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第五章 接触

心臓外科医・黒木誠、四十五歳。


彼には、開いた胸の奥から「その人の来歴」を読み取ってしまう才能があった。顔は笑える。言葉は飾れる。だが、心臓だけは嘘をつかない――。法が裁けぬ罪を、彼は手術台の上で、静かに裁いていく。生と死、家族、師弟、そして組織の闇へと沈んでいく、後味の悪い医療イヤミスです。手術・死・暴力などの描写を含みますので、苦手な方はご注意ください。どうか、最後の一行まで見届けていただけますと幸いです。


大学の法医学教室は思っていたより静かな場所だった。

羽賀は廊下の椅子で待っていた。壁に学生向けの実習日程が貼ってある。窓の外を部活の学生が走っていく声がした。人が死体を切る場所というのは、もっとそれらしい空気があるものだと思っていた。実際にはただの古い建物だ。

この老人に会うのは一年半ぶりになる。蒲生剛造が死んだすぐあとに、羽賀はここへ押しかけた。この人が検案書に判を押していないことを嗅ぎつけたからだ。結果は追い返された。だが、あの日の会話を羽賀はよく覚えている。

――俺と、あんた。どこが、違うんです。

そう訊いたとき、この老人は、しばらく言葉に詰まった。詰まってから、こう答えた。私は、証明できるまで、口を閉じている。お前は、証明できなくても、口を開く。それだけの違いだ、と。

 

あれから一年半。

あの人は結局、口を閉じたままだ。そして羽賀は、口を開き続けて、いまだに七十三人にしか読まれていない。

どちらが正しかったのか。まだ、決着はついていない。

 

「羽賀さん」

 

声がした。振り向くと太田正敏が立っていた。

白衣ではなく、くたびれたカーディガンを着ていた。去年より、痩せている。髪も白いものが増えた。

 

「お忙しいところ、すみません」

「暇だよ」太田は、そう言った。「三月で、定年だ。……いや、暇ではない。用がないだけだ」

 

部屋に入る前、廊下で若い男とすれ違った。太田に会釈をして、通り過ぎていった。

 

「うちの助教です」と、太田は言った。「十年前、私が書いた鑑定書を読んで、この道に来たそうで」

 

その言い方に、照れはなかった。事実として述べただけらしい。

 

「その鑑定書は、裁判では使われませんでした。証拠として採用されなかった。……ですが、あれを読んだ学生が一人、この教室に来た」

 

太田は、湯呑みを二つ出しながら続けた。

 

「二十八年やって、そういうことが、三度ありました」

 

三度。羽賀は、その数を頭の中で転がした。二十八年で、三度。

通されたのは狭い教授室で、本と書類が床にまで積んであった。

積んである書類の一部は紐で縛られていた。処分するものと残すものを、仕分けている途中らしかった。

壁の書棚には隙間ができていて、すでにいくらか運び出したあとらしかった。二十八年の荷物を、三月までに畳まなければならない。

太田は湯呑みを二つ出した。茶を淹れる手つきが、ひどくゆっくりしていた。

 

「それで。何の用だね」

「鵜飼庸介という男が、帝都大に入院しています」

 

太田の手が、止まった。ほんの一瞬だった。

 

「知らん名だ」

「十二年前、医療機器の不具合を握り潰した側にいた人間です。その機械が止まって十四人が死んでいますが、証明はされていません」

「……ほう」

「担当は、黒木誠です」

 

太田は湯呑みを羽賀の前に置き、それから自分の椅子に座った。

長い沈黙のあいだに、窓の外でまた学生の声がした。

 

「先生」と、羽賀は言った。「あなたに、教えてほしいことがあります」

 

太田は答えなかった。羽賀は、かまわず続けた。

 

「去年、あなたは、蒲生剛造の死因について、記者会見で言いましたね。手術との関連は、非常に低い、と」

「言った」

「ない、とは言わなかった」

 

太田の目が、少しだけ動いた。

 

「あの会見の映像、俺は、十回以上見ました」羽賀は言った。「あなたは、最後まで、ないとは言わなかった。低い、としか言わなかった。低いというのは、ゼロじゃないという意味だ」

「……言葉の綾だよ」

「検案書も、そうです」

 

太田が、顔を上げた。

 

「開示請求で、遺族経由で、写しを見ました。あなたはあそこに、因果関係は認められない、とは書いていない。現時点の科学的知見では、これを証明できない、と書いている」

 

湯呑みを持つ太田の手が、机の上で、止まっていた。

 

「認められない、と、証明できない。違いますよね」と羽賀は言った。「認められないのは、ないという意味です。証明できないのは、あるかもしれないという意味だ。あなたは、そこだけ、譲らなかった」

 

太田はしばらく黙っていた。それから湯呑みを置いて、言った。

 

「よく、読んだな」

「それが、仕事なので」

「一年半、あの二行に気づいた人間は、あんたが二人目だ」

「一人目は」

「……相手のほうだ」太田は言った。「あの男は、たぶん、すぐに気づいた」

 

*  *  *

 

二十八年で、太田のところに来た若い人間は、三人いる。

一人は学者になり、一人は臨床に戻り、一人は連絡が途絶えた。

三人である。二十八年で三人。

太田は、その数を数えている。数えているのは、それだけが増える数字だからだ。ノートの症例番号は、数えたくない。

太田正敏は、この一年半、誰にもこの話をしていない。

佐伯にもしていない。あの刑事は、太田が何を書いたかを知っているが、なぜそう書いたかは、訊かなかった。訊かないでいてくれた。それがあの男の優しさだった。

だから、いま、目の前の記者に何かを話すのは、太田にとって、初めてのことだった。

この男を、太田は信用していない。

証拠のない話を書く人間だ。書けば人が死ぬこともある。太田はそういう死体を何体か見てきた。週刊誌に名前が出て、その一週間後に、首を吊る人間がいる。

解剖台の上でそういう死体を見るとき、太田はいつも同じことを思う。この人を殺したのは誰か、と。

法医学はそれに答えられない。首を吊ったのは本人だ。それが死因の欄に書けるすべてだ。追い詰めた人間の名前を書く欄は、あの書式にはない。

だが――と、太田は思う。

この一年半、太田の私的なノートには、一行も書き足されていない。

あの日、太田は書いた。私は、諦めない。必ず、暴く。次に、この男が同じことをしたとき。そのときこそ、間に合わせる。

次は来なかった。いや、来ていたのかもしれない。太田が気づかなかっただけで。定年間近の老いた法医学者の目の届かないところで、あの男は、また誰かの心臓に何かをしていたのかもしれない。

太田には、もうそれを追う手段がない。解剖台に運ばれてこない死体を、太田は読めない。

目の前の男にはそれがある。

証拠がなくても書ける、という、太田がいちばん軽蔑してきた手段が。

 

「先生」と、羽賀は言った。「あなたのノートを、見せてください」

 

太田は、顔を上げた。

 

「なぜ、それを」

「去年、佐伯という刑事さんが、酔って少しだけ話しました。あなたが、二十八年分の記録をつけていると」

 

佐伯め、と太田は思った。あの男は、酒に弱い。

あの刑事も、去年、定年を迎えた。いまは再雇用で、書類の整理のような仕事をしている。捜査権限は、実質、もうない。

太田と佐伯は、二人とも、同じ場所から少しずつ押し出されている。押し出されたころには、その声は、もう誰にも届かない。よくできた仕組みだ、と太田はまた思う。

 

「見せられん」

「なぜです」

「あれは、私の懺悔だ。見せるためのものじゃない」太田は言った。「それに、あんたに渡せば、記事になる。記事になれば、私の書いたことが、証拠として扱われる。冗談じゃない。あれは、証拠じゃない。証明できなかった死の、一覧表だ」

「証明できなかった死は、なかったことになるんですか」

 

太田は、その問いに、答えなかった。

二十八年前から、その問いだけが、太田の中にある。答えは、出ていない。

 

「ノートは、いい」と、羽賀は言った。案外あっさりと。「代わりに、一つだけ教えてください」

「何だ」

「あの医者は、どうやって殺していると思いますか」

 

太田は、湯呑みを両手で包んだ。茶は、もう冷めていた。

 

「わからん」

「見当も?」

「見当なら、ある」太田は言った。「だが、それは言わん」

「なぜ」

「あんたが書くからだ」

 

羽賀は、黙った。

 

「私がここで、こういう方法があるかもしれん、と言えばだ。あんたは、それを書く。書けば、世間は、それを事実だと思う。……そして、もし、私の見当が外れていたら」

 

太田は、そこで一度、言葉を切った。

 

「私も、一度、それをやった。確信して、他殺だと言い張って、無実の男を追い詰めた。あの男の家族は、ばらばらになった。あとで、ただの事故だとわかった」

 

羽賀は、その話を初めて聞いた。

 

「……先生も、やってるんですね」

「やっている」太田は言った。「だから、私は、証明できるまで口を閉じる。それは、正義感じゃない。臆病だ。もう一度あれをやったら、私は、たぶん、死ぬまで立ち直れん」

 

部屋が、静かになった。

羽賀は、冷めた茶を飲んだ。ひどく渋かった。

 

「先生は、あの医者に会ったことが、ありますね」

「一度だけ」

「どんな男でした」

 

太田は、少し考えてから、答えた。

 

「私に、よく似ていた」

 

羽賀は、その答えを、書き留めなかった。書き留めるべきだと思ったが、なぜか、手が動かなかった。

 

「先生」

「なんだ」

「一つだけ、言わせてください」羽賀は言った。「俺は、三年前に、人を一人死なせています。俺が取材で回った、それだけで。書いてもいないのに」

 

太田は、羽賀の顔を見た。

 

「だから、あなたの言うことは、わかります。俺も、たぶん、あなたと同じ場所に立ってる。ただ――」

 

羽賀は、そこで、言葉を選んだ。

 

「あなたは、証明できるまで待つと言って、一年半、何も書かなかった。そのあいだに、鵜飼という男が、あの医者の手術台に乗った。俺の見立てが正しければ、あの男は、半年以内に死にます」

「……」

「待っているあいだに、人は死ぬんです。それは、あなたが、いちばんよく知っているはずだ」

 

太田は、目を閉じた。

二十八年前の風呂場が、また、瞼の裏に浮かんだ。あのとき太田も、待った。証拠が出るまで、と。その半年後に、二人目の妻が死んだ。

この記者は、太田の急所を、知らずに突いている。いや――知っていて、突いているのかもしれない。

どちらでも、同じだった。突かれた場所は同じだ。

羽賀が帰ったあと、太田は、机の抽斗を開けた。

飴色になった、擦り切れたノート。綴じ糸がいよいよほつれている。

最後のページを開いた。一年半前の、あの一行が、そこにある。

――必ず、暴く。次に、この男が同じことをしたとき。そのときこそ、間に合わせる。

太田はそのページをしばらく見ていた。それからペンを取り、新しい行にこう書いた。

 

「鵜飼庸介。帝都大附属病院に入院中。担当、黒木誠。……次が、来たのかもしれない」

 

書いてから、太田は、自分の手が震えているのに気づいた。

三月で定年になる。解剖にも、もう入っていない。この老人にできることなど何もない。

何もないのに、この手は、まだ震える。

太田はノートを閉じ、抽斗に戻した。鍵はかけない。二十八年、一度もかけたことがない。盗まれて困るものではないからだ。

これを読んで意味がわかる人間は、この世に、たぶん二人しかいない。書いた本人と、書かれた側の男だけだ。

 

*  *  *

 

その夜、羽賀は、黒木誠に取材を申し込むメールを書いた。

病院の広報を通す。もちろん、断られるだろう。三年前から、そういう申し込みは、九割方断られる。

それでも書いた。書き方を、羽賀は工夫した。

ある名医の、不審な患者たち。この連載について、ご本人のお話を伺いたい。

連載の題をそのまま入れた。これを読めば、あの医者は、羽賀が何を追っているかを、正確に理解する。

断られたらそれでいい。断られたという事実を羽賀は書く。

 

三日後、返信が来た。広報部からではなく、黒木誠の個人アドレスからだった。

本文は一行だけだった。

 

「いつが、ご都合よろしいですか」

 

羽賀は、その画面を、しばらく見ていた。

これまで羽賀が追ってきた相手は、みんな、逃げた。逃げるのが普通だ。応じる人間は、たいてい、何かを隠していない人間か――あるいは、隠しきる自信のある人間だ。

どちらだろう、と羽賀は思った。そして、たぶん後者だとも思った。

羽賀は返信の一行を、もう一度読んだ。

いつが、ご都合よろしいですか。丁寧な、隙のない文だった。この一行を書くのに、あの医者は何秒かけただろう。

面会は、その週の金曜に決まった。午後二時。病院の面会室。

羽賀は、当日までに訊くことを二十ほど書き出した。書き出してから、全部消した。

訊いても無駄だ。あの男は、本当のことを言わない。

それでも会うのは、顔を見るためだ。

――録音機は、持っていかないと決めた。

三年前から、そう決めている。理由も、はっきりしている。録音があると、みんな、余計なことを言わなくなる。

その理由が正しかったかどうかを、羽賀は、まだ一度も検証していない。


(第五章 了)

 


本作はフィクションです。登場する人物・団体・病院・地名・出来事はすべて架空であり、実在のいかなる個人・組織・医療機関とも関係ありません。


一、医療・外科手術・法医学・司法手続き(調査法解剖、死体検案書、関係法令等)に関する描写は、いずれも物語を成立させるための演出です。医学的・法的な正確性を保証するものではなく、現実の手技・手順・制度を忠実に再現したものでもありません。また、作中のいかなる行為についても、その再現・実行を意図し、あるいは推奨するものではありません。


二、本作は、殺人・児童虐待・自殺・毒殺などの重い主題を含みます。これらは物語の主題を描くための表現であり、そうした行為を肯定・助長する意図は一切ありません。


三、専門的・制度的な事項については、必ず各分野の専門家および公的機関の最新の情報をご確認ください。本作の記述をもって、現実の判断の根拠とすることはお控えください。


――この物語は、事実ではなく、物語です。


毎日、22時に投稿予定です。(全10章)

それでは、次の章で、またお会いできますように。


隠岐群青

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