第八章 半年
心臓外科医・黒木誠、四十五歳。
彼には、開いた胸の奥から「その人の来歴」を読み取ってしまう才能があった。顔は笑える。言葉は飾れる。だが、心臓だけは嘘をつかない――。法が裁けぬ罪を、彼は手術台の上で、静かに裁いていく。生と死、家族、師弟、そして組織の闇へと沈んでいく、後味の悪い医療イヤミスです。手術・死・暴力などの描写を含みますので、苦手な方はご注意ください。どうか、最後の一行まで見届けていただけますと幸いです。
半年というのは、記事を書く人間にとって、長すぎる時間だ。
羽賀は、鵜飼庸介という男が死ぬのを待っていた。そう書くと自分でも吐き気がするが、事実だからしかたがない。
待っているあいだ、羽賀は数えた。
一月。二月。三月。四月。五月。六月。
六つである。六つ数えるあいだに、この男の心臓は、少しずつ薄くなっていく。
薄くなるのを、誰も止めない。止めないことが、正しい医療として記録されていく。
――俺は、それを待っている。
待っているというのは、その正しさに賭けているということである。
待っているあいだ、羽賀は連載を続けた。週に一本。読者は、少しずつ増えた。七十三人だったものが、二百人になり、五百人になった。まだ、社会的には何の意味もない数字だ。
だが、削除要請は二度来た。二度とも、羽賀は応じた。応じたうえで、別の媒体に同じ内容を書いた。潰されるたびに、記事は少しずつ散らばっていく。三年前に学んだことだ。一箇所に置くから、消される。
その半年で、羽賀の預金は二十万を切り、夜はコンビニで品出しを始めた。棚に商品を並べるのは、正しく並べれば正しく終わる。物を書くのとは、そこが違う。
三月に、太田正敏が定年退職した。
羽賀は、退職の日に一度だけ電話をかけた。用件はなかった。ただ、あの老人が最後にどうするのかを知りたかった。
「先生。いま、どちらに」
「教室の片づけだ」太田の声は、少し疲れていた。「三十年分ある。捨てるものばかりだ」
「ノートは、どうされるんですか」
電話の向こうが、少し黙った。
「持って帰る」太田は言った。「あれは、私の荷物だ」
「捨てたら、楽になりますよ」
「そうだろうな」
太田は、それを認めた。認めたうえで、持って帰ると言った。
この人は、二十八年、その荷物を持ち続けている。降ろす方法を知らないのではない。知っていて、降ろさないことを選んでいる。
俺は、あと二十三年、これを持てるだろうか。
電話を切ってから、羽賀はそう考えた。答えは出なかった。
六月に、鵜飼庸介の状態が悪くなった。
羽賀がそれを知ったのは、看護助手の一人からだった。半年、病院の周りを歩いていると、話しかけてくる人間が何人か出てくる。悪意のある人間ではない。ただ、誰かに話したいだけの人だ。
「あの方、最近、あんまり良くないみたいですよ」
「入院ですか」
「いえ、外来です。でも、ご家族が心配されてて」
羽賀は、その話を手帳に書いた。日付と、時刻と、聞いた内容を。証拠にはならない。証拠にならないものを、羽賀はもう三年、書き続けている。
七月、羽賀は鵜飼の娘に会った。
病院の外来棟の、自動販売機の前だった。父親の会計を待っているところを、羽賀は捕まえた。
褒められた方法ではない。だが、この仕事に褒められた方法はほとんどない。
「お父様のことで、少しだけ」
女は、警戒した顔をした。当然だ。
「私、記者です」羽賀は名刺を出した。「十二年前の、セイワ医科工業の件を追っています」
その言葉で、女の顔が変わった。警戒が、別のものに変わった。
「……その話ですか」
「ご存じなんですね」
「父からは、一度も」女は言った。「でも、昔、家に電話がかかってきたことがあります。何度も。母が出ると、切れるんです」
羽賀は、その話を聞いた。二十分ほど。
この女は、父親のしたことを、正確には知らない。だが、何かがあったことは知っている。知っていて、それを一度も父に問わなかった。
「訊かなかったんですか」
「訊けませんでした」女は言った。「訊いたら、あの人が答えるとは思えないし、答えなかったら、私はそれを一生知らないままになる。……それが、怖かったんです」
羽賀は、その言葉を書き留めた。
書き留めながら、三年前の、あの母親のことを思い出していた。息子の胸に入っていた機械のことを、あの人も、最後まで正確には知らなかった。
殺した側の家族と、殺された側の家族が、同じ種類の無知を抱えている。
「先生には、よくしていただいています」と、女は最後に言った。「あの若い先生。とても丁寧で」
羽賀は、頷いた。何も言えなかった。
別れ際、女はこう言った。
「あの、記者さん。父は、もう長くないんですよね」
羽賀は、答えられなかった。
「先生は、時間がかかる病気だと言うんです。焦らないでくださいって。……でも、私、見てればわかります。父は、日に日に弱ってます」
この人は、正しく見ている。だが、正しく見ていることを、誰も証明してくれない。担当医は、教科書通りのことを言っている。娘の目のほうが正しくても、それは記録に残らない。
「それで、私、別の病院で診てもらおうと思って」と、女は言った。「先生にお願いしたら、快く紹介状を書いてくださいました。嫌な顔ひとつせずに」
彼女は、財布から一枚の紙を出した。予約票だった。折り目がついている。何度も出しては、しまっているのだろう。
初診の日付が印字されていた。八月二十八日。
「三週間先なんです。もっと早ければいいんですけど」
――その日まで、もつと思いますか。
羽賀は、そう訊きかけて、やめた。訊いてどうする。この人に、何を言わせたい。
「いい先生だといいですね」とだけ、羽賀は言った。
鵜飼庸介が死んだのは、八月十一日の夜だった。
自宅の寝室。娘が朝に見つけた。冷たくなっていた。
羽賀がそれを知ったのは、二日後だ。訃報は業界紙に小さく載った。長年の心臓病により、と書いてあった。
羽賀は、その記事を三度読んだ。
それから、部屋の畳に座って、しばらく動かなかった。
待っていたものが、来た。
自分が、いま、何を感じているのかを、羽賀は確かめようとした。喜んでいるのか。安堵しているのか。それとも、何も感じていないのか。
わからなかった。ただ、指が冷たかった。
この半年、羽賀は、この死を待った。待っている自覚もあった。それでも、いざ来てみると、書き出しの一行が思い浮かばない。
結局その夜、羽賀は一行も書かなかった。
三年前、あの技術者が死んだときも、同じだった。あのときも、書けなかった。書けないときの理由は、いつも同じだ。自分が、その死のどこかに関わっている気がするからだ。
* * *
一件だけ、電話をかけた。太田正敏にだった。
「先生。鵜飼が、死にました」
「……いつだ」
「一昨日の夜です。自宅で。解剖は、たぶん、ありません」
太田は、しばらく何も言わなかった。
電話を切ったあと、太田正敏は、しばらく受話器の上に手を置いていた。
三月に定年を迎えて、五か月になる。解剖には入っていない。大学の権限も、もうない。この老人にできることは、何もない。
それでも、太田は、佐伯に電話をかけた。
「先生。無理ですよ」と、佐伯は言った。再雇用の身で、いまは書類の整理をしている。「事件性なしで処理された案件です。私が言っても、誰も動きません」
「わかっている」
「……一応、訊いてはみます」
三十分後に、折り返しがあった。答えは、太田の予想どおりだった。持病のある六十三歳が、自宅で亡くなった。かかりつけの病院があり、経過も記録されている。どこにも、疑う理由がない。
太田は、礼を言って切った。
残る道は、一つだけあった。承諾解剖。遺族の同意があれば、事件性がなくても解剖はできる。太田は、二十八年、その手続きを何百回と使ってきた。
問題は、太田がもう、何者でもないということだった。大学の教授でも、鑑定を委嘱された医師でもない。ただの、退職した老人だ。
それでも、太田は電話をかけた。
番号は、佐伯に調べてもらった。三度目のコールで、女が出た。
「突然、申し訳ありません」と、太田は言った。「私は、太田と申します。以前、大学で法医学を」
名乗りながら、自分の声が老人の声だと、太田は思った。
用件を伝えるのに、四分かかった。お父様の死因に、確かめておくべき点があるかもしれないこと。解剖をすれば、それがわかる可能性があること。遺族の同意があれば、いまからでも間に合うこと。
女は、最後まで黙って聞いていた。
それから、こう言った。
「もう、父のことは、そっとしておいてください」
声は、静かだった。怒ってもいなかった。ただ、疲れていた。
「……失礼しました」
太田は、頭を下げた。電話の向こうには見えない。それでも、下げた。
受話器を置いてから、太田は、抽斗を開けた。
飴色になった、擦り切れたノート。二十八年分の記録。
最後のページを開いた。一年半前に書いた一行が、そこにある。必ず、暴く。次に、この男が同じことをしたとき。そのときこそ、間に合わせる。
その下に、五か月前、太田はもう一行書いた。次が、来たのかもしれない、と。
太田は、ペンを取った。
そして、何も書かなかった。
書くことが、一行もなかった。名前も、日付も、所見も。この老人は、何一つ確かめていない。確かめる手段を、もう持っていない。
ノートを閉じるとき、綴じ糸が一本、切れた。
翌週、羽賀は病院に取材を申し込んだ。
今度は広報を通した。個人のアドレスには書かなかった。
回答は、五日後に文書で来た。三行だった。
「個別の患者様に関するご質問には、個人情報保護の観点からお答えいたしかねます」
予想通りだった。
次に羽賀は、デバイスのログの開示を求めた。あの機械は、動作の記録を残す。心臓に何が起きたか、機械が何をしたか、時刻とともに残っている。
そのログには、鵜飼の最後の数時間が、正確に記録されているはずだった。
開示は、拒まれた。理由は同じだ。個人情報。
遺族から請求すればいい、と羽賀は思った。娘に頼んでみた。
娘は、断った。
「もう、父のことは、そっとしておいてください」
電話の向こうで、その人は泣いていた。羽賀は、詫びて、切った。
――そっとしておいてください。
この言葉に、羽賀はもう何十回と会っている。真実を暴こうとするたびに、いちばん傷ついた人が、いちばん先に、それを止めに来る。
羽賀が病院関係者から聞いた話は、断片的だった。
院内では、鵜飼の死は「不幸な経過」として扱われたという。
術後の管理に、問題は一つもなかった。記録は完璧で、外来の間隔も適切で、投薬の判断も教科書通りだった。むしろ、担当医の丁寧さを褒める声すらあった。
問題があったとすれば、患者本人の自己管理だ、と誰かが言った。
この病気は、塩分と水分の管理が要る。体重を毎日測り、無理をせず、規則正しく薬を飲む。それができなければ、どれほど医療が正しくても、悪くなる。
「ご本人の自己管理に、問題があったのかもしれませんね」
誰かが、そう言った。悪意はなかったという。ただ、そういう可能性もある、というだけの話だったと。
羽賀は、それを聞いて、鵜飼の手帳を思い出した。
あの男は、毎日の体重と血圧と、飲んだ水の量を、几帳面に書いていたという。娘が、そう言っていた。
その手帳は、誰も読まない。読む理由が、どこにもないからだ。
几帳面に数字を書き続けた半年が、そのまま、本人の不摂生の証拠にされかけている。書かなければ、そもそも疑われもしなかった。
――三年前の、あの青年も、同じことをしていた。
毎日、自分で脈を測って、手帳に書いていた。あの手帳も、誰も読まなかった。
書く人間は、いつも、こういう目に遭う。
* * *
鵜飼庸介の死を、私は電話で知った。
朝の七時だった。新村からだった。
「先生。鵜飼さんが、昨夜、亡くなられたそうです」
「そうか」
「ご自宅で。娘さんが、朝に発見されて」
「わかった」
それだけの会話だった。私は電話を切って、いつものように珈琲を淹れ、病院へ行き、手を洗い、その日の手術に入った。
冠動脈のバイパスを、三本つないだ。手術は成功した。患者は六十八歳の女性で、術後の経過も良好だった。
私の手は、一度も震えなかった。
この半年、私は二百件近い手術をした。
そのうち五十件以上が、他院で断られた症例だ。数えたわけではない。事務が年度末にまとめた資料に、そう書いてあった。
救命率は、去年より上がっている。若手が育ったからだ。私が教えた。教えた中に、新村もいる。
二百件。五十件。救命率。
数えているつもりはない。事務の資料に書いてあるものを、読んでいるだけだ。
読んでいるだけだ。読んでいるだけの人間は、数字を覚えない。
私は、覚えている。
二百件のうち、生きて帰ったのは百八十七人である。
その百八十七の中に、鵜飼庸介が入っている。まだ生きているからだ。
あと、何日か。
読んでいるだけの数字を、なぜ私は覚えているのか。
九百九十九人助けて、一人殺したら、それは人殺しです。
あの男に、そう言われて、三か月になる。
言われてからも、私はまだ、この数字を覚えている。
六月の症例検討会に、あの男の名前が出た。
経過報告である。担当医が三行読んで、次の症例に移った。二分もかからなかった。
部屋には十四人いた。誰も、何も訊かなかった。
私は、いちばん前に座っていた。座って、手元の資料を見ていた。
顔を上げれば、それで済んだ。
上げなかった。
二度目。
七月、廊下で娘とすれ違った。
先生、父が、と言いかけて、その人は言い直した。いえ、なんでもありません、と。
私は、新村先生によく診てもらってください、と言った。
言ってから、自分の声が、ずいぶん親切に聞こえたことに気づいた。
三度目である。
八月二十八日、私は朝から二件入っていた。
一件目が長引いて、二件目が終わったのは十九時過ぎだった。医局に戻って、翌日の予定を確認して、帰った。
いい一日だった。二人とも助かった。
その日、私はカレンダーを見なかった。見る理由が、どこにもなかった。
九月、鵜飼庸介が入院した。心不全の増悪である。
週に一度、私は病棟を回る。回診の名簿に、その名前があった。
私は、順路を変えた。
東の端から西へ回るのを、その週だけ、西から東へ回った。理由は、誰にも訊かれなかった。訊かれれば、答えるつもりでいた。用意していたが、使わなかった。
四度目。
十月のある夜、当直から電話が来た。鵜飼という患者が、息苦しさを訴えている、と。
主治医に連絡がつかない、という話だった。
私は、新村先生に、と答えた。もう一度かけてみてください、と。
当直は、わかりました、と言って切った。
折り返しは、なかった。ついたのだろう。
五度目である。これが、最後だった。
五度である。半年で、五度。私は、五回、五秒を惜しんだ。
惜しんだのではない。使わなかっただけだ。使わないことに、理由は要らない。
その半年のあいだに、鵜飼庸介は死んだ。
この半年、私は何もしていない。
断っておくが、これは弁解ではない。事実の記述だ。私は鵜飼庸介の主治医ではなく、外来も担当していない。処方に口を出したこともない。
私がしたのは二つだけだ。除外されていない検査に気づいて、言わなかったこと。術後の管理を若い医者に任せたこと。
どちらも、私の判断が問われることではない。私の記録には、一行の嘘もない。
だから――と、ここで書くべきなのだろう。だから私は無罪だ、と。
書けなかった。
ある夜、私はカルテを開いた。
新村の書いた、半年分の記録だ。読む必要はなかった。読んではいけない、とすら思っていた。それでも開いた。
完璧だった。
どの回にも、判断の根拠が書いてある。腎機能を考慮した。血圧の推移を見た。次回に持ち越した。すべて、正当な理由だ。
一つ一つを見れば、丁寧な医療だった。ずいぶん丁寧だ、と褒められてもおかしくない。
だが、半年分を並べて見ると。
押すべきときに、押していない。
押さない理由は、毎回ちゃんとある。だが、その理由が、あまりに毎回、ちょうどよく揃っている。
これは、私にしか読めない。
なぜなら、私も同じことをしてきたからだ。三十年、記録の書き方だけで人を殺してきた男にだけ、この均整の異様さが見える。
私は、カルテを閉じた。
もう一つ、気づいたことがある。
この記録には、迷いの跡がない。私の記録には、必ずどこかに、書き直した痕跡や、行間の空きや、妙に厚い説明が残る。あとから読むと、自分がそこで何かを飲み込んだのがわかる。
あの青年の記録には、それがない。最初から、飲み込むものがなかったのだろう。
この半年、あの青年は、一度も私に相談しなかった。訊かれたのは、月に一度、経過の報告のときだけだ。そして私は毎回、いや、と答えた。
いや、と答えるのは、承認だ。私は毎月、判を押していた。押していない振りをしながら。
鵜飼庸介の遺体は、解剖されなかった。
持病のある六十三歳の男が、自宅で亡くなった。かかりつけの病院があり、経過も記録されている。事件性を疑う理由が、どこにもない。
死亡診断書は、新村が書いた。
死因は、慢性心不全の急性増悪。
医学的に、これは正しい。この病気の患者は、こうして死ぬ。何万人という患者が、毎年、同じ死因で死んでいる。
誰も、嘘をついていない。
これで、三人目だ。いや、四人目か。相馬を数えるなら。
だが、私が数える資格が、どこにあるだろう。私は、この半年、指一本動かしていない。
人を殺していないのに、人が死んでいる。――君は、これを殺人と呼ぶだろうか。
葬儀の翌日、鵜飼の娘が病院に来た。
挨拶に来たのだという。父が世話になった礼を、担当医に言うために。
新村が、外来の合間に会っていた。私は、その様子を廊下から見ていた。
女は、深く頭を下げていた。
新村も、頭を下げ返していた。深すぎず、浅すぎない、いい角度だった。
私が三十年かけて身につけた角度を、あの青年は、いつのまにか正確に真似ていた。
真似られたのは、角度だけではない。私が三十年かけて覚えた、人の礼の受け取り方まで、あの男はもう身につけている。
九月の第一週、一本の記事が配信された。
「ある名医の、不審な患者たち」。
名前は、どこにも書かれていなかった。
だが、その日の午後、医局で三人の医者がその記事の話をしていた。
私が入っていくと、話が止まった。
止まったこと自体が、答えだった。
(第八章 了)
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(更新:毎日22時投稿予定)
隠岐群青




