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第六章 対面

心臓外科医・黒木誠、四十五歳。


彼には、開いた胸の奥から「その人の来歴」を読み取ってしまう才能があった。顔は笑える。言葉は飾れる。だが、心臓だけは嘘をつかない――。法が裁けぬ罪を、彼は手術台の上で、静かに裁いていく。生と死、家族、師弟、そして組織の闇へと沈んでいく、後味の悪い医療イヤミスです。手術・死・暴力などの描写を含みますので、苦手な方はご注意ください。どうか、最後の一行まで見届けていただけますと幸いです。


その日の午前中、私は八十一歳の女性を助けた。

三つの病院で断られた症例だった。心臓の壁が薄くなっていて、普通に縫えば裂ける。裂けたら、そこで終わりだ。

四時間半かかった。終わったとき、私の術衣は汗で背中が濡れていた。

その足で、私は面会室へ向かった。三十分後に、私を殺しに来る男と会う約束がある。

その男は、面会室に入ってくるなり、こう言った。

 

「先生。俺は、あんたが人を殺してると思ってます」

 

私は、少し驚いた。

驚いたのは、その内容ではない。名刺を出す前に言ったからだ。この男は、椅子に座りもせず、鞄を置きもせず、まずそれを言った。

 

「羽賀といいます」と、彼は続けた。それから名刺を出した。「もの書きです」

 

安っぽい名刺だった。肩書きはない。名前と、携帯番号と、メールアドレスだけ。前歯が一本欠けているのが、話すときに見えた。

 

「どうぞ、おかけください」と私は言った。

 

羽賀は座った。鞄から、使い込んだノートを出した。録音の機械は出さなかった。

 

「録音は、されないんですか。……いや、答えなくて結構です」

「いりません」羽賀は言った。「録音があると、みんな、余計なことを言わなくなる」

 

コートは着たままだった。皺の寄った、袖口の擦れたコートだ。この男は、たぶん、三年前からこれを着ている。

私は、この男に会うと決めたとき、いくつかのことを想定していた。

まず、探りを入れてくるだろうと思った。世間話から始めて、少しずつ核心へ近づいてくる。取材とはそういうものだと聞いている。

あるいは、正面から否定を求めてくるか。噂がありますが事実ですか、と。私が否定すれば、それを記事に載せる。否定したという事実自体が、疑いを世に出す口実になる。

どちらでもなかった。

この男は、最初の一言で全部を出した。手札を、開いたまま卓に置いた。

 

「なぜ、そう思われるんですか」と私は訊いた。

「一年半、調べたからです」

「証拠は、あるんですか」

「ないですね」

 

羽賀は、あっさり言った。恥じる様子もなかった。

 

「あったら、こんなところに来てません。警察に行ってます」

 

その正直さに、私は少し感心した。同時に、警戒した。この種の正直さは、たいてい、何かの技術だ。

 

「それで」と私は言った。「私に、何をお訊きになりたいんですか」

「別に、何も」

「何も?」

「先生が本当のことを言うとは、思ってませんから」羽賀はノートを開いた。「訊いても無駄なことを訊いても、時間の無駄でしょう」

「では、なぜここへ」

「顔を見にきました」

 

私は、その言葉を胸の内で転がした。

 

「顔を、ですか」

「ええ。俺の仕事は、書くことです。書くには、書く相手を知らないといけない。名前と経歴だけじゃ、書けないんですよ。どんな声で喋るのか。どこで笑うのか。どういう質問で黙るのか」

「私を、書くつもりですか」

「もう書いてます」羽賀は言った。「あと、たぶん、これから何年も書きます」

 

この男は、私を読もうとしていない。

太田正敏は、違った。あの老人は、面会室に入ってきた瞬間から、私を読もうとしていた。私の目を、手を、言葉の選び方を。そして、たぶん、読み切った。証拠は一つも掴めないまま、あの人は私が何をしたかを知った。

羽賀は、そうではない。

この男は、私が何をしたかに、たいして興味がない。知りたがってすらいない。ただ、私という人間が世間にどう見えるかを、いま、目の前で測っている。

どちらが厄介か。

私は、後者だと思う。読む者は、読み違えることがある。読み違えれば、そこで止まる。だが、この男は読まない。読まない者は、間違えようがない。

 

「先生。一つだけ、質問させてください」

「どうぞ」

「先生は、なぜ、この取材を受けたんですか」

 

私は、答えなかった。すぐには答えられなかった。

なぜ、受けたのか。

断ることは、いくらでもできた。広報を通せば、それで終わりだ。相手は、三流の媒体に書いている、後ろ盾のないもの書きにすぎない。病院の顧問弁護士に一言頼めば、この男は二度と近づけなくなる。

それをしなかった理由を、私は自分で知っている。

見てほしかったからだ。

あの日、太田に映像を差し出したのと同じことだ。あのとき私は、あの老人に見てほしかった。私が何をしたのかを。たった一人でいい、と思った。

そして、いま。

この男は、太田とは違う。この男が私を見つけたとしても、それは真実を掴んだことにはならない。証拠のない記事は、事実ではない。この男が私を殺人者だと書いても、それは私が殺人者だと証明されたことにはならない。

わかっていて、私はこの椅子に座っている。

私は、たぶん、もう相手を選べなくなっている。読んでくれる者がいないなら、書いてくれる者でもいい。そこまで落ちている。

 

「答えにくい質問でしたか」と羽賀が言った。

「いえ」私は言った。「あなたが、何を書くつもりなのかを、知りたかった」

「怖いですか」

「怖い、というのとは、少し違います」

「じゃあ、何です」

 

私は、少し考えてから言った。

 

「あなたは、証明できないものを書く。それは、あなたにとって、どういうことなんですか」

 

羽賀の目が、ほんのわずかに動いた。

この男は、いまの質問を予期していなかった。取材相手から、そういう問いが来るとは思っていなかった。

 

「……先生。それ、逆に訊きますけどね」羽賀は言った。「証明できないことは、なかったことにしていいんですか」

 

部屋が、静かになった。

私は、その問いを受け取った。二十八年前に見て見ぬふりをした老人が、いまも抱えている問いだ。組織に握り潰された文書を書いた誰かが、抱えていた問いだ。

そして、私が、この三十年、いちばん都合よく利用してきた問いでもある。

証明できないなら、それはなかったことになる。私は、その仕組みに守られて生きてきた。

 

「――俺は、三年前に、人を一人死なせてます」

 

羽賀は、そう言った。

私は、顔を上げた。

 

「取材で回っただけです。記事は出てない。それでも、その人は死んだ。俺が追い詰めたのかどうかは、いまもわかりません」

「なぜ、それを私に」

「先生に、対等だと思ってほしいからです」羽賀は言った。「俺は、正義の側から来たわけじゃない。あんたを裁きに来たんでもない。ただ、書きに来た。書けば人が死ぬかもしれないと知っていて、それでも書く。そういう人間です」

 

この男は、卑怯だ、と私は思った。

自分の手が汚れていることを先に見せて、私に安心させようとしている。これは技術だ。相手の警戒を解くための。

そう考えて、私は自分を疑った。

本当にそうか。この男が、いま、そういう計算でこれを言ったと、私は本当に思っているのか。

私は、他人の胸に、いつも自分の形をした影を置く。ずっと、そうしてきた。城之内にも、篠田にも。目の前の男の言葉を、私は、また、自分の癖で読んでいるだけではないのか。

 

「先生」と羽賀は言った。「一つ、警告しておきます」

「警告」

「俺の記事が広まったら、先生は終わります。裁判では負けません。証拠がないから。でも、世間は証拠を必要としない」

 

彼は、ノートを閉じた。

 

「あの病院の名医が怪しいらしい。そういう話が、じわじわ広がる。患者が減る。学会が距離を置く。若い医者が来なくなる。誰も先生を訴えない。誰も先生を逮捕しない。ただ、少しずつ、手術がなくなっていく」

 

その口調は、脅しではなかった。予報のようだった。天気の話をするように、この男は私の終わり方を説明していた。

 

「……」

「腕のいい外科医が、メスを握れなくなる。それが、いちばん効くと俺は思ってます」

 

私は、その言葉を聞きながら、内ポケットの封筒のことを考えていた。

今朝、学会から正式な文書が届いていた。副会長就任の打診である。返答の期限は来月末。理事会での承認を経て、来春には決まる。

三十年やってきたことの、一つの答えだと思った。届いた封筒を、私は二度読んだ。

いま、目の前の男は、その三十年を三か月で崩せると言っている。

――できるのか、と私は考えた。

できる、と思った。この男が言っているのは、証明の話ではない。空気の話だ。空気は、書類より速く動く。

私は、その言葉を、静かに聞いていた。

なぜ、この男にそれがわかるのか。

考えて、答えはすぐに出た。この男自身が、そうやって潰されたからだ。訴えられたわけでも、捕まったわけでもない。ただ、書く場所が一つずつ消えていった。

この男は、私のいちばん柔らかいところを、正確に突いている。読まずに、当てている。

地位でも、名誉でも、金でもない。この手だ。この手が動かせなくなること。それが私にとって何を意味するかを、この男は――たぶん、勘で――知っている。

 

「一つだけ、訂正させてください」と私は言った。

「どうぞ」

「私は、人を助けてもいます。……ただ、それは訂正になりませんね」

「知ってます」羽賀は言った。「先生に助けられた人の数のほうが、たぶん、ずっと多い。三桁は違うでしょう」

「では、なぜ」


*  *  *

 

「関係ないからです」羽賀は、まっすぐに私を見た。「九百九十九人助けて、一人殺したら、それは人殺しです。九百九十九人分の善行で、一人の死が消えるなら、この世で誰も裁かれない」

 

「一人ではありません」

 

私は、そう言った。

言ってから、自分が何を言ったのかを理解した。

羽賀は、顔を上げた。ペンは、動かなかった。

 

「……そうですね」と、彼は言った。「一人とは限らない。仮の話です」

 

この男は、いま、私の言葉を、一般論への訂正として受け取った。

受け取って、書かなかった。

私は、その二秒を見ていた。

二秒で、私が三十年隠してきたものが、机の上を通り過ぎて、消えた。

――助かった、と思わなかった。

そのことのほうが、私には応えた。

その通りだった。反論の余地は、一つもなかった。

私は、三十年、その計算式で自分を許してきた。私が救った命の数を数え、そこから引き算をして、まだ黒字だと思ってきた。

この計算を、私はいま、初めて間違いだと思った。

羽賀が帰ったあと、私は、しばらく面会室に残っていた。

テーブルの上に、名刺が一枚残っていた。安っぽい紙の。

この男は、私を殺しに来た。証拠ではなく、噂で。裁判ではなく、世間で。そして、それは私が最も防ぎようのない方法だった。

私は、これまで自分を守ってきたものを、一つずつ数えた。

記録の完璧さ。それは効かない。世間は記録を読まない。

地位。それも効かない。むしろ標的になる。

組織の庇護。これがいちばん怪しい。氷室は、私が世間の的になった瞬間に、私を切るだろう。腐敗は、自分を守るためなら、いちばん切れる刃も捨てる。

私が三十年かけて築いたものは、すべて、この男の前では役に立たない。

そして、それを私はどこかで待っていた気がする。

 

*  *  *

 

夕方、新村が医局に来た。

 

「先生。あの記者、来てたんですか」

「よく知っているな」

「受付で、名刺を見ました」彼は言った。「羽賀という人ですね。ネットの連載、読んでます」

 

私は、この青年の顔を見た。

 

「読んで、どう思った」

「よく書けてます」新村は、あっさり言った。「証拠は一つもないのに、読ませる。ああいうのは、才能でしょうね」

「そうか」

「先生」新村は、少し声を落とした。「あの人、放っておいて大丈夫ですか」

 

私は、その言い方に、耳を止めた。

放っておいて。

この青年は、いま、私に何を訊いたのか。放っておかない場合の選択肢が、この男の頭の中には、あるということか。

 

「大丈夫だ」と私は言った。

「そうですか」

 

新村は頷いて、それ以上は言わなかった。頷き方が、あまりに自然だった。

三年半前も、この青年は、こういう頷き方をした。私が相馬の手術を、彼に委ねたときに。

 

その夜、私は病棟に上がり、鵜飼の病室を覗いた。

消灯後だった。眠っていた。

この男は、あと半年ほどで死ぬ。私が黙ったことと、新村が選び続けることの、その結果として。

羽賀は、この男が死んだあと、記事を書くだろう。そして、私は世間に殺される。

順番を考えると、おかしなことになる。私が鵜飼を殺し、その鵜飼の死が羽賀の武器になり、羽賀が私を殺す。

一本の糸だ。

四十一年前、母が私に白い包みを持たせたところから伸びている、長い一本の糸。

その先が、いま、私の首に届こうとしている。

私は、その糸を自分で手繰り寄せてきた。誰にも頼まれずに。

抽斗を開ける音がする。母が薬を仕分ける音だ。四十一年経っても、あの音だけは、いまも同じ高さで聞こえる。

――君は、これを因果応報と呼ぶだろうか。

私は、そうは呼ばない。因果応報というのは、正しい者が報われる話だ。この物語には、正しい者が一人もいない。

羽賀が帰った翌週、鵜飼の三か月目の外来があった。

 

*  *  *

 

私は、その日の記録を、夜になってから開いた。

腎機能を考慮して増量を見送った、と書いてあった。正当な判断だ。どこにも、間違いはない。

私は、その一行を三度読んだ。三度読んで、カルテを閉じた。

開いたところで、何が変わる。私には、口を出す立場がない。主治医ではないからだ。

――そう考える自分を、私はもう咎めない。咎めるだけの資格が、とうにないからだ。

それでも、私はもう一度カルテを開いた。今度は、変更履歴を開いた。

この記録が、いつ書かれたかが出る。

外来の終了時刻は、十六時二十二分。記載は、十六時二十三分。

一分である。

診察が終わって、一分で、この判断の根拠を書き終えている。

――迷っていない。

私は、画面を閉じた。

その翌月、新村が報告に来た。

腎機能を考慮して、据え置きました、と。

私は、わかった、と言った。

それだけである。

――言うなら、いまだった。

言うのに、五秒かからない。あの検査は、やったのか。それだけである。

私は、言わなかった。

これで、一度目である。


(第六章 了)

 


本作はフィクションです。登場する人物・団体・病院・地名・出来事はすべて架空であり、実在のいかなる個人・組織・医療機関とも関係ありません。


一、医療・外科手術・法医学・司法手続き(調査法解剖、死体検案書、関係法令等)に関する描写は、いずれも物語を成立させるための演出です。医学的・法的な正確性を保証するものではなく、現実の手技・手順・制度を忠実に再現したものでもありません。また、作中のいかなる行為についても、その再現・実行を意図し、あるいは推奨するものではありません。


二、本作は、殺人・児童虐待・自殺・毒殺などの重い主題を含みます。これらは物語の主題を描くための表現であり、そうした行為を肯定・助長する意図は一切ありません。


三、専門的・制度的な事項については、必ず各分野の専門家および公的機関の最新の情報をご確認ください。本作の記述をもって、現実の判断の根拠とすることはお控えください。


――この物語は、事実ではなく、物語です。


毎日、22時に投稿予定です。(全10章)

それでは、次の章で、またお会いできますように。


隠岐群青

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