第十章 その他特に付言すべきことがら
心臓外科医・黒木誠、四十五歳。
彼には、開いた胸の奥から「その人の来歴」を読み取ってしまう才能があった。顔は笑える。言葉は飾れる。だが、心臓だけは嘘をつかない――。法が裁けぬ罪を、彼は手術台の上で、静かに裁いていく。生と死、家族、師弟、そして組織の闇へと沈んでいく、後味の悪い医療イヤミスです。手術・死・暴力などの描写を含みますので、苦手な方はご注意ください。どうか、最後の一行まで見届けていただけますと幸いです。
結局、太田は書いた。
あれから幾晩、あの白紙の前で震えていたか、わからない。だが、最後には書いた。
書かない、という道もあった。だが、それは羽賀の道だ。太田の道では、ない。証拠のない告発は、氷室の思う壺だ。
太田は、二十六年、証拠だけを信じて生きてきた。その生き方を、最後の最後で捨てることは、できなかった。捨てれば、太田は太田でなくなる。
だから、書いた。死因、急性心不全。そして、あの、長ったらしい欄。「その他特に付言すべきことがら」。
――ただし、太田は、命じられた通りには書かなかった。
「因果関係は、認められない」とは書かなかった。代わりに、こう書いた。
「先行する手術との関連は、現時点の科学的知見では、これを証明できない」。
この程度の文言の違いなら、書式の規定にも抵触しない。太田は、それを慎重に確かめた上で、この一文を選んでいた。
似ているが、違う。認められない、ではない。証明できない、だ。真実が、ないのではない。ただ、いまの我々の手では掬えない、というだけだ。太田にできる、精一杯の抵抗だった。
ペン先が紙に触れた瞬間、太田は、二十六年前の、あの判子の感触を思い出した。あのときも、こうやって、一つの真実が、書類の下に葬られた。だが、今度は違う。今度は、私は、扉を閉めきらない。ほんの少しだけ、開けておく。「証明できない」という、その細い隙間を。
その死因をめぐる問い合わせが続いたため、大学が、記者会見を開いた。矢面に立たされたのは、解剖を担った太田だった。半ば、引き出される形で、太田は、記者たちの前に座らされた。そして、短くコメントした。
会見場は、明るすぎる照明で満ちていた。並んだマイク。構えられたカメラ。だが、そこにいる記者の大半は、すでに結論を知っていた。彼らは、真実を聞きに来たのではない。用意された物語に、太田の口から判を押させに来たのだ。
太田は、演壇の水に、手をつけなかった。マイクを握る指の節が、白い。二十六年、無数の死体を前にして微動だにしなかった手が、いま、かすかに強張っていた。
「蒲生剛造氏の死亡と、先行する手術との関連は――」太田は、一拍、置いた。「――非常に、低い、と考えられます」
関連は、低い。
ない、とは言わなかった。太田は、最後まで、「ない」とだけは言わなかった。それが、この老いた法医学者の、たった一つの意地だった。誰にも気づかれない、意地。
カメラのフラッシュが、光った。翌日の見出しは、もう決まっていた。「名医の手術に、問題なし」「議員の死は、病死と断定」。誰も、太田の言った「低い」の、その一語の含みには気づかなかった。低い、とは、ゼロではない、という意味だと。
会見の最後、一人の若い記者が手を挙げた。「先生は、この結論に、ご自身、納得しておられますか」。太田は、その記者を、しばらく見た。それから、言った。「私は、証明できることしか口にしません」。太田の視線は、記者ではなく、カメラの赤いランプに注がれていた。まるで、その向こうにいる、たった一人にだけ届けばいい、というように。
太田は、会見場を出た。廊下の隅で、佐伯が待っていた。ただ、太田に、缶コーヒーを一本、握らせた。
「……俺も昔、似たようなことで、誰かを見捨てました」佐伯は、前を向いたまま言った。「だから、先生には、見捨ててほしくなかった」
それから、いつもの短さに戻った。
「お疲れ、先生」
それだけ、言った。多くを語らない、あの刑事らしく。それが、この不器用な男の、精一杯の言葉だった。
その夜、太田は、一冊の古いノートを開いた。
表紙は、手の脂で飴色になり、角は擦り切れていた。綴じ糸が、ほつれかけている。何度も開かれ、閉じられてきたノートだった。ページをめくると、古いインクの匂いが立った。
誰にも見せない、私的な記録だった。二十六年分の。太田が見逃した死。読み違えた死。そして、真実を知りながら、証明できずに見送った死。その、すべてが記されていた。
太田は、新しい一行を加えた。
「蒲生剛造。他殺の疑い、濃厚。執刀医・黒木誠による、術中の作為。物証、なし――現時点では」
そして、その下に、もう一行。
「私は、諦めない。必ず、暴く。次に、この男が同じことをしたとき。そのときこそ、間に合わせる」
インクが乾くのを、太田は、じっと待った。それから、少しだけ厚みを増したノートを、そっと閉じた。
ペンを置いて、太田は、窓の外を見た。雨は、あがっていた。
負けた。今回は、負けた。組織に。物語に。だが、戦いは、終わっていない。太田は、待つ。あの男が、また、心臓に嘘を縫い込む、その日を。そのときまで、この目を閉じずに。
あの、鉗子の縁に光った、何か。あの一片の意味を、いつか必ず突き止める。太田は、そう誓った。二十六年前の、湯の中の女に。そして、これから、あの男に殺されるかもしれない、まだ見ぬ誰かに。
太田は、蒲生の、あの解剖の写真を、もう一度見た。老いた、傲慢な、政治家の顔。だが、太田の脳裏に浮かんだのは、その顔ではなかった。脱衣所の隅に揃えてあった、小さなサンダル。壁の、不格好な向日葵の絵。じいじ、げんきになってね。あの子は、いま、何を思っているだろう。じいじを治してくれた名医のことを、感謝しているのだろうか。それとも――もう、忘れただろうか。
太田は、目を閉じた。守れなかった者の名前が、また一つ増えた。蒲生剛造。裁くに値したかもしれない男。だが、裁くことと、殺すことは、違う。その一線を、あの医師は越えた。そして、太田は、それを止められなかった。
* * *
「関連は、非常に、低い」
テレビの中で、あの法医学者が、そう言うのを、私は聞いた。
自宅の、暗い居間だった。テレビの青白い光だけが、私の顔を照らしている。手元のグラスでは、氷がとうに溶け、琥珀色の酒を、薄く濁らせていた。
勝った、はずだった。
私は、自由だ。誰も、私を裁けない。紙も、死体も、映像も、すべてが私の潔白を証明していた。氷室も、満足だろう。蒲生は消え、私は、より深く、あの男に握られた。すべてが、あの顔のない手の、望んだ通りに収まった。私にこれをやらせた、本当の目的も、いまなら、わかる。私を、共犯者ではなく、所有物にすること。二度と逃げられない場所へ、私を縫いつけること。
私は、勝った。
それなのに――なぜ、これほど救われないのか。
勝ったあとに残ったのは、いつもの、あの空白だった。裁いた、と思った瞬間に、必ず訪れる、あの虚しさ。裁くに値する、と信じた相手を消しても、私の中の何かが満たされることは、一度もなかった。母を、憎んでも。桐生を、悼んでも。蒲生を、殺しても。私の渇きは、少しも癒えない。
なぜなら、私が本当に裁きたかったのは、たぶん、私自身だからだ。
相馬のことを、ふと思い出した。二年前、私の手術室で死んだ、あの看護師。彼女も、私を追っていた。だが、彼女は、証拠を探していた。太田は、違う。太田は、私を読んだ。その差が、これほど決定的だとは、思わなかった。
「関連は、低い」。あの男は、そう言った。ない、とは言わなかった。私には、わかった。あれは、私への伝言だ。私は知っている、ただ証明できないだけだ、だから諦めない――そう、言っている。
あの目は、まだ、私を見ている。テレビの、画面の中から。証明できないまま、それでも、決して逸らされない目で。
私は、悟った。
私は、逃げ切ったのではない。ただ、あの男の中に、永遠に、"殺人者"として生き続けることになったのだ。法は、私を罰しない。世間は、私を名医と呼ぶ。だが、あのたった一人の読み手の中でだけ、私は、正しく殺人者だった。
考えてみれば、私は、ずっと、それを探していたのかもしれない。私を、正しく見てくれる目を。私が、患者の心臓を正しく読むように。私自身を、ごまかしなく読んでくれる、たった一つのまなざしを。
母は、私を見なかった。姉が、母の毒で弱っていくのを、私が、そばで見ていたことを。母は、知りながら、何も言わなかった。私は、罪を犯した。だが、誰も、それを罪と呼んでくれなかった。罪と呼ばれない罪は、行き場を失って、いつまでも、胸の中で腐り続ける。
だから、私は、殺し続けたのかもしれない。誰かに、これは罪だと、指をさしてほしくて。
そして、いま、ようやく、その指が現れた。太田正敏という、老いた、正直な指が。
そして――奇妙なことに、私は、それに救われていた。
この世に、たった一人でいい。私を、正しく読んでくれる者がいる。私の罪を、なかったことにしない者が。母が、してくれなかったことを。あの男が、してくれている。
私は、裁かれている。
法によってではなく。あの、老いた法医学者の、まなざしによって。それは、私が生涯で初めて手に入れた、罰であり――赦しに、いちばん近いものだった。
証明されなくて、いい。誰にも知られなくて、いい。ただ、あの一人が、知っていてくれる。それだけで、私は初めて、少しだけ息ができた気がした。
だが、物語は、ここで終わらない。
あの羽賀というもの書きが、動き始めた、と聞いた。証拠のない記事を、小さな媒体で書き始めている。「ある名医の、不審な患者たち」。まだ、誰も相手にしていない。三流の、飛ばし記事。そう、笑われている。だが、噂は、水のように、低いところへ流れていく。一滴が、二滴に。二滴が、川に。いつか、大きな流れになるかもしれない。
証拠では、私を倒せない。だが、世論なら。太田とは別の獲物が、別の武器で、私を狙い始めていた。太田は、事実で。羽賀は、物語で。奇しくも、私が、いちばん恐れる、二つの力だった。事実と、物語。これまで私は、その両方を操って罪を隠してきた。その二つの力が、いま、逆に私を追い詰めようとしている。
そして、氷室は、また、私に囁くだろう。次の名前を。裁くに値する、と誰かが決めた、次の獲物の名を。その名は、もう、決まっているのかもしれない。私は、より深く握られた。もう、断れない。私は、あの男の、いちばん上等な道具になった。
氷室。あの夜、院長のスマホに光った、四文字の名。私は、いまでは、それを知っている。だが、ときどき、思う。あの四文字が、本当に、頂なのか。氷室その人が、糸を引いているのか。それとも、氷室のさらに上に、まだ別の手があるのか。その問いにだけは、私は、いまも、答えを持たない。
私は、それを、また引き受けるのだろうか。わからない。
ただ一つだけ、初めて思うことがある。
次に、私が、心臓に嘘を縫い込むとき。どうか、あの男が、それを見つけてくれますように。今度こそ。間に合ってくれ。私を、止めてくれ。もう、私には、自分を止める力がない。だから、頼む。あの、正直な目で、私を暴いてくれ。
これは、殺人者の祈りだ。捕まえてくれ、と願う、いちばん質の悪い、罪人の祈りだ。
――君は、これを、赦しと呼ぶか。それとも、いちばん救いのない、罰と呼ぶか。
私には、もう、わからない。
わかるのは、ただ一つ。私の心臓も、たぶん、嘘をつけないということだけだ。いつか、あの男が、それを読む日が来る。私は、その日を――恐れながら、待っている。
机の抽斗の奥では、布にくるまれた器具が、静かに、私の手を待っている。持針器。鑷子。一本の、細い糸。次の“依頼”が来れば、それらはまた、いつものように私の指に馴染むだろう。
だが、それまでは。私は、また、誰かを裁くだろう。そのことに、変わりはない。
(第十話 了)
(シーズン2 完)
シーズン2は本日で終了し、近日中にシーズン3が始まります。お楽しみに!
本作はフィクションです。登場する人物・団体・病院・地名・出来事はすべて架空であり、実在のいかなる個人・組織・医療機関とも関係ありません。
一、医療・外科手術・法医学・司法手続き(調査法解剖、死体検案書、関係法令等)に関する描写は、いずれも物語を成立させるための演出です。医学的・法的な正確性を保証するものではなく、現実の手技・手順・制度を忠実に再現したものでもありません。また、作中のいかなる行為についても、その再現・実行を意図し、あるいは推奨するものではありません。
二、本作は、殺人・児童虐待・自殺・毒殺などの重い主題を含みます。これらは物語の主題を描くための表現であり、そうした行為を肯定・助長する意図は一切ありません。
三、専門的・制度的な事項については、必ず各分野の専門家および公的機関の最新の情報をご確認ください。本作の記述をもって、現実の判断の根拠とすることはお控えください。
――この物語は、事実ではなく、物語です。
毎日、22時に投稿予定です。(全10章)
それでは、次の章で、またお会いできますように。
隠岐群青




