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第九章 炎上

心臓外科医・黒木誠、四十五歳。


彼には、開いた胸の奥から「その人の来歴」を読み取ってしまう才能があった。顔は笑える。言葉は飾れる。だが、心臓だけは嘘をつかない――。法が裁けぬ罪を、彼は手術台の上で、静かに裁いていく。生と死、家族、師弟、そして組織の闇へと沈んでいく、後味の悪い医療イヤミスです。手術・死・暴力などの描写を含みますので、苦手な方はご注意ください。どうか、最後の一行まで見届けていただけますと幸いです。


人が壊れていく速さを、知っているか。

心臓が壊れるのには、時間がかかる。何十年もかけて、少しずつ壁が厚くなり、弁が硬くなり、筋肉が伸びきっていく。私は、その遅さを三十年見てきた。

人の評判が壊れるのは、三週間だった。

記事が出る前の週、私は三件の手術をした。

一件は、九十歳の男性だった。ここまでの高齢で開胸するのは、本来なら勧めない。だが本人が、どうしてもと言った。娘の結婚式に出たいのだという。

私は引き受けた。三時間半で終わった。

術後、その人は言った。先生、これで娘のところへ行けます、と。

式は十一月だと聞いた。間に合う。

記事が出たのは、九月の第一週だった。

鵜飼庸介が死んで、三週間後。羽賀という男は、その三週間を、たぶん書くために使った。

私は、その記事を、配信された日の夜に読んだ。

うまい文章だった。認めるしかない。

名前は、一つも出ていなかった。病院名も、私の名も、鵜飼の名も。すべて伏せてある。ある大学病院の、ある心臓外科医、という書き方だ。

だが、読めばわかる。この国で、条件に当てはまる医者は、両手で数えるほどしかいない。そして、そのうちで「難症例を引き受けて実績を積み上げている」「テレビに出たことがある」まで満たす人間は、たぶん、二人か三人だ。

名前を書かないことで、この男は、名前を書くより効率よく私を特定させていた。

事実は、一つも書いていない。

記事に書いてあるのは、疑問だけだ。なぜ、この医者の術後死亡例には偏りがあるのか。なぜ、亡くなった患者には、みな過去の暗い噂があるのか。なぜ、遺族の何人かは、いまも説明に納得していないのか。

問いを並べただけの文章だった。答えは一つも書いていない。

答えを書かないから、訴えられない。答えは、読者が自分で作る。

三年前、この男の原稿は活字にならなかった。証明できないものは書けない、と言われて。

今度の記事は、証明を必要としない形で書かれている。三年かけて、この男は、そういう書き方を覚えたのだ。

最初の一週間は、何も起きなかった。

二週目の火曜、記事を紹介する投稿が、いくつか流れた。医療関係者を名乗る匿名の人間が、これは誰それのことではないか、と書いた。

 

その日の夜、私の名前が、ある掲示板に出た。

三日で、それは広がった。

私は、その広がり方を、観察していた。外科医というのは、経過を観察する職業だ。自分の身に起きていることでも、同じように見てしまう。

最初に拡散したのは、私を知らない人間だった。次に、私を少し知っている人間が、愛想がない、目つきが怖い、と付け加えた。

最後に、私に助けられた人間の何人かが擁護に回った。

 

*  *  *

 

  892 名無し

    例の記事、あれ帝◯大のK先生じゃね

  893 名無し

    >892 言い方

  897 名無し(医療関係者)

    中の人間だけど、あの科は前から言われてる

  904 名無し

    俺の父親その先生に手術してもらった

    三年前に他が全部断ったのを引き受けてくれた

    いい先生だよ

  906 名無し

    >904 必死すぎ

  908 名無し

    >904 まあでも火のないところにって言うし

 

九〇四は、私に助けられた人の家族である。三年前、他がすべて断った症例だった。

この人が書いた三行が、いちばん効いた。

擁護が出たことで、これは議論になった。議論になった瞬間に、私は「そういう疑いがある人」になった。

この人は、私を助けようとした。

――助けようとする働きが、助けるべきものを壊していく。

どこかで読んだ文だ。私が書いた、この病気の説明である。

私は、それらを一つずつ読んだ。読まなければいい、と誰かに言われた。その通りだが、読まずにいられなかった。

私を人殺しだと書いている人間の多くは、私の手術を見たことがない。私に助けられた患者の名前も、一人も知らない。それでも、彼らの書いていることは、結果的に正しい。

正しいことを、間違った理由で言う。それが、いちばん反論しにくい。

――君は、噂を止める方法を知っているか。私は知らない。三週間、探したが、見つからなかった。

九月の第四週、病院の広報から連絡が来た。

 

「先生。取材の申し込みが、七件来ています」

「断ってください」

「そのつもりです。ただ」広報の若い職員は、言いにくそうにした。「一件、テレビからでして」

「同じです。断ってください」

 

断ることはできる。だが、断ったという事実が、また記事になる。取材を申し込んだが回答は得られなかった、という一行。この一行は、どんな否定よりも重い。

その週、外来の予約に、初めてキャンセルが出た。

三件だった。理由は聞いていない。聞く必要もない。

 

次の週は、七件だった。

キャンセルの多くは、電話一本で入る。事務が処理して、予約枠が空く。私のところには、空いた枠の報告だけが来る。

その患者たちが、どこへ行くのかは知らない。他の病院で、他の医者に診てもらうのだろう。それでいい。私に診られるより、そのほうがいい。

十月に入って、学会から連絡が来た。

十一月の学術集会で、私は特別講演をすることになっていた。半年前に依頼されたものだ。

その依頼が、取り下げられた。

 

「先生。誠に申し上げにくいのですが」電話の向こうで、学会の事務の人間が言った。「今回は、プログラムの構成を見直すことになりまして」

「わかりました」

「その、先生のご都合が悪いということで、こちらから発表させていただければ」

「結構です。そう書いてください」

 

その二週間後、もう一本、電話があった。今度は、あの理事からだった。

声が、前とは違っていた。前は丁寧だった。今度は、丁寧すぎた。

 

「副会長の件ですが」と、その人は言った。「もう少し、時期を見たほうがよろしいかと」

 

私は、わかりました、とだけ答えた。

 

「先生を疑っているわけでは、決してありません。ただ、いまは、その、いろいろと」

「わかっています」

「申し訳ない」

 

その人は、本当に申し訳なさそうだった。この人は、私を切ったのではない。学会を守っただけだ。私が逆の立場でも、同じことをする。

電話を切ってから、私は封筒を探した。九月に届いた、あの文書だ。机の抽斗の二段目にあった。

三十年やってきたことの、一つの答え。そう思った紙だ。

私は、それを引き出しに戻した。捨てなかった。捨てる理由が、まだ見つからなかった。

こういうとき、みんな、私に嘘をつく機会をくれようとする。ありがたいことだ。誰も、悪意で私を切り捨ててはいない。ただ、みんな、自分の持ち場を守っているだけだ。

三年前、羽賀の原稿を止めた編集長も、そうだったのだろう。

十月半ば、大学の医局から、若い医者が二人、異動を申し出た。

理由は、どちらも「家庭の事情」だった。

私は、二人とも引き止めなかった。引き止める資格がない。私のもとにいると、経歴に傷がつく。それは事実であって、噂ではない。

その週、教授が私を呼んだ。

この人は、私を庇おうとしてくれていた。三週間、そうしてくれていた。だが、この日は違った。

 

「黒木先生。手術の件数を、少し調整しませんか」

「調整」

「難症例は、しばらく、他の先生に回してはどうかと。……先生に何かあってからでは、遅い」

 

私に何かあってからでは。

この言い方が、いちばん正確だ。この人は、私を守ろうとしている。同時に、病院を守っている。その二つが同じ方向を向いているうちは、この人は私の味方だ。

向きが変われば、変わる。私は頷いた。

教授室を出るとき、廊下で新村とすれ違った。

 

「先生。件数の話ですか」

「聞いていたのか」

「察しはつきます」彼は言った。「ぼくのほうに、少し回ってくるみたいです」

 

その言い方に、含みはなかった。事実の報告だった。

難症例が、この青年に回る。ここ数年でいちばん腕の立つ若手だと、教授はこの前そう言っていた。

三十年前、私も、そう言われていた。

十一月、私の手術は月に四件になった。去年までは、月に三十件を超えていた。手が空くというのは、恐ろしいことだ。

私は、この手を動かし続けることで生きてきた。動かしているあいだは、何も考えなくていい。術野の中には、姉も、母も、桐生も、相馬もいない。あるのは、目の前の血管と、糸と、私の指だけだ。

それがなくなると、時間が余る。

余った時間で、私は自分の人生を考えることになる。いちばん避けてきたことを、いま、毎日やらされている。

これは、罰なのだろうか。

だとすれば、ずいぶん、よくできた罰だ。誰も私を裁いていない。誰も私を訴えていない。ただ、手術がなくなっただけだ。

法は、私に指一本触れていない。

空いた午後、私は自分の手を見ることが増えた。

爪を切る。指を組んでみる。関節を鳴らしてみる。この手は、まだ動く。一度も裏切らなかった手だ。老いてはいるが、まだ、誰よりも正確に動く。

この手で救えたはずの人が、これから、何人いるだろう。

去年までは、月に三十件を超えていた。いまは、四件である。

差は、二十六件。

そのうち、他院が断る症例が、およそ四分の一を占めていた。六件である。

私が引き受けなければ、その六件は、どこへ行くか。

三施設に断られてここへ来る患者が、四つ目でも断られたら、その人は手術を受けない。受けなければ、多くは一年もたない。

月に六人。

この炎上が半年続けば、三十六人になる。

――私が三十年で殺したのは、三人だ。四人かもしれない。

四人としても、その九倍である。

半年、私が手を止めているだけで、その九倍が死ぬ。

私は、その計算を、二度やり直した。二度とも同じ数字が出た。

出てから、自分が何をしているかに気づいた。

私は、いま、自分が手術を再開すべき理由を、数字で作っている。

そう考えて、私は自分に吐き気がした。また、計算をしている。私はこの計算式で自分を許してきた。羽賀に間違いだと言われて、三か月しか経っていない。

 

*  *  *

 

その頃、鵜飼庸介の娘が、私の外来に来た。

予約表でその名前を見たとき、私は、しばらく動けなかった。

診察室に入ってきたのは、あの女だった。父親の見舞いに、追い返されても来ていた人だ。

 

「先生。ご無沙汰しております」

「……どうされましたか」

「健診で、心臓に影があると言われまして」彼女は言った。「大きな病院で診てもらうように、と」

 

私は、紹介状を読んだ。

心エコーの所見。左室の軽度の拡大。収縮の力が、正常の下限をわずかに下回っている。

この病気は、二割から三割が家族性だ。

心臓の筋肉を作る蛋白質の、遺伝子の変異。親から子へ受け継がれる。

この人は、父親から、それを受け取っている。

 

「まだ、症状はありませんか」

「階段が、少し。でも、歳のせいかと」

「歳ではありません」私は言った。「早く見つかって、よかった」

 

本当のことだった。この段階なら、薬でずいぶん長く保たせられる。この病気は、早く始めれば、それだけ効く。

彼女は、少しほっとした顔をした。

 

「先生に診ていただけるなら、安心です」

 

彼女は、そう言って、少し笑った。

 

「父も、そう言ってました。あの先生は、正直に言ってくれるって。ほかの病院では、みんな、言葉を選んでくれたけど、先生だけは、はっきり言ってくれたって」

 

鵜飼庸介が、そんなことを言っていたとは知らなかった。

あの男は、私に感謝していた。私が、この男を治療の名の下に死なせているあいだ、ずっと。

私は、その言葉を受け取った。

この人の父親を、私は殺した。手を下していないというだけの理由で、私は自分をそう呼ばずにいた。だが、この人の前では、その言い訳は通らない。

そして、その私に、この人は、自分の心臓を預けようとしている。

診察のあと、私は処方を組んだ。

この病気の薬は、少量から始めて、少しずつ増やしていく。腎臓の数値を見ながら、血圧の推移を見ながら。教科書には、目安が書いてある。

目安であって、規則ではない。

その幅の中から、私は、いちばん良い側を選んだ。

次の外来でも、その次でも、私は同じようにするだろう。押すべきときに押し、待つべきときに待つ。この人の心臓を、できるかぎり長く保たせる。

なぜ、と自分に訊いた。

贖罪のつもりか。この人の父を殺した代わりに、この人を救えば、帳尻が合うとでも思っているのか。

合わない。九百九十九人助けても、一人殺したら人殺しだ。あの記者が言った通りだ。

わかっていて、私はこの人を助けようとしている。

助けたいからだ。それ以外の理由が、どうしても見つからない。

私は、自分の中の善意というものを一度も信じたことがなかった。信じなければ、それを利用して人を殺せるからだ。

いま、初めて、それがただの善意である可能性を、私は疑えないでいる。

もっとも、この善意にも、行き先はない。私の外来は、じきに閉じる。この人は、私ではない誰かに引き継がれるだろう。

引き継ぐのは、たぶん、あの青年だ。

十二月、羽賀の連載は、大手のニュースサイトに転載された。

読者は、十万を超えた。

同じ週、病院の弁護士から、私に連絡が来た。念のため、経緯を整理しておきましょう、という話だった。

その電話を切ったあと、私は、氷室から一度も連絡がないことに気づいた。

この半年、あの男は沈黙している。次の名前を囁いてこない。

当然だ、と私は思った。世間の目がついた刃は、使えない。

刃は、古くなれば替えればいい。院長が、いつかそう言った。

そして私の隣には、まだ誰にも知られていない、新しい刃が立っている。

あの青年は、今月、私の三倍の手術をしている。記録は完璧で、成績もいい。医局の評判もいい。

誰も、あの男を疑っていない。私が三十年守ってきたその場所に、いま、別の人間が立っている。

辞表の書き方を、私が調べはじめたのは、その週のことだった。

書いたことのない種類の文書だ。書式がわからず、しばらく画面を眺めていた。

黒木が自身の進退を考えていた、その日。一つの記事が世に放たれた。

羽賀が使った雑誌の、ライバル誌からだった。


(第九章 了)

 


ここまでお読みいただき、ありがとうございます。

次話もお楽しみにしていただけると嬉しいです。

感想やご指摘をいただけると、今後の励みになります。


(更新:毎日22時投稿予定)

隠岐群青

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