第九章 物語を書く者
心臓外科医・黒木誠、四十五歳。
彼には、開いた胸の奥から「その人の来歴」を読み取ってしまう才能があった。顔は笑える。言葉は飾れる。だが、心臓だけは嘘をつかない――。法が裁けぬ罪を、彼は手術台の上で、静かに裁いていく。生と死、家族、師弟、そして組織の闇へと沈んでいく、後味の悪い医療イヤミスです。手術・死・暴力などの描写を含みますので、苦手な方はご注意ください。どうか、最後の一行まで見届けていただけますと幸いです。
太田は、戦おうとした。
あの、コマ送りの映像の中の、コンマ数秒の違和感。それを根拠に。太田は、それを、一つの事件に、しようとした。
勝ち目が、薄いことはわかっていた。だが、二十六年前、太田は、勝ち目のなさを言い訳に、一度、口を、つぐんだ。その報いを、太田は、生涯、背負っている。もう、同じ言い訳はしない。たとえ負けるとわかっていても、戦った、という事実だけは残す。それが、湯の中の女への、せめてもの供養だった。
だが、そのためには、まず、専門家の裏づけがいる。
太田は、伝手を頼った。何人もの心臓外科医に、あの映像を見せた。全国の、権威と呼ばれる医師たちに。
太田は、あの、コンマ数秒の場面を、静止画にして、示した。ここです。ここで、この手が、ふだんと違う動きを、一つ、しています。そう、説明した。
結果は、みな、同じだった。
「正常の、範囲内です」
「手術中、この程度の手の動きは、いくらでも、あります」
「これを、異常だとは、誰も、言えないでしょう」
「そもそも、肝心の部分が、鉗子の陰で、見えない。見えないものを、異常だとは、言えません」
最後の一言が、太田を、いちばん、打ちのめした。見えないから、異常とは、言えない。だが、見えないように、したのだ。あの男は。見えないことこそが、細工の、証なのに。その理屈は、この世界では、決して、通らなかった。
一人は、気の毒そうに、こう言った。
「太田先生。お気持ちは、わかります。しかし、これで、あの黒木医長を疑うのは……失礼ですが、無理があります。彼は、この国の、心臓外科の、頂点にいる人だ」
頂点にいる人。だから、疑えない。
太田は、その論理の恐ろしさを、噛みしめた。地位が高ければ高いほど、その人間の罪は、見えなくなる。誰も、見ようとしないからだ。蒲生と、同じだった。黒木もまた、その高い場所に、守られている。
太田は、それでも、諦めなかった。佐伯を通じて、検察に、掛け合った。
結果は、予想の通りだった。
「先生。お気持ちは、わかります」若い検事は、太田の資料を、机の端に寄せた。「ですが、これでは、立件は、無理です。物証がない。動機の証明も、ない。あるのは、先生の長年のご経験に基づく、心証、だけだ」
「心証だけ、か」
「ええ。それだけで動けば、こちらが、潰されます。相手が相手ですから」
「人が、一人、殺されたかもしれないんだ」
「かもしれない、では、動けません」検事は、目を、伏せた。「先生。証拠のない正義は、この国では、正義とは、呼ばれない。ただの迷惑です。……私も、それをいやというほど教わってきました」
太田は、その若い検事の顔に、かつての自分を、見た。正しくあろうとして、正しさに、行き場を失った、若い顔を。
相手が、相手。その一言が、すべてだった。
誰も、蒲生剛造の死の真相を、知りたくはない。真相は、あまりに多くの都合を、崩してしまう。政治の都合。病院の都合。そして――誰かの、顔のない都合を。
そして、圧力が、来た。
ある日から、太田の、二十六年前のあの失敗が、どこからか掘り起こされ、囁かれ始めた。監察医務院の、廊下で。
「太田は、昔、一度、大きな誤判定をしている」
「今回も、その汚名返上の、私怨で、暴走しているんだ」
太田は、悟った。これは、氷室の手だ。顔のない手が、太田の、いちばん柔らかい古傷を、正確に、突いてきた。太田を、"私怨で暴走する、老いた偏屈者"という物語の中に、閉じ込めるために。
やがて、それは、囁きだけでは、済まなくなった。
佐伯が、青い顔で、太田に、告げた。上のほうで、太田を、解剖の現場から、外そうという話が、出ている、と。定年まで、あと少し。今、事を荒立てれば、退職金にも、響く。長年の功績も、あの誤判定一つで、塗り替えられる。そういう、脅しだった。声高ではない。ただ、静かに、太田の、逃げ場を、一つずつ、塞いでいく。
一度、"暴走する老害"と見なされれば。太田が何を言っても、それは、負け犬の遠吠えになる。真実さえも、私怨の色に、染められる。
誰かが、太田という人間の物語を、書き換えようとしていた。孤高の法医学者から、老害へと。事実ではなく、"それらしい物語"のほうが、いつも、勝つ。
羽賀が来たのは、そんなときだった。
いつもの、ぎらついた目が、その日は、暗く、沈んでいた。
「記事は、没になりました」羽賀は、吐き捨てるように言った。「上が、降ろした。……どこかから、電話が、一本、入ったそうで。それだけで、終わりだ。三年前と、同じですよ」
「すまない」と、太田は言った。なぜ、自分が謝るのか、わからないまま。
「先生が、謝ることじゃない」羽賀は、力なく笑った。「わかってた。証拠のない話は、でかい力の前じゃ、紙くずだ。……でもね、先生」
羽賀は、顔を上げた。目の奥に、また、あの光が戻っていた。
「証拠の戦いは、負けだ。認めます。でも、世論の戦いは、まだ、終わってない。俺は、書き続ける。名前を変えてでも。ネットでも、どこでも。何年かかっても。いつか、世間が、"あの死は、おかしかった"と、囁き始めるまで。……それが、俺の、戦い方だ」
「証明できないものを、書くのか」
「先生。真実ってのは、証明するもんじゃ、ない」羽賀は言った。「信じさせるもんだ。裁判じゃ、勝てなくても、世間が"怪しい"と思えば、それで、あの医者は、終わる。噂は、判決より、長く、生きる。……先生の"証拠"より、俺の"噂"のほうが、あの男を、追い詰めるかもしれない。皮肉な話だが」
太田は、その男を、見た。証拠を諦めた男。だが、真実を諦めては、いない男。
太田とは、正反対の場所から、同じ崖を、登ろうとしていた。太田は、事実で。羽賀は、物語で。どちらが正しいのか、太田には、もう、わからなかった。ただ、この汚れた男の中に、太田は、消えかけた自分の、灯を、見た気がした。
「一つだけ、頼みがある」と、太田は言った。「もし、いつか、あんたが、本当に、これを、世に問うときが来たら。……そのときは、私の名前も、使ってくれ。逃げも、隠れもしない」
羽賀は、驚いたように、太田を見た。それから、初めて、まっすぐな目で、頷いた。
「……覚えときます、先生」
羽賀が去ると、部屋は、また、静かになった。
気づけば、太田の周りから、人が、一人ずつ、消えていた。上司は、目を合わせなくなった。同僚は、腫れ物に触るように、太田を避けた。検事も、専門家も、みな、去った。残ったのは、佐伯と、羽賀。組織の、外にいる者だけだった。
組織の中で、真実を言おうとする者は、こうして、少しずつ、外へ、押し出されていく。押し出されたころには、その声は、もう、誰にも、届かない。よくできた、仕組みだった。
最後に来たのは、命令だった。
監察医務院長が、太田を呼んだ。
「太田先生。死体検案書を、出してください。もう、これ以上は、待てない。遺族も、待っている」
「死因の欄には」
「急性心不全。そして――」院長は、言いにくそうに、続けた。「備考に、こう、書いてほしい。“今回の死亡と、先行する手術との、因果関係は、認められない”、と」
太田は、院長の顔を、見た。この男も、悪人ではない。太田の直感を、心のどこかでは、信じているのかもしれない。だが、信じることと、それを、書類にすることは、別だった。
「先生」院長は、声を落とした。「これは、私の言葉じゃ、ない。もっと上からの言葉です。私にも、あなたにも、逆らえないところからの。……お互い、飲み込みましょう。それが大人の務めだ」
飲み込みましょう。その言葉を、太田は、二十六年前にも、聞いた。あのときも、そう言われて、太田は、飲み込んだ。そして、女が一人、死んだ。
院長は、太田の肩を、一度、叩いて、去っていった。慰めのように。あるいは、共犯者の合図のように。
認められない。
太田は、その言葉を、口の中で転がした。認められない。それは、事実ではない。だが、嘘でもない。証明できないのだから。認められない、は、真実ではなく、手続きの言葉だった。
その夜、太田は、一度、受話器に手をかけた。
あの男に、電話をしようと思ったのだ。黒木誠に。何か見つけたら、いちばんに教えてくれ、とあの男は言った。ならば、教えてやろう。見つけたぞ、と。あの、鉗子の陰の、コンマ数秒を。見つけた。だが、証明できない。お前の、勝ちだ、と。
太田は、受話器を、握ったまま、動けなかった。
なぜ、あの男に、それを伝えたいのか。太田にはわからなかった。憎いはずの相手に、自分の敗北を、告げたがっている。まるで、この地獄を分かち合えるのは、この世で、あの男、ただ一人だと言うように。
太田は、受話器を、そっと、置いた。指先がまた震えていた。
その夜、太田は一人机に向かった。
目の前に、白紙の死体検案書。手には、ペン。
書けば終わる。すべてが丸く収まる。太田は、また、"良識ある専門家"に、戻れる。あの、二十六年前と同じ場所へ。楽なほうへ。遺族は、弔える。病院は名誉を保つ。政治は、揺れない。羽賀も、これ以上、追わずに済む。誰も、傷つかない。太田が、真実を、飲み込みさえすれば。
誰も、幸せにならない選択をしないだけでいいのだ。ただ、一人、蒲生を除いて。だが、蒲生は、もう、死んでいる。死人は、幸せにも、不幸にもならない。
――そういう、理屈だった。二十六年前も、太田はその理屈に負けた。
だが、ペンは動かなかった。
備考欄の上で、ペン先が、止まったまま、震えていた。因果関係は、認められない。その一文を書けば。太田は、自分の手で、真実を、殺すことになる。蒲生の死体が、必死で語った、あの、たった一つの真実を。二十六年前、湯の中の女に対して、したのと、同じことを。
太田は、思った。死体は、嘘をつかない。だが、その死体の言葉を、こうして、生きた人間が、書類の上で、握り潰していく。何度でも。組織の都合で。
組織は、こうやって、物語を書いていく。事実の上に、都合のいいなめらかな物語を、一枚、また一枚と、貼り重ねて。やがて、下の事実は、誰にも見えなくなる。なかったことに、なる。手術は、成功した。患者は病気で死んだ。誰も悪くない。美しい物語だ。よくできた、嘘だ。
太田は知っていた。自分が、いま、その最後の一枚を貼ろうとしていることを。真実を、いちばんよく知る者の手で。それが、いちばん確実に、真実を葬るからだ。
ペンは、動かなかった。動かせなかった。
白紙の上で、太田の手だけが、いつまでも、震えていた。真実を知る者の、たった一つの、抵抗のように。
(第九話 了)
本作はフィクションです。登場する人物・団体・病院・地名・出来事はすべて架空であり、実在のいかなる個人・組織・医療機関とも関係ありません。
一、医療・外科手術・法医学・司法手続き(調査法解剖、死体検案書、関係法令等)に関する描写は、いずれも物語を成立させるための演出です。医学的・法的な正確性を保証するものではなく、現実の手技・手順・制度を忠実に再現したものでもありません。また、作中のいかなる行為についても、その再現・実行を意図し、あるいは推奨するものではありません。
二、本作は、殺人・児童虐待・自殺・毒殺などの重い主題を含みます。これらは物語の主題を描くための表現であり、そうした行為を肯定・助長する意図は一切ありません。
三、専門的・制度的な事項については、必ず各分野の専門家および公的機関の最新の情報をご確認ください。本作の記述をもって、現実の判断の根拠とすることはお控えください。
――この物語は、事実ではなく、物語です。
毎日、22時に投稿予定です。(全10章)
それでは、次の章で、またお会いできますように。
隠岐群青




