある遺体のことを思い出した。少し前、居間で死んでいた、あの老人。座布団で寝込みを塞がれた、爺さんだ。あのときも、爪のあいだから、見慣れない繊維が一片出てきた。家のどの布とも合わない、病院で使うガーゼか術衣に似た繊維が。意味がわからず、袋に採ったまま番号を振っただけだった。あの一片は、いまも証拠棚のどこかで眠っているはずだ。……なぜ、いま、それを思い出したのか。太田自身にもわからなかった。ただ、その繊維の記憶が、なぜか、この手術の映像と、遠くで細く繋がっている気がした。理由は、まだ掴めないまま。
わからないまま、太田は、また、再生ボタンを押した。
太田は、一人では限界だと悟った。
旧知の心臓外科医に頭を下げた。他大学の、信頼できる男だ。政治とも、帝都大とも無縁の。太田は映像を見せ、この手術におかしなところはないか、と率直に訊いた。
外科医は、二時間、黙って映像を見た。それから、言った。
「見事なものだ。非の打ちどころが、ない。この歳で、こんな手術記録は、めったに見られん。……まあ、組織の微小な弾性変形なんてのは、死んでからじゃ、誰にもわからんがね。……太田さん。あんた、何を疑ってるんだ」
「この手術のあと、患者が死んだ」
「術後の急変だろう。手術とは、関係ない。……少なくとも、この映像からは、そう言うしかない」
「もし」と太田は食い下がった。「もし、この執刀医が、わざと弁に細工をしたとしたら。あんたなら、それを、この映像から見つけられるか」
外科医は、太田をじっと見た。それから、静かに首を振った。
「太田さん。この腕の医者が、もし、本気でそういうことをするつもりなら。……たぶん、世界中の誰にも見つけられんよ。私にも。あんたにも。神様にも、な」
その外科医は、通常の速さで二時間、見ただけだった。コマ送りでは、なかった。太田は、その差に最後の望みを託すしかなかった。誰も、コマの一枚ずつまでは見ない。誰も、そこまで執念深くはなれない。二十六年の贖罪を抱えた者の、ほかには。
ある夜、羽賀が訪ねてきた。
あの三流誌のもの書きだ。どこで嗅ぎつけたのか、太田が映像を手に入れたことを知っていた。
「先生。顔色が、ひどいですよ」羽賀は、壁一面の静止画を見回した。「……こりゃ、まるで、犯人の部屋だ」
「用件は」
「進展は、あるんですか。何か、出ましたか」
太田は、答えなかった。答えられなかった。
「なるほど。出てない、と」羽賀は、にやりと笑った。「先生。俺は、証拠なんか、いらないって言いましたよね。“帝都大の名医の手術のあと、大物議員が不審死。法医学者が、判を押せずにいる”。それだけで、記事になる。世間は、勝手に疑いはじめる」
「憶測で、人を罪人にするのか」
「先生こそ。証拠もないのに、その医者を、殺人者だと思ってる」羽賀の目が、光った。「俺と、あんた。どこが、違うんです」
太田は、言葉に詰まった。だが、一拍おいて、絞り出した。
「……私は、証明できるまで、口を閉じている。お前は、証明できなくても、口を開く。それだけの違いだ」
言いながら、太田は、その違いが日に日に細く頼りなくなっていくのを感じていた。太田も、羽賀も、証明できない何かを、それぞれのやり方で追っている。片方は、証拠のない記事で。片方は、証拠のない確信で。
「……帰ってくれ」とだけ、太田は言った。
羽賀は、肩をすくめて帰っていった。ドアの前で、一度だけ、振り返った。
「俺は、書きますよ。先生が、判を押しても、押さなくても。……ただ、あんたが、何か掴んだんなら。いちばんに、教えてほしいね」
いちばんに、教えてほしい。同じ言葉を、太田は、あの医者からも聞いた。追う者も、追われる者も、みな、太田の口を見ている。太田だけが、真実にいちばん近くて、いちばん動けずにいた。
諦めよう、と何度も思った。
勘は、当たっている。だが、証明できない。それは、この世界では、勘が外れているのと同じことだ。判を押せばいい。急性心不全。それで、すべてが終わる。
だが、太田は押さなかった。あの、二十六年前の湯の中の女が、まだ、こちらを見ていたからだ。
何度目かの、深夜だった。
太田は、また、あの弁を縫う工程をコマ送りにしていた。もう、何百回見たか、わからない。目は、乾ききって痛かった。画面の光だけが、暗い部屋に揺れていた。
そのときだった。
一つの運針と、次の運針の、あいだ。ほんの、コンマ数秒。黒木の右手が、一瞬、止まった。
太田は、再生を止めた。息を、止めた。
いや――止まった、のではない。何か、別の動きをした。ほかの運針とは、リズムの違う、小さなひねり。指先が、糸に、何かをした。ほんの一瞬。瞬き一つ分の。
だが、その決定的な一瞬は、見えなかった。固定用の鉗子の陰。そして、黒木自身の、左手の指の陰。ちょうど、そこに、右手の動きが隠れた。まるで、そこにカメラの死角があると、あらかじめ知っていたかのように。いや――知っていたのだ。あの男は、天井のカメラの位置も、その死角も、すべて計算した上で、そこに手を入れた。
太田の心臓が、跳ねた。指先が、震えた。
ここだ。ここで、何かが起きた。二十六年、研ぎ澄ましてきた勘の、すべてが絶叫していた。ここだ、ここだ、と。
太田は、そのコンマ数秒を、何度も、何度も再生した。コマを、一枚ずつ送った。止まる、動く、隠れる、また、動く。一枚。また一枚。指の陰。鉗子の陰。そして、何事もなかったように、次の、正しい運針へ。
だが、肝心の部分は、いつも影の中だった。何をしたのかは、見えない。ただ、「ふだんと、違う動きを、一つ、した」。それだけが、わかった。
ただ、一つ。鉗子の金属の縁に、ほんの一瞬、何かが反射していた。糸でも、器具でもない、別の何か。それが何かは、わからなかった。太田は、その一枚だけ別に取り分けた。いつか、意味を持つかもしれない一片として。
太田は、その静止画を印刷し、震える手で壁に貼った。矢印を書き込んだ。ここに、何かがある、と。一枚では足りず、その前後の何十枚も、時間軸に沿って並べた。
並べても、影は、影のままだった。
だが、そのとき、太田の中で、もう一つの謎が静かにほどけた。
あの解剖の夜、弁は完璧だった。糸の一本まで、緩みも、裂けもなかった。役目を手放した一針など、どこにもなかった。ずっと、それが腑に落ちなかった。
いま、わかった気がした。このコンマ数秒の“違う動き”が――もし、血圧と心拍が跳ね上がった一瞬にだけ綻び、負荷が去れば、また何食わぬ顔で元へ戻る、そういう類のものだとしたら。心臓が止まり、血の流れを失った死体には、もう、何の痕も残らない。その綻びは、生きて血を押し出している、あの一瞬にしか存在しないのだ。
だから、蒲生の死体は語れなかった。語るべき綻びが、死とともに消えてしまうのだから。太田のいちばん得意な相手が――嘘をつかないはずの死体が――初めて沈黙した。その理由が、それだった。
むろん、仮説にすぎない。証明する術は、どこにもない。だが、太田には、それが真実だとわかった。わかることと、証明できることのあいだには、深く暗い川が流れていた。
だが――と、太田の別の声が言った。
これが、証拠になるか。
外科医は、手術中、何度も手を止める。糸の張りを確かめ、器具を持ち替え、汗を拭う。このコンマ数秒の「違う動き」も、そういうありふれた一つだと言われれば、反論できない。正常の、範囲内。個人の、癖。それで、片づけられる。
太田は、真実を見ていた。この目で、確かに。あの男は、ここで、何かを心臓に仕込んだ。
だが、それを証明する言葉を、太田は一つも持っていなかった。
見えているのに、指させない。指させないものは、この世界では、存在しないのと同じだった。
太田は、椅子に深く身を沈め、天井を仰いだ。
見えているのに、掴めない。それが、いちばん恐ろしかった。
真実は、そこにあった。手を伸ばせば、届きそうな、すぐそこに。だが、指のあいだから、砂のようにこぼれ落ちていく。捕まえた、と思った瞬間に、それは、「正常の範囲内」という、底の見えない砂地の中へ、静かに沈んでいく。
あの男は、それを知っていた。だから、私に映像を渡したのだ。太田は、いまになって悟った。見せても、掴めない。掴めないものを、見せる。それは、いちばん残酷な贈り物だった。真実を目の前に置いて、指一本、触れさせない。あの男は、私を選んで、この地獄に招き入れたのだ。私の目だけが、そこに何かがあるとわかってしまうから。
そして、私にそれを見せることで、あの男自身も、裁かれることを待っているのかもしれなかった。捕まえてくれ、と。二人とも、もう終われない。どちらかが、相手を暴くまで。あるいは、二人とも、暴けないまま、朽ちていくまで。同じ、賭けの中にいた。
死体は、嘘をつかない。映像も、嘘をつかない。嘘をついているのは、いつも、それを読み解けない、生きている、私のほうだ。
太田は、壁の静止画を見た。矢印の先の、影を。
あの影の中に、蒲生剛造を殺した、たった一つの動きが、ある。
そして、それは、永遠に、影の中から出てこないのかもしれなかった。
太田は、目を閉じた。二十六年前の、湯の中の女が、今夜も、こちらを見ていた。何も言わずに。ただ、見ていた。
――間に合わなかった、のか。また。
(第八話 了)
本作はフィクションです。登場する人物・団体・病院・地名・出来事はすべて架空であり、実在のいかなる個人・組織・医療機関とも関係ありません。
一、医療・外科手術・法医学・司法手続き(調査法解剖、死体検案書、関係法令等)に関する描写は、いずれも物語を成立させるための演出です。医学的・法的な正確性を保証するものではなく、現実の手技・手順・制度を忠実に再現したものでもありません。また、作中のいかなる行為についても、その再現・実行を意図し、あるいは推奨するものではありません。
二、本作は、殺人・児童虐待・自殺・毒殺などの重い主題を含みます。これらは物語の主題を描くための表現であり、そうした行為を肯定・助長する意図は一切ありません。
三、専門的・制度的な事項については、必ず各分野の専門家および公的機関の最新の情報をご確認ください。本作の記述をもって、現実の判断の根拠とすることはお控えください。
――この物語は、事実ではなく、物語です。
毎日、22時に投稿予定です。(全10章)
それでは、次の章で、またお会いできますように。
隠岐群青




